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甘やかしだけれどそれで良かった

洗顔料がきれたことを忘れてお風呂に入ってしまい、浴室から出ると寒いので彼の洗顔料を使った。

男性仕様の洗顔料を顔に当てると、懐かしい匂いがした。お父さん、いや、おじいちゃんの匂い。わたしかいちばん初めに覚えたであろう男の人の匂いがした。なんとなくほっとした。安心感のある懐かしい匂いがたまらなくて、思い切り息を吸い込んだら鼻に入ってくしゃみがでた。ひとりきりで、ふっと笑ってしまった。そんな冬至の日だった。

ふと思い出したようにおじいちゃんに電話をかけた。おばあちゃんは電話口でおじいちゃんがボケてきて大変だと嘆いていた。代わってもらった電話口でおじいちゃんは確かに数ヶ月前より弱々しい声をしていた。涙が出た。

優しくなりたいと何度も誓った。でも、優しくなれない夜があった。それでも優しさが強さだと知っているのは、その優しさでいつも守ってくれたおじいちゃんとおばあちゃんの記憶があるからだと思う。

遊びに行くと、種類のちがうケーキを何個も買ってくれて、いくつでも食べていいよ、と言った。カルピス、コーラ、お茶、牛乳、なんでもあるよ、って冷蔵庫にたくさん用意をしてくれた。食べたいもの、着たいもの、行きたいところ、欲しいものがなんでも手に入ってしまう、祖父母の家はわたしにとって楽園そのものだった。

これを優しさと言ってよいのかは少々迷う。それは年に数回しか会えない孫への盛大の甘やかしだということが今なら分かるから。

でもやっぱり、甘やかしだったけれど、それでも優しさだったと思える。大人が希望を叶えてくれる世界は、子ども時代に必要な時間なのではないかと思う。

恵まれた環境に産まれただけだよ、と思われるかもしれないけれど、それでよかった。わたしはたくさん愛されたという自信に、いま死ぬほど助けられている。


おじいちゃんとおばあちゃんと孫、であり、大人と子どもである。だから、愛されてよかったのだと思う。愛されていていいのだと思っている。

そんなことを考えながらシャワーを浴びていた。わたしにとって一年の節目は、何よりも誕生日だから、あんまり年末年始は重要ではないのが正直なところではある。でも、なんとなく節目の大切さを感じて、明日おじいちゃんとおばあちゃんに会いに行くことにした。

会えてあときっと数十回。
一緒に眠る夜はもうないかもしれない。
同じだけの量のご飯を食べたり、同じスピードではもう歩けないかもしれない。そう思うと切なさが胸いっぱいに広がる。

わたしをおぶってくれたおじいちゃんの足腰はどこかへ行ってしまったのだ。悲しいけれど、生きるってそういうことなのかな、と思う。

拾い集めて、今度はそれを落としていく。

誰かが拾ってくれますように、と想いを込めながら。わたしは誰かのその蒔いた糧をひとつ残さず拾いたいな、と思う。

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