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【連載】ラジオと散歩と味噌汁と(1/15)

あらすじ:散歩から戻り、朝食を摂りながらラジオを聞く。それが私の日常だった。ある日、いつものラジオ番組で、一年ほど前に亡くなったはずの君のリクエストが読まれた。私は椅子から転げ落ちそうになるほど驚いた。混乱しながらも、君と過ごした日々を思い出す。それはとても奇妙な思い出だった……。

1.ラジオ

 五時にセットした目覚まし時計が騒ぎ出した。
「時間よ。起きて」
 ベルの音に重なって、君の声が聞こえた気がした。急き立てられるようにベッドを降りて、エアコンの電源を入れた。送風が始まる前にパジャマを脱ぎ、悪態を吐きながらぞっとするほど冷たい服に手足を通した。服が体温で温まる間もなく、玄関を出る。

 門灯で息が白く浮かぶ。思わず身震いする。「おおっ、寒い」「さあ、行くぞ」一々声を出さないと体が思うように動いてくれない。この頃そんなことがやたらに増えたなと苦笑いする。
 それでも入念に準備体操を行い、かじかんだ手足をほぐして、真っ黒い道へ歩を進める。歩くに連れて、かじかんでいた気持ちも徐々に温もってくる。道の両側の外灯が、ぽつりぽつりとぼうっと影を落としている。

 前方からヘッドライトが迫る。私は半歩そばめた。その時になって自分の右側にまだ一人分ほどの幅を余していることに気づく。長年続いたこの習慣は、簡単に変えられそうにない。
 散歩から戻る頃には、東の際がわずかに明るくなって、近くの家並みをシルエットにして浮かび上がらせている。漆黒の天頂から山の端へと、段々と濃く夜明けの色が重ねられていく。
 出掛けにぐずぐずしていつもより少し遅く家を出たが、六時少し前には帰宅することができた。

 静まりかえった玄関に入ると、昨夜のうちに予約していた炊飯器から立ち上る湯気がふくいくたる香りを漂わせている。私は、エアコンの効いた部屋で手早く汗を拭き、普段着に着替える。
 六時きっかりにラジオのスイッチを入れる。放送開始当初から聞き継いでいる地方のFM局の番組だ。八時までの二時間、リスナーからのハガキやメールを読みながらリクエスト曲を掛けてくれる。
 それを聞きながら、味噌汁を作る。今日の具は蕪と油揚げにした。鯵の干物を焼き、これで一汁一菜。そろそろお腹の出っ張りが気になり始めた身には、これで足りる。
 朝食を終え、お茶を飲む。朝茶はその日の難逃れと云うそうだ。

 ラジオから流れる女性パーソナリティの声に耳を傾ける。
 確かニシムラユウコという名前だ。年齢も容姿も知らないが、私は彼女の声が好きだ。特にころころと転がるような笑い声が私のお気に入りだ。

<……。次はラジオネーム愛ちゃんさんからのおハガキです。>
 ん! 私は、『愛ちゃん』という言葉に手を止めた。彼女は一呼吸置いて、
<『元気ですか!』>
 と叫んだ。
 私は椅子から転げ落ちらんばかりに驚いた。心臓が早鐘を打っている。お気に入りの湯呑みを落とさなかったのは幸いだった。気を落ち着かせるため、お茶を一口すすった。

<ごめんなさい。自分でもびっくりするくらい大きな声が出ちゃいましたね。でも『元気ですか!』の所は、赤い文字でアントニオ猪木さん風にって注意書きがあったからなんです。今ガラスの向こうからスタッフが私のことにらんでいます。改めて、ごめんなさい。じゃあ、続きを読みますね。『誠くん、去年二人で造った味噌は美味しくできましたか。今年の仕込みもちゃんとできましたか?』ですって。
 へーっ、誠さんは、お味噌を造られるんですね。すごいですね。こんな方、素敵ですね。自家製の味噌で作ったお味噌汁って、さぞかし美味しいんでしょうね。では、リクエスト曲をお届けします……>

 ――どういうことだ?
 私は混乱した。
 ――誰かのいたずらか。
「元気ですか!」
 そうだ。あの言葉は確かに君だ。君は、私が気落ちしていると見ると、そっと背後から近づいてきて、決まって耳元でいきなりそう叫んだ。そして間髪を容れず、
「何があったか知らないけど、元気を出しなさい」
 と私の背中を思い切り叩いたものだ。
痛い。細い体のどこからそんな力が出るのかと思うほど衝撃は強く、小さい手の跡が二三日赤く残るほどだった。きっとばかりに振り向くと、目の前一杯に君の笑顔があって、それに包まれると、背中の痛みも悩みと共に霧散したものだ。

 頬が緩むのが分かる。ラジオの声が遠くなった。沈殿した記憶のおりが舞い上がる。
 ――冴子。
 私は、背中に君の手を感じながら、そっと君の名を呼んだ。


 私達はいつも同じ時間に起き、君はラジオを付けて朝食の用意をし、私はそれを聞きながら身支度をした。
「何もないと耳寂しくて。どうせテレビを点けても音声しか聞かないんだから、これで十分よ」
 そう言う君の側にはいつも古ぼけたラジオがあった。それはSONY製の、持ち運びできる小型のものだ。黒いプラスチックの本体はすっかりくすみ、所々クロムメッキが剥げている。
「あっ、それと同じの、俺も持ってた」
 私達が中学生の頃、深夜放送がブームだった。驚いたことに、その頃使っていた物だと言う。
「確か実家の私の部屋のどこかに仕舞ったのを覚えていたから、探したら、あったの」
君が倹約家とは知っていたつもりだったけど、これ程だとは思わなかった。

「父からの誕生日プレゼントだったから、思い入れがあって捨てられなかったの」
「壊れたら買い換えようと思うんだけど、昔の物って案外丈夫なのよね」
 君は他にも幾つか言い訳を並べていたような記憶がある。
 音量ダイヤルを回すと、少しガリガリと雑音が混じる。かなりくたびれたスピーカーから流れる音楽やおしゃべりを聞いていると、当時に戻ったような気分になる。

 クラスのほとんどが『オールナイトニッポン』派で、『セイヤング』派も少数だがいた。私達は前者だった。
「あの頃毎日何通もリクエストハガキを出したんだけど、ちっとも読まれなかったわね」
「当たり前だろう。俺達みたいなリスナーが全国に何人いたと思っているんだ」
 そんなやり取りも懐かしい。

 たまにだが君のハガキが読まれることがあった。それは数年前に地元のFM局で始まった番組の中でのことだ。
<……ラジオネーム愛ちゃんさんからのリクエストです。『この曲は、誠くんと出会った頃よく聞きました……』>
 君は、未だに中学の頃からのラジオネームを使っていた。そして、ハガキの中では私のことを『誠くん』――最初は私のことだとは思わなかった――と呼び、君と同じクラスになったことを『出会い』と言った。少年マガジンという少年漫画誌の人気連載物で、『愛と誠』というマンガの主人公、早乙女愛と太賀誠から勝手に拝借して使っていた。
「私、運がいいみたい。二回に一回ぐらいの確率で読まれるのよ」
「朝早いから聞く人があまりいないんだよ。それにリクエストする人も少ないんじゃないか」
「いいえ、運がいいのよ」
 君はかたくなだった。

 やれやれ。私があきれて黙っていると、
「どこがいいの?」
 と矛先を変える。
「ん?」
「この人のことよ」
 顎でラジオを指す。いつだったか、彼女の声が君に似ているって言ったことがある。でも君は「そうでもないわ」と素っ気なかった。だけど私は、彼女がハガキを読む時の声色や間合いや息遣いや、笑うタイミングが、そっくりだと思っている。そしてそれはとても耳触りが良く心地よい。
「あれっ、いてる?」
「そんなんじゃないわよ。馬鹿」
 焼き餅焼きで、負けず嫌いで、意地っ張りで、気が強くて。そのくせ涙もろくて。そういう君の全てが愛おしかった。

<続く……>



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