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【短編】ターミナル(1/2)

(2,823文字)

「近い駅だったら止まるの?」
 その言葉は、私を眠りの淵からうつつに引き戻した。私は小春日を背に受け、電車の揺れに身を任せていた。相模鉄道本線、横浜発海老名行きの急行電車。向かいの席に座る、三十代前半と思われる父親に連れられた、四、五歳くらいの男の子が発したものだった。
『近い駅だったら止まるの?』という表現が面白くて、私はしょぼしょぼする目をみながら二人の会話に耳をそばだてた。
 まもなく二俣川駅だ。

「そう。駅に近づいたら、運転士さんがブレーキをかけて、電車はゆっくりになって、止まるんだよ」
 父親は、その質問の意味をちゃんと理解したらしい。
「次で下りるの?」
「まだだよ。『次は終点、海老名です』って、車掌さんが教えてくれるよ」

 電車は二俣川駅を出た。子どもは靴を脱いで椅子の上にひざ立ちしていた。窓ガラスに顔をへばり付けて、流れる景色を見ていた。
「あっ、ワニさん。パパ、ほら見て!」
 子どもの声が弾む。私の席からは見えなかったが、ワニの絵が描かれた看板でもあったのだろう。目で追いながら父親の袖を引く。その瞬間、上り電車が子どもの鼻先を通過した。
 うわーっ。思わずのけぞる男の子。
「ワニさんも、ビックリしちゃったね」
 父親が吹き出した。

 希望ヶ丘駅が近づいてきた。車内にアナウンスが流れる。
「次で下りるの?」
「まだだよ」
 景色を眺めるのに飽きた子どもは、向きを変えて席に座る。父親は靴を履かせた。床に届かない足が、ぶらぶらと暇を持て余している。


 父親は男の子の質問に一つ一つ丁寧に答える。子どもの話は飛んで跳ねて、脱線しそうになりながらも、そのたびに『次の駅で下りるの?』に帰ってくる。おそらく海老名駅では母親が二人の帰りを待っているのだろう。父親と子どもの会話は、噛《か》み合ったりずれたりを繰り返しているが、根っこの部分で繋がっている。そのやり取りが耳に心地よく、微笑ほほえましくもあり、同時にねたましくもあった。
 ずっと聞いていたかったが、次の大和駅から車内が混み合ってきて、二人の声は届かなくなってしまった。


 一昨日、息子から電話があった。
「孝夫? 孝夫なの?」
 妻は、息子の名前を連呼するばかりで、終いにその場に突っ伏して泣き出してしまった。妻の手を滑り落ちて宙に揺れる受話器。かすかに声が漏れる。私は急いでそれを取り上げた。
「もしもし」
 私が代わると、受話器の向こう側で息をむ気配がした。そして何の前置きもなく、
「今週の土曜日、午後三時に海老名まで来てくれないか」
 とだけ言った。
 十一年ぶりに聞く息子の声は硬かった。
「今週の土曜日、午後三時、海老名、だな」
 私が一語一語噛みしめるように復唱すると、「ああ。それじゃあ」と一方的に通話が切られた。置き去りにされた不通話音。受話器を凝視する私に、
「今度の土曜日なんですね」
 と妻は涙をぬぐいながら、あんしたような顔を見せた。

 そんなことがあったからだろうか。私には、先ほどの男の子の姿が、小さい頃の息子と重なって仕方なかった。
「次の駅で下りるの?」
 孝夫はずっと私に問いかけていた。私は最初こそきちんと答えていたが、次第にわずらわしいと感じ、いつの間にか無視するようになり、ついには五月蠅うるさいと怒鳴りつけていた。

 中学生の頃からだろうか、孝夫とまともに口を利いた記憶がない。高校受験、大学受験。孝夫は将来のことを、私に一言の相談もなく独りで決めた。素直に我が子の自立を喜ぶべきなのだろうが、私は面白くなかった。家から遙か遠い県名を冠した大学名を聞いた時、積もり積もった不満が爆発した。
「そんな話は聞いていないぞ」と私は声を荒げた。
「あんたに関係ないだろう」
「親に向かってあんたとは何だ。もう知らん。勝手にしろ」
 いさかいは平行線のまま、交わることはなかった。妻はそんな二人の間で右往左往しているうちに疲れ果ててしまった。

 そして緊張だけが静かに高まっていった。決定的な出来事は、高校の卒業式を間近に控えた夜に起こった。直接的な原因は何だったか、今となってはもう思い出せない。大方たわいもないことだったのだろう。だが結果は最悪なものになった。
 あたかも過冷却された水がちょっとした振動で瞬時に氷になるように、孝夫と私との関係は一瞬で凍り付いてしまった。
「やっぱ、あんたとはこれ以上無理だ」
「だったら、この家を出て行け」
 私は腹立ち紛れに、そう口走っていた。孝夫は意を決していたように、ボストンバッグ一つ持って家を出ていった。涙ながらに引き留めようとする妻。
「放っておけ。どうせ直ぐ戻ってくるに決まっている」
 そう高をくくっていたが、連絡がないまま一週間が過ぎ、それが一ヶ月となり、意地を張り続けているうちに一年が経った。

 もっともその気になれば、捜す手段は幾つもあったはずだ。だが孝夫を捜し出したとしても、連れ戻すすべもなかった。実際、私にはどう接したらいいのか分からなかった。そして仕事の忙しさを言い訳に何もしないまま、月日だけが流れていった。
 不可解だったのは、当初は泣き伏せっていた妻だったが、そのうち徐々に愚痴や非難めいたことを一切口にしなくなったことだ。心配しているような様子も見せなくなった。
 ――そんな簡単にあきらめられるものなのか。
 私は、そういぶかったことを覚えている。


「まもなく海老名、海老名、終点です。……」
 車内放送が流れる。大和から十分ほどの所要時間のはずだが、随分長く感じた。
 電車が駅に着いた。開いたドアから吐き出された乗客がホームにあふれ、我先にと人々が改札口に群れる。車内はにわかにがらがらになった。目の前の人の壁が消え、先ほどの親子が再び現れた。
「さあ着いたぞ」
 父親の声に男の子はドアに向かって走り出そうとする。
「そんなに慌てて行かなくても大丈夫だよ」
 父親は子どもの手を掴んだ。それでもはやる心が暴れている。父親は苦笑しながら、引っ張られるようにして電車を降りていった。

 隣に目をやると、妻は上の空でまだ座っている。夕べはほとんど寝ていないようだ。
「おいっ」
 私は肘で妻の腕を軽くつつく。充血した目をしょぼつかせながら、はじかれたように席を立つ妻。私は妻の背に手を添えて、少し人の波が引き始めたホームに立った。しかし、直ぐに反対ホームに特急が滑り込んできて、再びホームが人で埋まる。私達は雑踏に飲み込まれないようにホームの端に寄ってやり過ごした。
 しばらくして人がまばらになったのを機に、私達は再びゆっくりと改札に向かって歩き出す。遠く改札口の向こう側に、人々の流れに逆らうように立つ影が見える。多分、孝夫だ。孝夫は、私達を認めると右手を挙げた。

【短編】ターミナル(2/2)に続く


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