【短編小説】この世の果て、その先まで

(17853文字)

 最後の大粒の一滴がわたしの瞳からこぼれて落ちていくのがスローモーションで見えたとき、視界の端にスニーカーを履いた二本の足が現れた。異様だと感じたのは、その足が校則では禁止されている色付きのソックスを履いていたからだ。ソックスは見目鮮やかなピンクで、その色彩に一瞬目がくらむような気がしてぼーっと見惚れていたら、
「暇そうだね」
 という、ハスキーなよく通る声がしたから、見上げると声の主はやっぱり二ノ倉さんだった。一週間ぶりに会う二ノ倉さんは相変わらずだったけれど、やっぱり異様なのは彼女が着ているのが制服じゃなくてどう見ても私服だったからだ。黄色いベレー帽が目を引く。
「ライブ行こう」
 今度はさっきよりもいくぶんか大きな声で言われた。二ノ倉さんの恰好は下はジーパンに、上は胸からお腹にかけてちょっとアメコミっぽいヘンテコなキャラクターがあしらわれたいわゆるバンTみたいなラフなスタイルだ。
「本当は今日、お姉ちゃんと一緒に行くはずだったんだけど、仕事の都合で急に行けなくなっちゃってさ。IT関係の会社に勤めてるんだけど、急なトラブルとかあるとすごく残業しなくちゃいけなくなるんだって、だから行けないんだって。じゃああたし一人で行くよって言ったんだけどさ、それは絶対にダメだって。JCが一人で夜の渋谷をウロウロするとか絶対危ないからって。東京ってハルカが思ってるよりずっと危ないんだよ、もしなにかあったらお父さんお母さんに申し訳が立たないんだよって散々説教されてさ。
 しょうがないからキヨミにもLINE送って誘ってみたの、っていうかそんなの誘えるのキヨミしかいないからさ。ってか知らないか長野キヨミ、小学校の同級生だったんだけど、今東京のまた別の学校に行っててさ。でもキヨミもなんか今夜予定あるらしくって無理って言われちゃった。
 それで、誰か暇なやつでもいないかなって思って久しぶりに学校まで来たんだ」
 そういうところだよ、と思った。聞いてもいないことをのべつまくなしに話しまくる、そういうところが、エレナたちから目の敵にされたんだ。
 っていうか、どうしてそれでわたしに声かけてくるの?
「わたし、暇じゃないんだけど」
「違うの?」
「部活の練習中」
「バスケ部だっけ。こんなところで何の練習?」
「休憩してるだけ」
「バスケ部の休憩って10分もうずくまってぼろぼろ泣くことを言うんだ」
 嫌味な言い方。ホントにムカつく。っていうかずっと見てたのかよ。わたしは睨んだけれど、二ノ倉さんは動じない様子で小窓から体育館の中を覗き込む。
「それならそれで別にいいんだけどさ。ばりばり練習やってるみたいだけど」
 戻らなくてもいいの? という視線を向けてくるから「もう戻るよ」とわたしは立ち上がる。二ノ倉さんの頭はわたしの顎よりも低い位置になって、彼女はその大きな瞳を持ち上げて見上げてくる。彼女は学年の背の順で低い方から2番目。わたしは高い方から2番目。
 わたしは手に持ったタオルで顔を強めにこすると、体育館の入口へと歩いていく。そうして扉に手をかけようとしたところで、バスケ部のおじさん顧問の甲高い怒鳴り声が中から響いてきて、途端に血の気が引いていくような感覚が襲ってきた。あの鬼のような形相が目に浮かんで、目まいがして、吐き気がこみ上げてきて、たまらずその場に座り込んでタオルで顔を覆う。今戻ったら、また怒鳴られる。練習を中断させて、みんなの前で気をつけさせられて、「今までどこに行ってたんだ」みたいなことをねちっこく聞かれて。きっとめちゃくちゃに怒られる。
「サボっちゃおうよ」
 悪魔のささやきにしては可憐すぎる声が、頭の上から降ってくる。
「部活サボってさ、ライブ一緒に行こうぜ」
 二言目にはそれだ。わたしはタオルをはずして見上げる。二ノ倉さんは真顔で見下ろしてきていて、表情からはどんな感情なのか読み取れない。
「サボったりしたら、後が怖いから」
「今戻っても、きっとまた泣かされるだけだよ」
「でも……」
「後からまた愚痴愚痴言われたらさ、やめちゃえばいいんだよ」
 二ノ倉さんは知らないから、無責任にそんなことが言えるんだ。わたしがどれだけ周りから期待されてるのか。1年生にしてエース候補と目されて、大人たちからも先輩たちからもそんな風に言ってもらえて。顧問のおじさんも期待してるからこそ、あんなに怒るんだ。
 期待してるから、みんなわたしに厳しくしてくるんだ。
「押しつぶされちゃうぐらいなら、逃げた方が良いよ」
 わたしの頭の中を知ってか知らずかそんな台詞を吐くと、二ノ倉さんは扉を少し開けて体育館の中を覗き込む。
「あ、ほら。シュート練習ラストスパートだって。これ終わったらきっと笹塚さんのこと、探しに来るよ」
 それはまずい。そうなる前に戻らないと。みんなに頭を下げないと。
「その前に逃げなきゃ」
 わたしの思いと真反対のことをうそぶいてくるのに、どうしてだろう。身体は言う事をきかない。二ノ倉さんの目が光をもってわたしを捉える。
「逃げようぜ。この世の果て、その先まで」

 更衣室で急いで着替えて出てくると、待っていた二ノ倉さんは「よし、急ごう」と言ってさっさか歩き出す。体格のわりに歩幅が広くて歩くスピードが速かったから、慌ててわたしも歩みを速めて追いつく。
「――今日のライブはね、プライズっていうバンドの15周年記念ライブなんだ、だからどうしても行きたかったんだよね。プライズ知ってる? 知らないかな、メジャー進出はしてないし。インディーズではカリスマ的な人気バンドなんだけどね。あたしはもう推し始めてから8年ぐらい経つかな、最初はお父さんの影響だったんだけど、もうすっかりプライズ沼にハマっちゃったウィナーズなんだ。あ、ウィナーズっていうのはプライズのファンの総称ね。ちなみにこのバンTに描かれてるのはウィナーくんって言って、プライズの公式マスコットキャラね」
「――だからね、ボーカルのタクトがギターのヨシノリと出会ったのは、それはもう運命としか言いようがなくて。二人の地元は神奈川にあるんだけど、当時はそれぞれ別のバンドを組んでたんだ。特にヨシノリの居たバンドなんかは勢いがあって、メジャーデビューも噂されるくらいだったんだけど、一方でタクトのバンドは泣かず飛ばずっていう感じで。タクトがある日ロック仲間と一緒に飲んでたときに、『そろそろやめようかと思ってるんだ』なんて弱音をぼそっと漏らしたわけ。それを『俺はアンタの曲に惚れてるんだ。やめられちゃ困る』って言って止めたのが、誰あろうヨシノリだったんだ。その年のうちにそれぞれのバンドを脱退して、二人で新しいバンドを立ち上げたんだよ、それがプライズの前身バンドっていうわけ」
「――今日のセトリ、どんなかな。アニバーサリーライブだから当然代表曲は一通りやると思うんだけど。特に『ハニー・ターム』がどこで来るかによって大分セトリの組み立てが変わってくると思うんだよね。『ハニー・ターム』知ってる? バンドで一番売れた曲。6枚目のアルバムに収録されてた一曲に過ぎなかったんだけど、あまりの人気に後になってシングルカットまでされて、それがなんとバンド初のチャート30位以内に入ったんだよ。もちろんライブでも定番曲なんだけど、実はライブだと少しだけ歌詞が違って、”キミの夢が ボクに届いた”っていうところが”ボクらに届いた”ってなるの、つまりウィナーズみんなの曲になるっていう素敵演出があるから、今日はそこにも注意して聴いてみて」
 歩きながら、改札をくぐりながら、電車に揺られながら、二ノ倉さんのマシンガントークは止むことを知らない。満員に近い車内にぎゅうぎゅうに詰め込まれながら、それでも彼女は喋り続ける。それは、わたしに向かって話しかけているという風ではなくて、また誰に向けている風でもなくて、これだけたくさんの人が周囲に居るのにまるで虚空に自分の溢れ出る言葉を放っているみたいだった。話している内容はほとんど頭に入ってこない。彼女の言葉のリズムに合わせてただうなずくだけでよかった。
 二ノ倉さんのその淡々と喋るかすれた声が、妙に耳心地よく感じられた。
 やがて電車は渋谷に到着する。車内から吐き出されるようにホームに降りて、今度は人の波に流されるようにしながら改札をくぐっていく。群衆のただ中では二ノ倉さんの小さな身体はすぐに飲み込まれてしまいそうで、わたしは彼女を見失わないようについていくので必死だった。
 駅を出ても相変わらず人混みはすごかった。駅に入ってくる人出ていく人、犬の銅像の前で待ち合わせたり写真を撮ったりしている人たちでごった返していて、祭りかイベントでもあるんじゃないかというような騒ぎ。スクランブル交差点の信号が変わると途端に、そんな人の塊が一斉に動き出す。めいめいの行きたい方向へ器用にすれ違いすり抜けて行く人々の群れ。と思ったらスマホを高く構えて周りを見ていない人と危うくぶつかりそうになったところで、気がつくと二ノ倉さんの姿が近くになかった。一気に冷や汗が吹き出して、ぐちゃぐちゃな人混みをかき分けながら周囲を探すと、少し先の方にあの黄色いベレー帽が見えた。わたしはまた必死の思いで人の波を泳いで行って、やっとのことで追いついた。
「二ノ倉さん、ちょっと、待って」
 息荒く声を絞り出す。思わず、わたしは二ノ倉さんの右の手首を掴んでいた。彼女はちょっとこちらを振り返る。
「笹塚さん、渋谷はじめて?」
「え? あ、そうだね。はじめて、かも」
「そっか。中学からこっちに出てきたんだっけ」
「あ、うん。去年までは、埼玉の小学校だった」
「あたしも今年から東京出てきたんだ。去年までは神奈川の小学校通ってた」
 二ノ倉さんは前を向いて、まくし立て始めた。
「あたしライブ通いするから、ハコがそこら中にいっぱいある東京にはずっと憧れてたんだよね。あ、ハコっていうのはライブハウスのことね。マンガもアニメも好きだから、そういうショップも充実してるし。だから、東京の中学もひとつだけ受験することにしたわけ。ダメだったらあきらめて地元の公立に行こうと思ってたんだけど、なんか運よく受かっちゃってさ。受かったからには東京の方に通いたいじゃん。でも地元からだと電車で片道2時間とかかかるからさ。だから、実家から出て、先に東京に出て働いてたお姉ちゃんの家にやっかいになることにしたんだ。12歳離れてるからあんまりお姉ちゃんって感じじゃなくて、もう一人のお母さんって感じなんだけど。向こうも歳の離れた中学生の妹を預かるっていうことでかなり責任重大に思ってるみたいで、とにかく過保護っていうかなんていうか、まあ厳しいんだよね。やっかいになってる身でこんなこと言えたことじゃないんだけど、ちょっとそこが、まあ窮屈って言えば窮屈なんだよね」
 そうなんだ、とそこでようやく言葉を返すことができた。二ノ倉さんは多分、返事とか求めてはいないと思うけれど。彼女の語ってくれた一面は、わたしにとってみたらちょっと意外だった。
 二ノ倉さんも、地元から離れて来ていたんだ。そこはわたしと一緒だ。誰も小学校時代のわたしを知らない。友達ゼロからのスタート。
 違うのは、今現在、わたしには友達がいて、二ノ倉さんにはわたしの知る限り一人もいないっていうこと。わたしは、エレナたちに気に入られている。二ノ倉さんは、エレナたちから嫌われている。
「あたしね、小学校のときから、図書室に入り浸ってたんだ」
 二ノ倉さんは一度口を開くと、とめどなく言葉を吐き出していく。
「放課後になったらまっすぐ図書室に行くのがずっと習慣だったんだ。ホームルームが終わったらすぐに荷物をまとめて教室を飛び出して廊下を走って行って。たまに先生に注意されたりしてね。それで図書室に入ったらめぼしい本を何冊か机に持っていって、読み出して。すると、すぐに物語の世界に没頭しちゃって、あっという間に閉室の時間になって図書室の先生に肩をたたかれるの。それぐらい夢中になって読んでたな。特に名探偵尼ヶ崎時三郎シリーズとか好きで何回も読んだなぁ、知ってる? あとペンシル王国とかヘンリー・ポーターとかも結構読んだよ。
 小学校のときもそんなだったし、あとこんな風に喋りまくっちゃう癖もあるしで、友達らしい友達なんてほとんどいなかったんだ。さっき言った、長野キヨミぐらい。でもさ、小学校の頃ってそんなこと別に気にならなくなかった? 友達が居る居ないとかさ、多い少ないとかさ。あの頃、っていってもつい半年前ぐらいだけど、あの頃は友達か友達じゃないかって線引きは曖昧だった気がする。なんならクラスメイト全員友達、みたいな。
 なのに、なんだろうね。中学入っても同じことしてたらさ、途端に変人扱いされて。毎日つまんないイタズラされたりするしさ。まあ実際あたし、みんなからしてみたら変人なんだろうけど」
 今度は返事することができなかった。息が詰まるような感覚さえあった。
 それきり、二ノ倉さんは喋らなくなった。わたしは彼女の顔を見ることができなくなって、彼女の手首を掴んでいた手もそっとはずした。いつの間にかわたしたちは大通りから外れていて、周囲の人もまばらになっていた。

 薄暗闇の中、下へ伸びていく螺旋階段は、更に暗くてじめじめした空間へと続いていた。下りていく途中にたむろする数人の大人が、みんな顔の変なところにピアスがついていたり肌に模様が描かれてあったりして正直かなり怖かったけれど、二ノ倉さんが臆することなく下りていくと案外すんなりどいてくれた。普段嗅ぎ慣れないタバコの匂いが強く鼻を刺激してきて、危うくむせかける。
 受付を済ませてライブハウスの扉を開けると、客電はついてはいるものの、中はもう人でいっぱいだった。ひんやりとした空調は人の熱気で中和されて、暑いんだか寒いんだかよく分からなかった。BGMにどこか懐かしさを感じるロックンロールがかかっていて、それが会場の興奮を少しずつ高めているように思えた。
「あたしセンターの方まで行きたいから、ついて来て」
 二ノ倉さんはまた人混みをかき分けて行く。ゲンナリしつつも、再び二ノ倉さんを見失わないように、わたしもついて行った。
 やがてフロアの真ん中ほどまで来たところで、二ノ倉さんは立ち止まった。そこでふと気づいたように、彼女はわたしを振り返る。
「そう言えば笹塚さん、制服か」
「あ、うん」
「あんまり皺にならない方がいいか」
「そう、だね」
 二ノ倉さんはそこで、少しの間じっとわたしの顔を見上げると、
「ステージは見える?」
 と尋ねてきた。
「ああ、まあ」
 前の方に背の高い男の人が数人居たけれど、背伸びしたり見る角度を変えたりすれば、なんとか見えないこともなかった。
 わたしの言葉に二ノ倉さんは軽くうなずいた。そして被っていたベレー帽をはずすと、わたしに手渡してきた。思わずそれを受け取る。
「これ、ちょっと預かってて」
「え?」
「ちょっと行ってくるから」
 そこで、にわかにBGMが止んで、客電も消えて真っ暗になった。フロアから歓声が沸き立って、同時にわたしの前の方に居る観客たちがステージの方へ詰めかけて行くのが見えた。途端にステージのすぐ傍は観客どうしの押し合いへし合いの体をなし始めて、その激しさにわたしはすっかり面食らった。
 はっと気がついて隣を見ると、二ノ倉さんの姿がなかった。左右後方、どこを見回しても居ない。ということは、前の方のあの押しくら饅頭に加わっているっていうことか。
 独りにされて途方に暮れている間に、新しいBGMが流れ出す。そのリズムに合わせて、会場中から手拍子が起こった。万雷の手拍子に迎えられるようにして、やがてプライズのメンバーであろう男の人たちが一人ずつステージに現れて、そのたびにまた大きな歓声が立ち昇る。
 熱狂と興奮が渦巻くなか、ステージ上のメンバーたちはめいめいに楽器のチューニングにとりかかる。それも済むと、ステージ真ん中のギター・ボーカル――さっき二ノ倉さんが『タクト』って呼んでた男の人が、マイクを通してアウイエ! と叫ぶ。すかさず観客も、イエーーー! と返す。そのかけ合いからすぐドラムがリズムを刻んで、曲が始まった。
 それからMCも挟まずに、ステージ上の4人は次々と曲を演奏して行った。そのどれもが激しいロックではあったけれど、タクトの歌い上げる歌詞はその曲調とは裏腹に、どことなく寂しさや悲しみを感じさせるものばかりだった。孤独と自由は同じところにある……とか、ここはまだ終わりじゃない、そう信じたい……とか、そんなフレーズが印象に残った。
『逃げようぜ。この世の果て、その先まで』
 さっき二ノ倉さんが放った台詞も、プライズの曲の歌詞からの引用だったんだと、3曲目でようやく気づいた。
 ステージ上のタクトは、歌を歌いギターを弾きながら、フロアを見回して視線を配る。ステージ傍の観客たちは揃ってステージに向かって手を伸ばしていて、きっとみんな自分の方を見て欲しい、自分を知って欲しいって、アピールしているんだと思った。あの中に、二ノ倉さんも居るんだろう。限界までつま先立ちして、その小さな身体で目いっぱいに手を伸ばしているんだろう。
 普段あまり聴かない類の爆音のロック。格好いいとは思いつつもなんだか躊躇してしまって、いまいち乗り切れないでいると、眩しい照明が唐突に目を刺してきて、咄嗟にうつむいた。わたしの手に持たされたベレー帽が、持ち主を見失ってくたびれているように見えた。

「ダメだった」
 5曲目の演奏が終わってライブがいったん落ち着いた頃、二ノ倉さんが戻ってきた。すっかり汗だくで、バンTもよれよれにした彼女は、タオルで顔を拭きつつ腰にホルダーでくくりつけた水のペットボトルを手にとって飲み出した。グビグビと喉を鳴らして半分ほど飲み干すと、ペットボトルから口を離して、ハー、と息を吐く。
「あたし、今までタクトとタッチできたことないんだよね、チビだから。前の方に割り込まないとステージもろくに見えないしさ」
 そう言われてはじめて彼女との身長差に思い至る。ここからじゃ、わたしはステージが見えても二ノ倉さんには見えないんだ。
「今日こそはタクトとタッチしてみせる。それが今回のライブ参戦の目標」
 口を拭いながら、二ノ倉さんはステージ上でMCをするタクトの方を見やる。虎視眈々と獲物を狙うようなその視線が、なんだか妙に勇ましく見えた。
 ――すごいね。二ノ倉さんは
 思わず、そんな言葉がわたしの口をついて出てきかけて、わたしは慌てて口を手で抑えていた。
 二ノ倉さんは一瞬だけ、その大きな瞳でわたしのことを見たけれど、やがてまた、視線をステージに移した。
「また、荷物お願い」
 わたしの返事も待たずに、二ノ倉さんは再び前の群衆へと飛び込んで行く。あ、と声を出す間もなく曲が始まった。今度は特に激しめのロックナンバーで、ステージ傍の狂騒はより一層昂る。二ノ倉さんの姿はその中に呑み込まれて一瞬で見えなくなった。
 また一人にされた。これじゃまるで……というかまさに荷物番だ。こんなことのためだけに、わたしはライブに誘われたんだろうか。
 自分勝手だな。
 率直にそう思ったのと同時に、唐突に頭の中で、数週間前のエレナの言葉が木霊した。

『二ノ倉さんって、ちょっとヤバいよね』
 エレナは、声を潜めてクスクスと笑っていた。
『話し出すと止まらなくなるのとかさ。相手の返事とか待たないしさ。自分勝手っていうか、なんていうか……人と仲良くする気がないよね。いわゆる、協調性がないってやつ』
 ね、とエレナは周囲に同意を求めて、そうそう、とか、なんかウケるよね、とか散々みんなに言わせる。わたしは、曖昧な愛想笑いを浮かべることしかできない。
『あの分だと、いつまで経っても友達なんかできっこないし。絶対、欠点は治して上げたほうがいいと思うの』
 セミロングで先の方を緩やかに巻いた茶髪を、指先でいじりながら、心底同情したように言った。その言葉の響きの優しさが、かえって薄ら寒く感じられて、思わず身震いした。
『かわいそうな二ノ倉さんのこと、みんなで”治療”してあげましょう』
 とげとげしい言葉の響きはそのままに、エレナがその整った顔に浮かべた薄笑みは、ハッとするほど冷たく見えた。
『協力してくれるよね、レイ』
 名前を呼ばれたわたしは、気がつけば首を縦に振っていた。そこに自分の意思はなくて、ただただ機械的な反応だった。

「またダメだった」
 12曲目が終わって戻ってきた二ノ倉さんは、髪を振り乱して汗みどろで。タオルを使うことも忘れて手で顔中の汗をぬぐっていた。
「どうして」
 わたしは自分のハンカチを取り出して、彼女の顔を拭きながら、つい尋ねていた。
「どうして、そんなに頑張るの。タクトとタッチできたからって、何にもならないじゃん」
 まるで何かに急き立てられるように、勝手に口から言葉が出てくるような感覚だった。
「何にもならないことが叶ったからって。そんなの、無駄だよ。無駄な努力だよ」
 誰かがどこかで言った内容を、そのまま借りて喋っているような気がした。わたしは、本当にこんなことを思っているんだろうか。
 二ノ倉さんはじっとわたしに汗を拭かれながら、まっすぐに見つめてくる。大きな瞳は中に星がたくさんあるみたいに光を持っていて、まるで吸い込まれるような錯覚を覚えた。
 しばらく黙っていた彼女は、わたしの顔に据えた眼差しをそのままに、その顔のわりに大きな口を開いた。
「笹塚さんは、身長何センチ?」
「え……166センチ」
「あたしは146センチ」
「それがなに」
「チビなあたしと違って、笹塚さんは背も高いし、顔も美人だし」
「だから、それがなに? 関係なくない?」
「それだけ違ければ、色々違うっていうこと。モノの見え方も、頑張り方も、手に入るモノも、何もかも」
 それだけ言うと、二ノ倉さんはまた演奏を再開しようとするステージに目をやる。
「あたしは、最前で背伸びしないとステージだってろくに見えやしないし、目一杯頑張んなきゃタクトとタッチすらできない。笹塚さんとは違うんだよ」
 そうしてまた前の方へ行った二ノ倉さんだったけれど、わたしはその言い草にカチンと来た。
「待って!」
 身体が勝手に動いていた。人の塊の中へスッと消えていった彼女の影を追って、わたしも人垣に無理やり身体をねじ込んだ。途端に、人の圧に身動きが取れなくなって、右に左に前に後ろに、為すすべもなく流される。
 『笹塚さんとは違う』ってなに? まるで頑張っているのは自分の方だけで、わたしは頑張っていないみたいな言い草。わたしが今の学校に入ってから、どれだけ頑張ってきたか。クラスでも委員会でも、背が高くて顔も目立つ部類らしくて、いつの間にか中心人物みたいな扱いをされるようになって。バスケ部では、顧問の先生からめちゃくちゃに厳しくされて。エレナたちのノリにだって必死に合わせなきゃならなくて。みんなから失望されないように振る舞うために、わたしがどれだけ頑張っているか、知らないからそんなこと言えるんだ。
 二ノ倉さんは、わたしのこと、なんにも知らない。
 誰かの汗が顔に飛んでくる。むっとするような臭いにむせそうになる。スカートがどこかに引っかかって引っ張られて、慌てて引っ張り返す。もみくちゃになりながら、わたしはそれでも周囲を見回して二ノ倉さんの姿を探した。けれども、目印だった黄色い帽子は、彼女は今は被ってない。
 ふいに目の前の男の人が後ろによろめいてきて、わたしにぶつかってきた。まるでおしぼりのようにびっしょり濡れた背中をもろに顔面に受けて、わたしは溺れるような心持ちがした。首を上に目一杯伸ばして息を吸って、少しえずく。群衆の圧力を四方八方から受けて、若干宙に浮くような感覚。自分の力ではどうしようもない、がんじがらめな状態。
 いつものわたしだ、と思った。自分の思いとか考えとか関係なく、周囲に流されるままに、その流れを崩さないように躍起になっている。他人をがっかりさせないように、他人から変な目で見られないように。無数の他人の視線の糸に絡めとられて、行動も発言もどんどん不自由になっていく。
「二ノ倉さん」
 爆音が耳を脳を身体を揺さぶる中、声にならない声を振り絞って、わたしはまた周囲を見回す。彼女はきっと、もっと前の方に居る。ステージのすぐ傍まで行って、その小さな身体を懸命に伸ばしてタクトに向かって手を差し出しているんだろう。わたしは息も絶え絶えになりながら、それでも息を吸い込むとまた前へとかき分けて行った。
 二ノ倉さんはわたしとは違う。いつだって言いたいことを言って、話したいことを話す。その代わりに、話したくないことは一切話さない。相手の顔を真顔でまっすぐに見据える癖があって、それが興味があるからなのか反対に面白くないからなのか、どう思っているのか一見して分からない。そんな挙動や仕草の一つひとつが、いちいちエレナの癪に障ったらしかった。
 数週間前から、クラス全員で二ノ倉さんのことを無視するようになった。二ノ倉さんの下駄箱に脅迫状や着替えの盗撮写真が入れられるようになった。二ノ倉さんの教科書やノートやキーホルダーがなくなるようになった。全部エレナが主導だ。エレナの考えた『治療』の数々だ。それに、わたしも加担していた。『見て見ぬふりをする』という形で協力していた。
 けれども、二ノ倉さんはそういうのに一切動じる様子がなかった。相変わらず、誰が聞いていようといなかろうと話したいときに話したいことを話していたし、下駄箱にイタズラされてもモノがなくなっても表情一つ歪めたりすることはなくて、ただ淡々と生活していた。
 平然としていた。平然として見えた、表面的には。でも、本当にそうだったんだろうか。
 一週間前、二ノ倉さんは階段から転げ落ちた。クラスメイトで固まって教室を移動している際に、集団からはじき出されるように落ちていった。ごろごろと転がって、階段の踊り場で止まった彼女は、しばらくの間身動きひとつしなかったけれど、やがてゆっくりとその身を起こした。誰も近寄る人もいない中、彼女は胸に手を当てて静かに息を吸って、吐いてを繰り返していた。
 その日、二ノ倉さんは早退した。その翌日から今日まで、彼女は学校を休んだ。
「二ノ倉さん」
 踊り狂っている大人たちの間に背を縮こませて身をねじ込ませながら、わたしはまた声を振り絞る。やっと身体をくぐらせて前に出られて、上体を起こすと、フロア最前から2列目ぐらいまで前に来ていることが分かった。カラフルな照明に照らされたステージがすぐ目の前にあって、ギターをかき鳴らしているタクトの姿がすぐそこにあった。
 視線をそのまま下に落とすと、やっぱり居た。わたしのすぐ目の前で、群衆の中でひときわ背の低い小さな少女が、ステージ手前の柵に身を乗り出している後ろ姿。曲のリズムに乗って頭を振り乱している。
 やがて、曲のギター・ソロに入ったところで、タクトがギターストラップを肩からはずした。そしてギターを片手で高く掲げたまま、もう片方の手を観客に差し伸べてくる。それに向かって二ノ倉さんも手を差し出す。もう少しで触れようか、というところで、同じように手を差し出す周囲の人が押し寄せてきて、二ノ倉さんの小さな身体はすぐに押しやられる。はじかれた彼女の身体は後ろに居るわたしに倒れかかってきた。それを咄嗟に支える。
 彼女はちらとこちらを見る。わたしだと気がついて少し目を丸くした様子だったけれど、すぐにまた前を向き直して、上に手を伸ばし始めた。いくらはじかれても、性懲りもなく彼女はあきらめなかった。
 何がそこまで、彼女を頑張らせるんだろう。何が欲しくて彼女は手を伸ばしているんだろう。みんなから無視されたとき、下駄箱にイタズラをされたとき、盗まれたモノを淡々と探していたとき、薄ら笑うエレナのことをじっと見つめていたとき、それと変わらない眼差しでわたしのことを見つめて来たとき。彼女は一体なにを考えていたんだろう。
 わたしは、二ノ倉さんのこと、なんにも知らない。
 居ても立ってもいられなくなって、わたしは二ノ倉さんに近づくと、その腰に手を回して、思いっきり持ち上げた。彼女の身体はびっくりするほど軽かった。彼女は一瞬戸惑う様子でこちらを振り向いたけれど、すぐにまた手をタクトに向かって伸ばしていた。彼女の手は一瞬、群衆から抜けて高く伸びた。いつまでも、いつまででもそうして持ち上げているつもりだった。けれど、ぎゅうぎゅう詰めにうごめく群衆の中でそれはとても難しくて、たちまちバランスを崩した。二ノ倉さんとわたしは倒れ込むようにして、そのまま群衆の後ろの方へと押し流されて行った。

 ライブも終盤に差し掛かろうというところで、二ノ倉さんがあっさりと会場を出て行くから、慌ててわたしもついて行った。数人のスタッフ以外誰もいない受付を通って、螺旋階段をまたぞろのぼって行く。
 階段をのぼりきって、すっかり暗くなった外に出る。しばらく道を歩いたところで、「あ」と二ノ倉さんが声を上げる。
「紐、ほどけちゃった。ちょっと待ってて」
 街灯の明かりの下まで行くと、彼女は屈んで靴紐を結び直し始めた。かすかに動く黄色い帽子がやけに眩しく映る。疲れもあいまって、わたしの頭はぼうっと熱を持っているようだった。
「本当によかったの? ライブまだ続くんでしょ」
「うん」
 靴紐を結び終わった彼女は、スッと立ち上がると、右の手の平を見せてきた。
「タクトとタッチできたから。それでもう満足」
「そうなの?」
「元々それが今回の目標だったから」
 そう、ニコリともせずに淡々と言うと、二ノ倉さんはまたさっさかと歩き出す。わたしはまたそれについて行く。すると、彼女はおもむろにこちらを振り向いて、言った。
「ライブ、本当なら行けなかったのに、行くことができた。タクトとのタッチだって、一人じゃ絶対できなかった。全部笹塚さんのおかげ。ありがとう」
 それだけ言うと、彼女はまた前をくるりと向いて、歩き出した。わたしは言葉を失った。
 彼女がそんなことを言ったことが驚きだった。彼女はそんなことを言わないと思い込んでいた自分に気がついて、わたしは情けなさでいっぱいになった。
「なんで」
 口をかろうじてついて出たのはそんな言葉だった。唇が震える。
「なんで、そんなこと、言うの」
 頭にこもった熱が、目元まで降りてきた。視界がぼやけ出す。景色が揺れる。
「なんで、そんなこと、言えるの」
 瞳からこぼれて一粒一粒頬を伝っていく痕が、熱を持って、途端に冷めていく。我慢しようとしても呼吸もうまくできなくなる。口元が歪んで、鼻水も出て、瞳からはとめどなくこぼれ落ちていく。
 不格好な息遣いで何度もしゃくり上げながら、二ノ倉さんの背中に向かって、わたしは言った。
「二ノ倉さん、やりたいことがたくさんあって、行ってみたいところもいっぱいあって、それで、東京に出て来たって、そう言ってたけど、わたしは、逆。東京でやりたいことも行ってみたいところもない、自分の目的なんてなんにもない。ただ、お父さんお母さんに言われて、東京の学校だけたくさん受けさせられて、それで、落ちまくって、でも一個だけ受かったから、通ってるの。本当は地元の中学、行きたかった。友達と離れたくなかった。でも、そんなこと、言えなかった。怒られるのが怖くて」
 ぼやけた視界の中で彼女のシルエットはどんどん遠ざかって行く。鼻をすすって、吐く息は震えて、それでも構わずわたしは話した。
「部活だって、そう。背が高いから、あなたはバスケ部かバレー部にしなさいって、バスケ部の方が強豪だから入りなさいって、そう言われたから。背が高いから、みんながわたしに期待してくれる。でも、本当はわたし、そんなに運動好きじゃないんだ。毎日練習が苦しくて苦しくて、毎日吐いて、泣いて。でもやめるって言えない、やっぱり怖い」
 目も開けていられなくなって、ぎゅっとつむる。歩くこともままならない。もう二ノ倉さんははるか先まで行っている。
 一度決壊した胸の内は、塞がることを知らなくて、思いを次々に吐き出した。
「エレナだって。最初からなんでか気に入られて、友達の一人に加えてもらって。勝手に加えられてて。そうしたら、もう、わたしの言ったことで、やったことで、あきれられるのが怖い。ガッカリされるのが怖い。嫌われるのが怖い。一度嫌われて、目の敵にされて……標的にされるのが、怖い。だから、だから、二ノ倉さんのこと……イジめるの、見てた。ずっと、ずっと、ただ見てて、見てるだけで、それで――」
 ふいに、わたしの左手が掴まれた。かすかな力で引っ張られて、再び歩き出す。目を開けると、黄色い帽子が目の前でゆらゆらと揺れていた。
「わたし、全部、イヤなんだ」
 自分を取り巻く状況も、寄ってくるみんなのことも、厳しくしてくる大人たちも、自分の性格も顔も体格も、何もかも。
「全部、全部、全部イヤだ。もうイヤだ、イヤ、イヤ」
 二ノ倉さんは答えずに、ただ黙ってわたしの手を引いていく。やがて大通りに差し掛かって、周囲に通行人が一気に増えた。
 渋谷の街はこの時間になってもそこかしこがキラキラしていて、ごった返す人の群れは何かの大きな流れのようにとどまることを知らない。わたしたち二人は手をつなぎ合いながら、その流れの小さな一部となって運ばれて行く。その間もわたしはうわごとのようにイヤ、全部イヤ、と繰り返した。涙も鼻水もとめどなく落ちていって、地面にごく小さなしみをつくった。
 スクランブル交差点では、いくつもの流れがぶつかって、うねりを起こしながら人々はギリギリをすれ違っていく。信号が変わるたびに流れの中身は入れ替わって、また別のすれ違いを生み出す。ここでは誰もが無数の他人の存在を実感して、他人に飲み込まれないように注意しながら歩き過ぎていく。自分自身は誰よりもちっぽけに思えて、それでいて自分の中の気持ちは、途方もなく大きく感じられた。
 二ノ倉さんはずっと黙ったまま、わたしの手を握っている。その小さな手は、温かくて、柔らかくて、優しかった。

「ごめんね」
 犬の銅像周りの鉄柵に腰を下ろして、わたしは呟くように言った。視線の先には、手にしたホットレモンティーの暖色のパッケージが見える。二ノ倉さんが自販機で買ってきてくれたものだ。
 わたしの隣に腰掛けた二ノ倉さんは、缶コーヒーをごくごく喉を鳴らして飲んでいる。頭を後ろに傾けて一気に飲み干した後、
「一つ聞きたいんだけど」
 と言った。
「先週、階段からあたしが落ちたのってさ。あれ、誰かが押したの?」
 わたしは黙ったまま、力なく首を振った。あれに関しては、事故だったのか、それとも誰かがわざとやったことなのか、分かっていない。少なくともエレナが指示したことではなかったらしくて、あまりの出来事にさすがにショックを覚えていたみたいだった。
「だよね」
 二ノ倉さんは、事もなげに言うと、例のごとく淡々とした口調で淀みなく言葉を紡いだ。
「誰かにぶつかったのは確かなんだけど、押された感じはしなかったから、まあ事故だったんだろうなって。だから全然気にしてないよ、さすがにあの瞬間はびっくりしすぎてなんにも考えられなくなっちゃったけどね。
 それから多分誤解してると思うから言うけど、あたしがずっと休んでたの、あの件のせいじゃないから。あの後念の為病院に行ったけど、どこもなんともなかったし、次の日からも登校する気マンマンだったんだけどさ、そのタイミングでタチの悪い風邪ひいちゃって。なかなか熱が引かなくて、昨日になってやっと起き上がれたぐらいでさ。あー、これイジメに屈して不登校になったって思われるヤツじゃんダッセー、って思ってたけど、こればっかりはしょうがないから」
 そこまで言うと、彼女はうつむきがちのわたしの顔を覗き込んできた。髪が流れて目にかかるのを指でかき上げて、彼女の額が露わになる。生え際に産毛が生えているのが印象的だ。
「やっと泣き止んだね」
「うん」
「キレイな顔がぐしゃぐしゃ」
「そんなに?」
「そんなに。目も腫れてるし涙の痕も真っ黒だし。こりゃ明日まで残るね」
 あんなに泣きまくれば当然そうもなるだろう。特に驚きも嘆きもしなかった。
「制服もよれよれ」
 むしろ問題はそっちの方だ。明日からも学校があるのに、襟から裾から皺だらけだし、スカートに至ってはどこに引っ掛けたのか少しほつれてしまっている。
 お母さんの顔が浮かんだ。こんな恰好で帰ったら、きっと相当驚くだろうし、何があったのか問い詰められるに違いない。次いで部活の顧問の先生の顔が浮かんだ。LINEで早退することは一応伝えてあるけれど、次に会ったときには物凄い剣幕で怒られることだろう。現にスマホには凄い数の通知が来ているけれど、怖くてまだ確認していない。
 部活の他の部員たちの顔も浮かんだ。お父さんの顔も浮かんだ。エレナたちの顔も浮かんだ。みんな一様に、失望の表情を浮かべている。
 けれども。不思議と、胸の内はすっきりしていた。
「結構、楽しかったんじゃない?」
 可愛らしいハスキーな声が少しイタズラっぽい音を含んでいて、わたしは声の主を見る。二ノ倉さんは相変わらず真顔だけれど、心なしか少しだけ、口元が微笑んでいるように見えた。
「二ノ倉さん。わたしね」
 答える代わりに、わたしはまた、この胸の内を彼女にさらけ出した。
「わたし、二ノ倉さんのこと、憧れてたんだ。多分、今年の春にはじめて会ったときから、ずっと。二ノ倉さんには、好きなものとか、やりたいこととか、明確にあって。それで、それを全然恥ずかしがったりしないで堂々としてるでしょ。好きなことを好きなだけ、話すでしょ。話したくないことは全然話さないでしょ。自分の思ったことは、思ったときにすぐ口にするでしょ。そういう、他の人の目とか気にしたり、怖がったりしないでいられるところが、本当にすごいって思う」
 彼女は、とつとつと話すわたしのことをじっと見つめてくる。その瞳は、いつも以上に輝いて見えた。
「わたしは、そういうの気にしてばかりだから。怖がってばっかりで、なんにも自分の思ったこと、口にできないから。だから、二ノ倉さんのことがずっと羨ましくって。……できれば、二ノ倉さんみたいになれたらって、二ノ倉さんと、仲良くなれたらって、思ってた。今でもそう思ってる。……そんなこと、もう言えないけど。言っちゃいけないけど、わたしは」
 彼女の瞳を見ていられなくなって、わたしは顔を更にうつむけた。
「あんなにひどいことをして。たくさん傷つけて。ごめんなさいもなにもできなくて。……だからわたし、本当は二ノ倉さんと口をきく資格なんて、どこにもないんだ」
 隣から、立ち上がる気配がした。地面に向けた視界に、ピンクのソックスが入り込んでくる。
「思ったことを口にできないって言いながら、さっきからかなり本音の本音、話してくれてるよね」
 本当だ。自分の口からこんなにたくさんの思いが溢れてくるなんて、今までなかったことだ。
 何が自分をそうさせているんだろう。ライブの興奮の余韻なのかな。目の前に居る彼女につられているのかな。
「笹塚さん、大分ぶっちゃけてくれたみたいだから。あたしも、正直に言うね」
 普通に話しているのに近くから囁かれているような、落ち着く声。けれども、それが今は少しだけ、震えて聞こえた。
「階段から落ちた次の日も登校するつもりだったって、さっきはああ言ったけど。ちょっと……ううん、結構嘘ついてた。本当は、あたし、すごく怖かったんだ。とてもじゃないけど学校になんてまた行ける気がしなくて。次の日の朝も怖くて、震えて、寒気がして仕方なくて。まあ本当に熱も出てたんだけど。それだけじゃなくて、心細くて仕方なかった。学校に行っても友達なんていないし、味方なんてもっといないし。こないだと同じ目に遭っても助けてくれる人なんていないんだって思ったら、ゾッとした。
 今日だって、本当だったら登校しようと思えばできたはずなのに、やっぱり身体が動かなくて。でもこのままじゃいけないと思ったから、ライブだけはなんとしても行こうって。それで、一緒に行ける人を探しに学校まで行ったんだ」
 顔を上げると、二ノ倉さんとまた目が合った。いつも真顔のはずの彼女が、わずかだけど眉間に皺を寄せている。
「笹塚さんに声を掛けたのは、暇そうだったからじゃない。逃げたくて仕方がなさそうだったから。でも逃げちゃいけないって思ってて、身動きがとれなくなっていそうで。だから、『逃げよう』って、声掛けたんだ。笹塚さんも、あたしも、『逃げよう』って。そこであたし初めて、自分も逃げたかったんだって、気がついたんだ。
 笹塚さんのおかげで、あたし、逃げられたんだよ。一緒に逃げてくれる人が居てくれたから」
 彼女の声は段々と湿っていった。瞳が揺れ始めた。気がつくとわたしは手を伸ばして、彼女の両手を握りしめていた。
「わたしも、二ノ倉さんのおかげで、自分がずっと逃げたかったんだって分かった。逃げることができた」
 一度、息を吐く。深く、吐く。そして思いっきり吸ってから、今抱いているすべてを彼女に伝えた。
「今まで、ごめんなさい。今日は、ありがとう。もし許してくれるなら、わたし、二ノ倉さんと友達になりたい」
 彼女の瞳から雫がこぼれて、頬を伝っていく。「でも」と、彼女は震える口を押し開いた。
「でも、あたしと一緒にいたら、笹塚さんまでイジめられちゃう」
「大丈夫だよ。この際、わたし、スパイになる」
「スパイ?」
「そう。表向きにはエレナたちと友達のままでいて、いじめの証拠を集めていくの。ボイスレコーダーとか音無しカメラとか使って。で、たくさん集まったら、警察? 教育委員会? PTA? ……とにかく一番効果的な方法で大人に訴え出てやるんだ。そうしたら、さすがのエレナたちだって一網打尽だよ」
「うまくいく?」
「きっとうまくいくよ。……うまくいかなくても。そのときはわたし、二ノ倉さんと一緒にまた、逃げるよ」
「本当? 逃げてくれる?」
「逃げる。どこまででも、逃げるよ。この世の果て、その先まで」
「約束してくれる?」
「うん。約束」
 二ノ倉さんは顔をぐしゃぐしゃにしながら、初めて私に笑顔を見せてくれた。ぎこちないけれど口角をしっかりと上げたその顔が、その笑くぼが見られたことがわたしは嬉しくて、たまらなく嬉しくて、握りあった手に力を込めた。彼女もそれに応えて、力を込めて握り返してくれた。それだけじゃ足りなくてわたしは、少しだけ身をかがめて、彼女のおでこに自分のおでこをくっつける。二ノ倉さんの星をたたえた大きな瞳がすぐ間近にあって、とてもキレイで、わたしはいつまでもそれに魅入っていた。

 その後、わたしたちの約束は果たされることはなかった。というより、果たす必要がなくなった。
 翌日から二ノ倉さんは学校に復帰したけれど、エレナたちのいじめはすっぱりと無くなった。一週間前の事故でさすがに懲りたのか、それともエレナが単に二ノ倉さんに飽きただけなのか。どちらなのかは分からないけれど、とにかく平穏な日常が戻ってきたことは確かだった。また、わたしへの興味も同時に失せたのか、エレナとわたしとの関係も急速に薄まっていった。
 それから、わたしは両親に思いのたけを吐き出して、部活をやめることができた。苦しいばかりの暗闇だとばかり思っていた現実は、底を抜けてしまえば、案外わりとすぐ日向へと続いていたのだ。
 ただ残ったのは、あの日のライブで群衆の中へ二人で逃げ込んだ確かな実感と、あのとき交わした手と手の感触、くっつけあったおでこの温もり……あの日の記憶がある限り、わたしたちはいつだって、逃げる準備は出来ているんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?