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ゲルニカの旗は九州の小学校で起こった事件を主題にしている。その少女は十二年間も大人たちの裁判闘争の犠牲になったのだ。

「小さな優しい革命」とか「小さな革命を起こす最初の一歩、最初の一冊」とか「だれにでも本が作れる、だれにでも本が発行できる、だれにでも出版社がつくれる」といったタイトルのコラムを書きつづけてきたが、このコラムを読む人の大半がそのイメージをつかめていないはずだった。いったいどんな本ができるのか、手作りの本とはどのようなものなのか、どのような工程が作られていくのか、そんな簡単にしかもほとんど金をかけないで本ができるのか、それらのことがまったく見えていないはずだった。言葉よりも一冊だった。手作り作業でつくられた一冊を、まずこの小さな革命に参戦する人たちに手に取ってもらうことだった。

そこで最初の一冊をクラウドファンディングに投ずることになるのだが、しかしここで問題になるのが内容だった。なかみが空っぽだったら、それはまったく無駄な徒労の作業になる。膨大な時間とエネルギーを投じて作り出す本は、その本を手にした人たちの心に深く響いていくきびしい創造が必要なのだ。

高尾五郎さんの作品群は、すでに草の葉ライブラリーで刊行されているが、
ゲルニカの旗
最後の授業
吉崎美里と絶交する手紙
南の海の島
総計650枚(四百字詰原稿用紙)にも及ぶ四編をあらたに編集して投じることにした。いずれも読者の心に深く響きわたる名作である。どのようなストーリーが展開されているかを、そのストーリーの一部分を抜き書きしていくことにする。いわば映画の予告編といった趣向である。この本に手にして全作品を読み込んでほしいという熱い予告編である。

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A4版 360ページ 頒布価格2500円 
手作り編集制作出版  限定百部発行

ゲルニカの旗
六年生全員で卒業式に飾るためにピカソのゲルニカを模写した。ところが、その卒業式の日、子どもたちが何十日もかけて描いたゲルニカの大壁画が外されたのだ。そのことに一人の少女が、その卒業式で憤然と抗議した。教育委員会はその少女の担任教師を処罰した。長い長い裁判闘争が起こった。大人たちの闘争にこの少女は実に十二年も巻き込まれるのだ。「ゲルニカの旗」は子どもが担うべきことではない悲劇を、胸に貼りつけて歩いていかねばならなかった少女を、しびれるばかりに深く描き込んでいる。子どもたちの悲劇、そして明日をめざす教育を描いた屈指の作品である。

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 私はもともと元気のよい子供だった。いつも仲間の中心にいるような子供だった。私が砂場にいこうというと、みんなどどっと私とともに移動し、私がアッカン探偵しようというと、またみんなでどどっとその遊びをはじめる。そんな子供だったから一年生のときからずうっとクラス委員だった。私はなにかそれが自然に与えられた自分の仕事だと思い、溌剌としてその役割を担っていた。そんな私がある時期からまるで百八十度転回したように、仲間からはじきだされ、一人ぼっちになり、自分のなかに引きこもり、一人うじうじと苦しむ暗い性格の子供に変ってしまったのだ。それはある出来事からだった。
 私の町はその頃まだ下水道の施設が完備されていなくて、し尿汲み取りのバキュームカーが町を走りまわっていた。私のクラスに洋子という女の子がいたが、彼女の父親がその仕事をしていた。そのためか残酷な子供たちは、彼女をいつも臭い臭いといっていじめる。私はそんな彼女をいつもかばっていた。あるときなど彼女を臭いといった男の子を私たちの輪のなかに連れてくると、
「あんた、どうして臭いなんていうの。そんなこといっていいと思うの」
 と吊し上げてその男の子を泣かしてしまったぐらいだった。仲間が悲しい思いをするのを黙ってみていられなかったのだ。一年生のときからクラス委員だった私のなかに、いじめなどないクラスをつくろうという使命感といったものが、深く根を張っていたからかもしれなかった。
 三年と四年のときのクラス担任は宮田先生だった。四十代に入ったベテラン教師だった。力をもった教師だったのだろう。飛び箱を短期間で飛べるように指導してしまうとか、算数の授業はちょっとした権威になっていて、他の学校の先生たちがその授業を学びにやってきていた。
 しかしそれは大人たちの評価で、子供たちの評判は決していいものでなかった。言葉づかいが下品だとか、すぐにカッとなるとか、興奮すると手当たり次第に物を投げつけてくるとか、いつも竹刀を手にしていてそれでばしばしと机を叩くとか、ファシストで暴君だとか。
 しかし子供にとって先生は絶対的な存在だった。どんなに欠陥のある先生でも、好きにならなければならなかった。とくに私はクラス委員だった。クラス委員とはいわば先生の忠実な助手といった存在だったから、まず先生を尊敬し好きにならなければならなかった。
 私は意識して宮田先生を好きになろう、好きになろうと自分にいい聞かせた。それは宮田先生がどうしても好きになれなかったからだ。宮田先生は教師として不適格どころか、なにか人間として欠陥があるということを鋭くかぎつけていた。しかし先生とクラスの仲間たちとをつなぐ役割を担っている私は、痛ましいぐらいにこの先生を好きになろうと努力していたのだ。
 しかし四年生の二学期に、とうとう私はその努力を投げ捨ててしまった。社会の時間だった。家庭内での父親や母親の役割、さらに父親や母親が働いているさまざまな職業の役割というテーマの授業だった。宮田先生は子供たちに父親や母親の職業をノートに書かせた。それを一人一人読み上げさせていった。いま振り返ってみると、その授業は子供たちのプライバシーのなかに踏み込んでいくことだった。それだけに教師には厳しい節度が必要だった。それなのに宮田先生は、
「なるほどお前の母ちゃんは、夜、働いてんのか、夜の蝶っていうわけだな」
 といった踏み込み方をするのだ。すると子供たちは意味もわからず、夜の蝶、夜の蝶とはやし立てた。子供たちをそんなふうにはやし立てることが、なにかこの教師には活気あふれる授業をしていると錯覚しているところがあった。
「雄太の親父はいま失業中なのか、どうりで雄太が不景気な顔していると思ったよ、百円どころか十円の金も入ってこねえからな、だけど給食費はちゃんともってこいよ、食い逃げはまずいよな、いくら失業中だってよ」
 といって子供たちの卑しい笑いを誘う。もちろんそのあとに「景気なんて天気と同じで、雨のち晴れだからな、日本経済も晴れたら親父もまたどっかの会社に雇ってもらえるんだから、お前もがんばれよ」とつけ加える。しかし一度ぐさりと突き刺すような表現をしておいて、頑張れもないものだ。
 私はだんだんいやな予感がしていた。私はなにかそこでいままで懸命に耐えていたものが、一気に切れてしまうのではないかという不安におびえた。とうとう洋子の番になった。宮田先生はいきなりこういったのだ。
「洋子の家は英語でいえばトイレ・クリーニング屋ってところかな、日本語でいえば便所屋だなあ、どうりで臭せえと思ってたけど、便所屋だからしょうがねえよな」
 またみんながどっと笑った。私は心のなかで絶望の声を上げていた。なんという紹介の仕方なのだろうか。
「いいか、社会というものはな、洋子の親父のような職業があるから、ちゃんと機能していくんだ、便所屋がこなかったからどうなる、トイレがパンクするだろうが、パンクしたら町中臭くてかなわんわな、社会の底辺ではいろんな人間がいろんな仕事をしている、だから職業をあれが上だ、これが下だなんていう差別の目でみてはいかん、洋子の親父さんは、この町のもっとも臭いところを支えている尊敬すべき人なんだ、洋子がちょっとぐらい臭いからって、みんなもからかうんじゃねえよ」
 私は立ち上がり、先生! と叫んでいた。
「どうして、洋子ちゃんが臭いんですか、そんなのは嘘です、洋子ちゃんの家にいったことがありますか、洋子ちゃんの家はいつも花が一杯です、玄関にも、塀のところにも、一年中花を咲かせています、それは洋子ちゃんのお母さんが、毎日毎日丹念に育てているからです、洋子ちゃんのお母さんは、家の前を通る人が、ちょっとでも花を見て、幸福になってくれればうれしいわねっていってました、洋子ちゃんの家はそういう家です。先生は間違っていると思います、どんな職業も大切であり、どんな職業についても人は平等であるならば、もっと尊敬した説明の仕方をすべきです、便所屋だとか臭いだとかいういい方は、先生こそ差別しているからではありませんか、私は先生にお願いしたいことがいっぱいあります」
 そのとき私の胸のなかにたまっていたものが、なにか爆発するように噴き出していったのだ。
「チョークを私たちに投げつけないで下さい、黒板消しも投げつけないで下さい、なにか気に入らないことがあると、すぐに怒鳴り散らして、竹刀でばんばん黒板を叩いたり、机を叩いたり、それとか椅子とかをけとばします、私たちは怖くてしかたがありません、先生はどうしていつも竹刀を持っているんですか、どうして竹刀を持って授業するんですか、竹刀がなければ授業ができないんですか、すぐに愛の鞭だといって私たちを竹刀で叩きます、思いっきり叩かれて痣ができた子もいます、ほかの先生は竹刀なんて持っていません、どうして先生だけ竹刀を持っているんですか、このクラスは竹刀がなければ成り立たないんですか、それと、それと、私たちが一番いやなことがあります、それは、それは‥‥」
 私はここで涙があふれだし、その涙がそれはいってはならないことだと私を引き止めようとする。しかしそれもまたいわねばならないことなのだ。小学校に入学した子供たちは、父母に甘えるように先生に抱きついていく。先生もまた子供たちを抱き上げたり、抱きしめたりする。そんな濃密なスキンシップで深い心の交流が生まれるからだ。しかしそんな光景も二年生あたりになるとみられなくなる。しかし私たちのクラスでは四年生になってもその光景が消えなかった。授業が終わっても、先生は職員室に戻らず、教室に残っている。そして膝の上に女の子たちを抱き上げているのだ。なにかそれはとてもいかがわしく、なにか許せない光景だと思っていたのだ。私はとうとうそのことをいった。
「先生は男の子たちが、このクラスのことをなんていっているか知っていますか。このクラスは宮田のハーレムだって、私はこの言葉を知りませんでした、でもその言葉の意味がわかって、私はいやだなと思いました、このクラスで一番いやなことはそれです」
 それまで忠実な、牧羊犬のような役割をしていた私の突然の豹変に、先生は一瞬呆然となっていたが、とどまることのない私の必死の抗議にあわてて、
「わかった、わかった、お前のいってることは、お前の家は赤だからな、赤いものほど怖いもんねえからな、わかった、よくわかった、先生も改めることは改めるから、もうやめろ、もう座れ」
 といって私の発言をそこで封じた。
 それからだった。宮田先生の私に対する攻撃がはじまったのは。陰険で執拗だった。いまあの日々を振り返るとき、よく私はあの日々を耐え抜いてきたのだなと思うのだ。四十歳をこえた大人の前で、竹刀を手にした圧倒的な権力者の前で、十歳の女の子が毎日びくびくしながら生きていたのだ。

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クラウドファンディングに「ゲルニカの旗 南の海の島」を投じるのは、もちろんこの本を販売することにあるが、さらに高尾五郎さんの「ゼームス物語」四部作をセット販売する。四巻頒布価六千円。限定五セット。

第一巻 木立は緑なり
第二巻 あの朝の光はどうだ
第三巻 山に登りて告げよ
第四巻 大いなる旅立ち

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金字塔のまぶしさ──竹内敏
 さわやかである。しかもそれは口当たりのいい炭酸飲料ではなく、ビールのようにこくがあるのだ。「木立ちは緑なり」という表題からして颯爽としているではないか。それはまた白樺派のような理想主義があふれてはいても、民衆の切実な現実に根ざしているという点では、白樺派をこえている。
 九編からなるオムニバス風の物語にそれぞれ個性的な子供やその親が登場する。そして作者の分身を思わす塾教師の長太、児童館職員の弘、さらには智子の自立のドラマを伴走させることによって重厚な流れを形成している。
 あとに続く自分にとって、この金字塔はあまりにまぶしい。しかも、この金字塔は、向こうにあるのではなく、向こうから自分に迫ってくるのである。木立は緑なり、君はどうするの? と。(品川児童館)

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