先生、あの時母は泣いてなかったんです
私は昔から水泳の授業が苦手だった。
毎年25メートルプールを泳がされて、毎年泳ぎきれず補修を受けさせられていた。
小学校4年生の時。
何度目かの補修を受けている私の耳に、他の先生と話している担任の先生の声が聞こえてきた。
「この前〇〇(私の名前)ちゃんのお母さんと話した時にね、〇〇ちゃん頑張って補修を受けてるおかげで、少し長く泳げるようになったんですよって言ったらね」
「お母さん泣きながら、先生、ありがとうございますって言ってくれたのよ」
それを聞いて私はどうしようもなく泣きたくなった。
親を心配させる自分に対しての情けなさなのか、こうして他の先生に母のことを話してくれる先生に対しての感謝なのか、未だにわからない。
ただ、このままだと様々な思いがそのまま溢れてしまいそうで、私はプールに深くその身を埋めた。
その日の夜、私は母にその話をした。
「お母さん、泣いたんだってね」
ちょっと茶化したように言ったのは、そうしないとまた話を聞いた時の感情に戻ってしまいそうだったからだ。
「私、泣いてなんていないわよ」
母は照れているんだと思った。
「泣いたんでしょ」
照れなくていいのに。
全部知っているのだから。
私は話し続けた。
「ハンカチを出して目を拭ってたって先生言ってたんだから」
「ああ、それね」
母は思い出したように言った。
そんなわざとらしく言わなくともこっちは全部聞いているのに。
「やっぱり泣いてたんでしょ?」
「違うわ、私、目を拭いただけよ」
「は?」
照れ隠しにもほどがある。
そこまで勿体ぶられると腹立たしいものがある。
「だから、泣いてたんでしょ!?」
「泣いてたんじゃなくて、私、この前から目の調子が悪くて。目にゴミが溜まりやすいのよ。そうすると勝手に涙が落ちてくるの。あの時もそれで慌てて目を拭いたのよ」
嘘をついているようには見えなかった。
思えばたしかにその頃母はハンカチで目を押さえることが多かった。
だがそんな理由だとは。
というか。
「…先生、お母さんが泣いてたと思ってるみたいだよ」
「そうねぇ、でもわざわざ違いますっていうのもねぇ」
S先生、あの時言えなくてごめんなさい。
母は泣いてなんていませんでした。
今でも母がハンカチで目を拭く度にその事を思い出します。
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