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「二つの似た伝説!」(徳善大王と彦星)

背振山縁起の説話 (修学院より)


遥か昔、インドの南天竺国に徳善大王(とくぜんだいおう)という仏法を篤く敬う王がいました。大王には優れた14人の王子と産まれたての15番目の王子がいました。
ところが、15番目の王子が、生後7日にしていなくなってしまいます。
悲嘆に暮れた大王は、*龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)というインドの偉いお坊様に頼んで、神通力で探してもらうことにします。
すると、龍馬に乗って背振山に飛来し、お坊さんの修行を助ける護法神となって活躍している王子を見つけました。


 龍樹菩薩(*玉依彦神)が、このことを大王に報告すると大変喜び、大王はお后(弁財天)達を引き連れ、背振山へと赴き、王子と再会します。
以来、大王達は背振千坊の守護神になりました。
15番目の王子は「乙護法善神」として中宮に祀られ、父の徳善大王は「不動明王」として下宮、母のお后は「弁財天」として上宮に、それぞれお祀りされています。
(*玉依彦神:日吉大社では鴨玉依姫の子とされている。)

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     修学院の乙丸・若丸、肥前狛犬の原型ともいわれる。

彦山開山伝説

 もう一つは、英彦山に伝わる彦山流記に書かれている「彦山開山伝説」である。

「彦山権現は、もと天竺の摩訶提国にいたが、東方の人びとの幸せをはかるために、どこに行ったらよいのかを知りたいと五本の剣を投げた。そして甲寅の年に中国天台山から海を渡り、豊前国田河郡大津邑に来た。そこを「御船」という。このとき、彦山権現は香春明神に泊めてほしいと宿を頼んだが、狭いことを理由にことわられた。
 怒った彦山権現は、金剛童子たちに命じて香春岳の木を引き抜かせてしまった。それで香春岳は、岩石が露出して樹木が少ない山肌になってしまった。その後、権現は彦山にやってきたので、地主神の北山三御前は住む所をゆずり、みずからは中腹に留まっていたが、やがて宗像郡許斐山に移った。敏達天皇丙申歳のことであるという。(※許斐山-大己貴、宗像-三女神:鎮西彦山縁起)
 彦山権現は、彦山で八角三尺六寸の水晶石を御神体としていたが、般若窟の上に摩訶提国から投げた剣を見つけた。それで、四九窟に御神体を分けて、その守護のために金剛童子たちを置いた。また、彦山三峰には、法体・俗体・女体の三所権現が神の姿であらわれ、人びとの幸せをはかることこのうえなく、その霊験あらたかであった。

 その後彦山権現は、八二年後に伊予国石鎚峰に第二剣を見つけて移り、更に六年後第三剣を淡路国鶴羽峰に、また六年後に第四剣を紀伊国牟漏郡切部山玉那木淵の上に、その六一年後に第五剣を熊野新宮南神蔵峰に見つけて移った。更に六一年後に新宮東阿須賀社北石淵谷に勧請されて崇拝されていたが、二〇〇〇年後甲午歳正月十五日に元のように彦山に帰って来た。」(彦山流記より:1213年)

さらには、これから取ったと思われる「熊野権現垂迹縁起」がある。

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アユダ国-伽耶-天之御中主神波羅奈国-金山彦マガダ-忍穂耳


 これらの伝説には「天竺から来た」という共通があるものの一見何の関係もないと思われるが、ところが「垂迹神」と別の証言を使うと面白い答えが出てくる。つまり「徳善大王とは誰か」が分かるのである。この答えを導くには、修学院で教わった、吉田扶希子氏の研究「脊振山信仰の源流 西日本地域を中心として」が必要になる。大谷山伽耶院(兵庫県三木市)の話として徳善大王は「深沙大王と同一人物か」として「毘沙門天の化身」であるとしている。このお寺は、本尊が毘沙門天(大年神=忍穂耳)である。本尊の伝承を伝えているものと思われる。

 古くは大谿寺あるいは東一坊と称したが、1681年に後西上皇の勅によりインド仏陀伽耶に因む寺号、伽耶院と改めた。深沙大王(大将)とは、調布市の深大寺等にも祀られ三蔵法師が西域の砂漠で助けられた鬼神である。砂漠で危難を救うことを本誓とする鬼神で、病気を癒し魔事を遠ざけると言われる。

 つまり徳善大王とは天之忍穂耳命(大年神)のことであり、二人は同じ毘沙門天である。(表も参照)しかも共通の妻は「弁財天」でもある。二つの伝説は「同じ人物」の伝承とみていいと思われる。弁財天には二人の夫があり始め忍穂耳そして大国主である。大国主は宗像の許斐山に退いているし、地域性を考慮すれば大王は忍穂耳であろう。
(*詳細は郷土誌論文にて)

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英彦山神宮 忍穂耳(彦星)を祀る

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