遁走の話し (3)
僕は少し緊張しながら古びた旅館の扉を開けた。
北海道特有の雪除けの付いた扉を2回開けて、薄暗い玄関で「こんばんは」と声を出してみた。
反応はない…困ったぞ。
もう1度「こんばんは」と言おうか悩んだ時に旅館の奥から白髪混じりで品のあるお婆さんが顔を出した。
「お風呂の用意をしていたので気付かなくて」
やはり凛子さんの血縁らしく何処となく凛子さんに似ている。
その雰囲気もあってか僕は少し緊張が解けていく気がしていた。
素泊まりなのでお風呂は無いと思っていたのだが、旅館が流行っていた時の名残りで岩風呂らしき物があるらしい。
凛子さんとマスターの紹介ともあってかお婆ちゃんはわざわざお風呂にお湯を張ってくれていたのだ。
「今はお客様も減ってしまって使っているお部屋も少ないけれど好きな場所を使ってください」
と何部屋か案内されたけれど、僕には違いも分からなかったので2階の1番奥の部屋をお願いした。
と言っても1階に2部屋と2階に3部屋だけだったけれど。
部屋に入ってさてどうしよう…と考えていたら、お婆ちゃんがお茶と宿帳らしき物を持ってきた。
「一応規則なのでね、あと前金で4000円お願いしますね」
と言われたが、僕には自分の記憶が全く無いのでどう書けば良いのか分からず困ってしまった。
「住所不定無職名前不明、判明したら必ずお伝えします」とアホみたいに真面目に書いた僕を見てお婆ちゃんは何も言わずに笑って去って行った。
500円はサービスらしかった有り難い。
お風呂に入れとの事だったので遠慮なく僕は風呂場へ向かった。
よく考えたら着替えを持っていなかったな、何処かで安い物を買えば良かったかな、なんて考えながらそれは明日考えるとして程々の大きさの程々に熱い風呂に浸かり明日からの事を考えた。
もう1日この街に留まって凛子さんやマスターに色々と今後の事を相談するのが無難かな、下手に動いて残りの少ないお金を消費するのも躊躇われる。
後でお婆ちゃんにもう1泊お願いするか…なんて考えていたら余りに長いお風呂にお婆ちゃんが心配して声を掛けて来たので慌ててお風呂から飛び出た。
お風呂からあがって浴衣に着替えてラジオを聴いていたら(部屋にテレビはなかった)本当に北海道に来ているんだな、と実感した。
ニュースも天気予報もCMも全部道民向け。
全く分からない地名ばかりだったのでやはり自分は北海道の人間では無いのか…とか思ったりした。
肉体も精神も疲れ切っていた。
お婆ちゃんが敷いてくれたフカフカの布団に横になり、僕はたぶん3分で眠りに付いた。
そして2日目。
朝5時に目覚めてしまい、外は肌寒い感じだったので部屋の中でタバコを吸ってラジオを聴いていた。
お婆ちゃんが朝食を勧めてくれたのだが、とても食欲は無くて今夜も泊まらせてくださいとお願いをしてから8時に荷物を持って旅館を出た。
まあ荷物と言っても財布と時計とタバコとZippoだけなんだけれど。
今朝タバコを吸う時に気付いたのだけれど、僕が持っていたZippoはシリアルナンバーが入り少し変わった柄のライターだった。
もしかして手がかりになるのかな、と思いつつZippoをカチカチ鳴らして朝の街を歩いて行く。
商店街はシャッター街でコンビニくらいしか開いていない本当に平凡な街だった。
コンビニでタバコと缶コーヒーとパンを2個買って何処かで食べようかとウロウロ歩いている内に少し広い川の河川敷に出た。
ベンチもあったのでそこでパンをあっという間に食べ終えて缶コーヒーを飲みながらタバコに火をつける。
広い河川敷の向こうに住宅地が広がっていて、そこを見ていたら何だか急に不安になってしまった。
未だ何も思い出さない。
警察へ行った方が良いのだろうか。
万が一犯罪でも起こしていたのなら今の僕の状況なら少しは酌量してくれるかも知れない。
それかもういっその事、自死を選ぶのも悪くないないかも知れない。
どんどん考えが悪い方へと向かって行く。
時計を見たら9時半になっていた。
マスターに「10時に店に来て」と言われていたのを思い出してよく分からない街の道を歩き出す。
昨日以前の記憶は無いのに昨晩の事はしっかり覚えているんだな…と思わず苦笑いをした。
相変わらず風は肌寒い、何か着る物を考えなきゃなとか考えつつ僕は駅前へとトボトボ歩いて行った。
第3回はここまでです。
思ったらより長くてなりそうなので次回からは大きな出来事だけを書いていけたらな…と。
それではこの辺で。
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