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第一章 04 スマトラ沖地震M9.1と巨大津波

新潟中越地震のあと、微動は阪神大震災後ほど出ていなかった。もし微動が続いていれば更なる地震に警戒していたはずが、その記録はなかった。このことで微動が大型地震に「先行して」発生するものであるという確信は強まった。阪神大震災後には、より震源に近い吹田市に居住したため半年後までその微動が減衰するのを確認できたとも考えられる。地震の規模の違いもある。ただ、キュキュ。。という家鳴りだけは、地震後に一時的に弱まったものの散発的に出ていた。(このキュキュ。。という家鳴りには微動は全く伴わなかった。)
東京都府中市の鉄筋コンクリートのこの住居から、2006年ごろに国分寺市のより軽量の賃貸に移った時にはキュキュ。。という家鳴りはしていなかった。住居の構造や重さによるもので、家鳴りがするには国分寺の住居は軽い構造だったのかもしれない。

新潟中越地震では群発する大きな余震が収まっていくなかで被災地に冬が訪れ、余震をおそれ車中泊する人々のなかにはエコノミークラス症候群で命を落とされるケースが相次いだ。支援は都市型の阪神大震災とは異なる課題も浮上し手探りが続いていた。通信手段はガラケーがメインでSMSが役立つ一方で基地局のダメージやバッテリー切れ問題も。多数のがけ崩れと河川閉塞などの被害も復旧に時間がかかっていた。それでも被災地は苦難を乗り越え年末年始を前向きに迎える、動きになりつつあった。

年末年始を地元で過ごすために東京から岡山県西部の義実家に滞在中、偶然にもある微動を捕捉する。12/23日午後10時ごろ、平屋のこたつで寒さをしのいでいた時に瞬間的な衝撃波のような微動。はっとして注意を傾けると続いて先よりやや弱い相似な波動が来た。そのあとは静穏化。
それは近くの小さい地震だったのでは?となるのですが微動と普通の地震が全く違う揺れであるのは当時居住していた東京の地震の多さのなかで確認できていた。
午後10時のこの微動を、記録しなければならない、私はこたつから出て寒い部屋までシステム手帳を取りに行き、この微動を記録した。当時のその家は天井断熱が非常に薄い平屋なので放射冷却がものすごく布団の端が朝には凍り付いていたほどだった。正直こたつから這い出るのはかなり億劫だったがそんなことを言っていられないほど記録の重要性を感じた。ガラケーすら持っておらずメモしたりpcにメールを飛ばすこともできない時代だった。

寒い部屋まで行って手帳にメモ、重要性にかられなぜこれを記録したのか。この瞬間的な微動を捕捉した時、記憶の底にあった感覚が一瞬で呼び覚まされたからであった。これは阪神大震災前の微動が地震と関連しているのではないかと思い至り、気象庁に確認するに及んだ、一つの古い仮説そのものだった。それは1988年に遡る。
1988年まだソ連が85年にゴルバチョフ政権に代わったすぐ後だった。

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