さよならシャボン(32) 決意
Story : Espresso
Illustration : Yuki Kurosawa
太陽が昇り始めた頃
一応の保険でセットしてあるアラームが鳴るよりも、体内時計は正確に私の意識を呼び覚ます
それは誇らしいやら悲しいやら、既に何十年という積み重ねにより私の中に刻み付けられたものだ
目を開けると先ずはアラームが鳴る前に止めておく
染み付いた動作で布団から身体を引き摺り出し、シャツを羽織り、衣装棚から肩線も袖口もよれてしまっているジャケットを取り出して袖を通す
雑然としたリビングに移動すると電気ケトルとリモコンのスイッチを入れる
テレビでは今人気で引っ張りだこだというニュースキャスターが今朝のニュースを読み上げている
なんでもバラエティ人気があるらしい、という話を誰かが言っているのを耳にした
自分より一回り以上年下であろう若い女性だ、それでいて、収入は自分よりも多いし、きっと社内でもチヤホヤされて天狗になっているに違いない
どんな贅沢な生活をしているのだろう、自分は何年もこんな生活だというのに
読み上げているニュースの内容なんてちっとも頭に入ってこない
…なにを考えているのか、と被りを振る
そもそも自分と比較するような存在ではない
溜息と同時にお湯が沸いた音が鳴る
テレビを消し、多めのインスタントコーヒーをお湯に溶かし、冷水を注ぐ
少し熱い程度に調節したコーヒーを義務であるかのように一息に飲み干せば、鞄を手に取り、玄関を出た
「お疲れ様でしたー!」
努めて大きな声で、ハリのある声でスタジオを後にする
原稿を読み終え、朝の収録を終えたらすぐに昼の仕事への移動だ
マネージャーの車に乗り込み、次の現場の説明を受けながら、用意されているコンビニ弁当を口にする
…チキン南蛮弁当
朝を食べていない自分にはやや重い油ものだ、自分の好みは何度か伝えている筈だが、一向に改善されないので伝えることも諦めた
べちゃべちゃになった衣を纏った鶏肉を口にしながら、マネージャーの言葉に相槌を打つ
次の現場は自分が初めてレギュラーになった番組だが最早面倒くさい、という感覚
はじめて番組表に自分の名前が出ているのを目にした時は感激したものだけれど、それが意味することは過密スケジュールの幕開けだった
どうしてニュースキャスターになりたかったんだっけ
そんな初心も思い出せなくなってしまったが、弱音を吐く自分が許せなくて今の仕事を続けている
後輩や先輩からは羨望、嫉妬の眼差しを向けられる
『毎日贅沢してるんだろうな』
そんな風に先輩に嫌味を言われたが、私が一番口にしているものと言われればまず間違いなくコンビニ弁当だ
これが贅沢だというのだろうか?
なんだか可笑しくなって、くつくつと喉を鳴らして笑いそうになるのを堪える
自分も子供の頃、有名人といえば贅沢な生活をしていると思っていた
だが、自分がなってみてようやく分かったのは贅沢をする時間がそもそもないということ
しかし、先輩はそんなことも知らないのだ、自分よりも何年も先に入社していながら、後輩に嫌味を言うくらいの器量の人間なんだから当然と言えば当然か
そう思えば、自分は彼らより一段上のステージに立っているのだ、という優越感が私を満たしてくれる
思わず口角が上がる
そのまま嫉妬心に身を任せておけばいい、その間に私はもっと上に昇っていくのだ
マネージャーの話に変わらず適当な相槌を打ちながら、眺める窓の外には黒いスーツの集団
私はあの中には戻らないと誓ったのだ
目を閉じ、次の現場へ向けて意識を切り替えた
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「さよならシャボン」チーム
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