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愛は戦いじゃないよ

ここにはなにもない。なにもないようで全てある。全てあるようでなにもないと感じる。そのもどかしさと闘うように、わたしはここでたくさんの愛に触れている。

もうすぐ、この街に住むのだ。実感があるような、ないような。自分のことなのに、どうしてこれほどここの街にいると夢現つになってしまうのだろう。

いまの自分にぴったりな本と巡り合った。吉本ばななさんの「ミトンとふびん」。沖縄にいるころ、よくばななさんの本を読んだ。「デッドエンドの思い出」が一番好きなばななさんの本だったけれど、それに並ぶわたしのお気に入りの本になった。

「愛は戦いじゃないよ。愛は奪うものでもない。そこにあるものだよ。」
吉本ばなな『ミトンとふびん』

仕事終わり、彼の住む街へ向かう電車のなかでハッとした。愛は、守るために戦う必要もない。愛に触れるためには、戦いに出なくてもいい。気合をいれなくてもいい。ただ、ただそこにいればいいんだ、と思った。この本は、全6編の温かな短編集からなっているのだけれど、最後の『情け嶋』が一番好きだった。

どんなに他人と親しくなり、その人のことをわかったつもりになっても、結局その他人とは自分の中に生きているその人にすぎない。その人本人ではない。だから想像したそんな死の瞬間、落ちていく最後に思い描いたふたりの顔が、ほんとうに悲しんでいて心配している目が一瞬のうちに浮かんできたなら、私の中の愛情こそがちゃんと機能していることになる。彼らではないのだ、実際は。この世はそんな幻影でできているのだ。幻影と幻影のあいだに、ほのかに温かい空間があって、人と人はそこでしか出会えないのだ。
吉本ばなな『ミトンとふびん』-情け嶋

人間らしいと思った。どこか冷めたような語り手「私」のなかに、たしかにある愛情。あぁ、大丈夫だ、と思えた。いつも綺麗なことを考えていなくてもいいと思えた。自分が死んだらどうなるか、ということを人はよく想像するのではないか、と思う。その時に、誰が悲しんでくれるだろうか、と考えて、「あぁ、このひとは泣いてくれるだろうな。」と愛されていることを確かめる行為は、もしかしたら、本当は、自分が誰を愛しているか、ということを確かめている行為だったのかもしれない。

いまはひたすら読むこと、書くこと。それに救われていると思う。

昨日は、なんでもない日だったけれど、彼と彼と一緒に住んでいる佐藤さん(単身赴任で福島から来ている。)が休みなく仕事を頑張っているので、手巻きずしをした。ビールも用意した。ちぢみも焼いた。ふたりは嬉しそうに、思っていた以上に食べてくれて、嬉しかった。

わたしが落ちていくときを想像して、ふたりの本当に悲しんでいて心配している顔が思い浮かんだ。

サムネイルは昨日の写真。コーヒースタンドで彼とふたりで一杯だけコーヒーを飲んだ。一杯しか頼めなかったのに、ふたりにひとつずつひと口サイズのブラウニーをくれた。こういう優しさって、こういう心の大きさってあったかいと思う。

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