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実朝と公暁  五の章

実朝は殺された。しかし彼の詩魂は、自分は自殺したのだと言うかもしれない。 ──小林秀雄


 
源実朝は健保七年(一二一九年)正月二十七日に鶴岡八幡宮の社頭で暗殺された。この事件の謎は深い。フィクションで歴史を描くことを禁じられている歴史家たちにとっても、この事件はいたく想像力をかきたてられるのか、その謎を暴こうと少ない資料を駆使して推論を組み立てる。しかしそれらの論がさらに謎を深めるといったありさまなのだ。それもこれも、実朝を暗殺した公暁がいかなる人物であったかを照射する歴史資料が無きに等しいところからくる。
 しかし鎌倉幕府の公文書とでもいうべき『吾妻鏡』を、なめるようにあるいは穴の開くほど眺めていると、この公暁がほのかに歴史の闇のなかから姿をみせてくるのだ。というのもこの『吾妻鏡』のなかに「頼家の子善哉(公暁の幼名)鶴岡に詣でる」とか「善哉実朝の猶子となる」といったたった一行のそっけない記事が記されていて、それもすべてを並べたって十行余にすぎないが、しかしそれらの一行一行の奥に隠された公暁の生というものに踏み込んでいくとき、そこから公暁はただならぬ人物となって現れてくるのだ。
 それは歴史学者たちが好んで描く、実朝暗殺は幕府の重臣たちの権力闘争であったとか、北条一族が権力を握るために公暁に暗殺させたとか、公暁が狂乱の果てに起こした刃傷沙汰だったといったことではなく、なにやら公暁なる人物が、主体的意志をもって時代を駆け抜けていった事件、公暁が公暁になるために──すなわち鎌倉に新しい国をつくるために画策した事件であったという像が、ほのかに歴史の底から立ち上ってくるのだ。
 したがってこの謎に包まれた事件に近づいていくには、暗殺の首謀者である公暁を、どれだけ歴史のなかから掘り起こしていくかにある。もし公暁に生命を吹き込むことに成功したとき、私たちははじめてこの歴史の闇のなかにかすかであるが、一条の光を射し込ましたということになるのであろう。

 

実朝と公暁 
五の章

 洛南に立つ園城寺は健保二年(一二一四年)延暦寺衆徒の襲撃にあい、大門や本堂など主要な建物をことごとく焼失したが、代々にわたって源家の菩提寺のような因縁深き寺院であったためか、幕府は鎌倉の威信をかけて園城寺再建に立ち向かった。かつて頼朝は東大寺再建に力を注いだが、そのときに劣らぬばかりの力の入れ方で二人の奉行と四人の主計官を配して支援したほどだった。
 それからはや三年。金堂、講堂、宝蔵、五重塔、二層の屋根を持った大門や中門と、焼失前の園城寺を数段上回る規模がようやく雄大な全貌を見せてきたがいまだ普請は続行中だった。
 その日、公暁は普賢堂で一人の僧と対座していた。がらんとした板間に、格子の窓から朝の日が射し込んでいるが、堂内は暗くひんやりとしている。講堂の南方に立つ作業棟から大工たちのたてる槌音が風にのって聞こえてくる。しかし堂のなかはときを止めたかのような静寂が支配していた。
 道忠と名乗るその僧は年は四十歳前後であろうか。自身のことをほとんど語らなかったが、ただならぬ過去を引きずって園城寺にたどりついたことを、公暁は一瞬にして見抜いていた。柔和な表情をしていたが、時折その眼に走る虚無の影は深い。その挙止やたたずまいは明らかに武者のものであった。その言葉づかいになつかしい東方の響きがまじる。そのことがまず公暁の関心をひき、それからしばしばその僧と言葉を交わすようになった。その道忠が、あるとき公暁にこう尋ねてきた。
「公暁さまの読経、夜更けによく耳にいたしますが、どのような経典をお読みになられているのですか」
「般若心経や観音経や昆沙門経といろいろです」
「頼朝さまにもまた伊豆に流されての長い無為の日々がありました、その無為の日々を、はげしい読経で明け暮れたと聞いております、公暁さまのお姿に思わずそんな頼朝さまをかさねてしまうのは、私の眼がいまだ行をつんでいないということでしょうか」
「何やら私の祖父を知っているような口ぶり、前から聞こうと思っていましたが、あなたは以前鎌倉に仕えていたのではございませんか」
 一瞬、僧の眼がきらりと光ったが、あわてて何かを隠すように苦く笑って、
「私は鎌倉を捨てました、いや、鎌倉から捨てられました、されど鎌倉に対する思いは、公暁さま以上かもしれません、なかなか人は過去を捨てられるものではありませんね」
「剃髪された方は、それぞれが暗い過去を背負って歩いているように見えます、とりわけあなたは重く深い過去を引きずっているように見えますが、よかったら私にその話を聞かせてくれませんか」
「私の過去などたいしたことはありません」
「私はいま無性に鎌倉の話が聞きたいのです、鎌倉のあのなつかしい匂いをかぎたいのです、京にきてもう七年近くになりますが、私の心はなぜかいよいよ鎌倉への思いを募らせていくのです」
 こうして公暁とこの僧の関係がはじまった。公暁が見抜いたように道忠の教養はただならぬものがあった。語る言葉が深い。まるで公暁に教授するかのように、鎌倉創世の時代から話しはじめていった。それは公暁にとって驚きそのものだった。公暁がはじめて知ることが語られていく。明らかに道忠は幕府中枢にいた人物だった。中枢にいて数々の事件に遭遇した人物でなければ、けっして知り得ないことが語られていくのである。
 あるときは落ち葉の敷きつめられた山林で、あるときは渓流のそばで、あるときは僧房の片隅で、あるときは楼門三層の屋根瓦の上で、あるときは本殿の菩薩像の前で、他者の眼を避けて密談するかのように二人は向き合った。道忠の話は一つのうねる大河のようだった。公暁はあたかもその大河の渦の中に飲み込まれていくような興奮にとらわれた。話がどんどん現代にのびてくる。
 実際に出会っている人物が頻繁に登場してくる。彼を膝にのせたり抱き上げたりした御家人や武者たちがあらわれてくる。そしてその密会が十数度に及んだとき、とうとう公暁の父二代将軍頼家が登場してきた。
 静寂が支配する普賢堂のなかに、大工たちの建設の槌音が風にのって運ばれてくるが、その音はまるで道忠の語る世界を背後で彫り込んでいくかのようだった。道忠の囁くように低く響く声が、また公暁の心に突き刺さっていく。
「私の描く父上の相貌が、公暁さまにはご不満で、さぞや不快きわまりないかと思われます、しかし私の真意は極力真実を語ることにあります」
「そのことはよくわかっています」
「むろん真実のすべてを知ることも語ることもできません、しかし流言にまどわされず、真実の道に分け入ろうとすることはできます、その姿勢がなければ歴を開くことはできないでしょう」
「真実を話して下さい、私も真実が知りたいのです、どうぞ話をすすめて下さい」
「公暁さまの生きる現代を照らし出すには、父上のことは避けて通ることはできないのです、公暁さまにとって苦しい時代に入ります、どうかお許し下さい、私はただ真実を語るのみです」
「わかっています、私にかまわずそなたが目撃した、あるいは体験した真実をお話し下さい」
 かたりと音がした。僧ははっとしてその音のする方に顔を向けた。彼はいつも他者の眼を気にしていた。壁の裏にまで、林間の奥にまで、警戒の眼や耳を向けていた。公暁が誰何した。鋭い声が堂内を走った。
「誰だ、そこにいるのは
 箒を手にした小僧の姿が闇から飛び出してきて、
「朴念です、堂を掃ききよめます」
 と声を震わせて言った。
「ああ、朴念か、ここはよい、ここは後でしてもらう、いまは遠慮してくれ」
 小僧の足音が消えていくのを待って、道忠はまた語りだした。
「どんな事件も複雑な要素がからみあって起こるものであり、その事件を引き起こす原因は一つではありません、しかしまたそこには事件を引き起こす一つの大きな潮流といったものがあるのです、梶原景時の事件はさきにお話ししましたように、その底に北条一族と梶原一族の力の闘争が流れていました、引企一族を滅亡させた事件もまたその底に、争闘を引き起こす大きな潮流が流れていたのです。
 頼家さまと引企一族の絆は太く、頼家さまが引企能員の娘、若狭局と婚姻されることによってさらに強固になっていきましたが、それはすなわち引企一族の勢力が台頭していくことでした、その若狭局さまに一幡さまがお生まれになると、引企一族はいよいよ幕府の中心へとせせり出ていくのですが、しかしこのとき頼家さまは病に伏せられるのです、その唐突な病にさまざまな憶測が流れましたが、なかでも毒を盛られたという説は私には深い根拠があるように思われます。
 頼家さまは強壮なお方でした、武闘にしても、狩にしても、蹴鞠にしても、おつきの武者たちのほうが先に音を上げるばかりのお元気さ、そのたくましいお体が強い毒薬から生命が守られたということかもしれませぬ。ともあれそのとき、意識が混濁するばかりの重い病に伏せられた頼家さまを見て、幕府は死の床についたと判断し、かねてから計画されていた一つの策を進行させていきました。
 頼家さまの後任には、頼家さまと引企の娘の間に生まれた一幡さまを将軍につける、すなわち公暁さまの兄上であります、しかしこのとき一幡さまが統治する領域は東国の二十八か所であり、残る西国の三十八か所は頼家さまの弟君である実朝さまに委ねるという、まことに奇妙な分割案を幕府は提示してきたのです、この奇妙な分割案は、台頭してきた二つの勢力の権力闘争の産物だったと当時は理解されておりました。
 つまり頼家さまとその子一幡さまを擁する頼家派と、実朝さまを擁して政事の全面に躍り出ようとする反頼家反引企一派、これを実朝派といたしましょうか、この二つの勢力の駆け引きのなかで生まれた折衷案だと、しかし次第に明らかになっていくのは、この折衷案は実は、恐るべき陰謀を隠すための絹の覆いといったものであったのです、その陰謀はどのように展開されていったか、まず最初に仕掛けられたのが引企でした、引企はこの案に当然反対の声を上げました、東国も西国もすべて将軍になる一幡さまが掌中すべきものであり、このような愚かな分割案は鎌倉を二分するものでありとうてい受け入れることはできぬと。
 実朝派はその引企の言動を捕らえ、引企は幕府を転覆せんと画策している、蜂起に備え地方の軍を動かし鎌倉突入の機を伺っている、幕府を一気に掌握せんとする同盟組織をつくりだしているといった根も葉もない挙説をさかんに流布させていきます、これこそ鎌倉に事を起こしていく定石でした、もともと引企には幕府を牛耳る力も野心もなかったのでありますが、反頼家派の中心に立つ北条は、その讒言をさかんに広めていって引企を追い込んでいったのです、そして機が熟したと見るや、引企能員を薬師如来像の供養の儀ありと、北条時政の私邸に呼び出すのであります。
 のちのちまで語られることでありますが、そのとき引企の家臣たちは能員を懸命に押し止どめたそうであります、家臣たちもまたそれが北条の謀略であることをよく知っていたからです、しかし能員は、引企が乱を企んでいるなどと世間に流布されている根も葉もない流言を打ち消すためにも、出かけねばならぬと家臣たちの制止を振り切り、刀も持たず、家臣もつけず、単身時政の私邸に乗り込んだのでありました、飛んで火にいる夏の虫とはこのことでありましようか、北条は能員をあっさりと誅殺すると、大部隊を率いて引企の館を襲撃したのです」
 堂のなかに朝日が射し込んできた。まぶしいばかりのひかりだった。堂の奥に座する仏像にもひかりがあたり、黒い肌が生命の色に染まっていく。しかし公暁にはその景色が見えない。彼が一心に見つめていたのは、道忠の口から語られる歴史だった。
「引企一族の懸命の抵抗が続き、鎌倉の各所ではげしい争闘が展開されましたが、圧倒的な幕府軍に次第に追い詰められた引企は、ついに敗北を告げるかのように館に火を放ちました、その火を見てその戦闘を指揮していた義時は、おそらく焦ったでありましょう、なぜなら成し遂げなければならぬ仕事がまだ完了していないからです、この謀略の目的はむろん引企一族の掃討にありました、しかしその背後にあるあと二つの大きな獲物を屠らねばならないからです、建物という建物からもうもうと煙りが立ち上るなか、義時の一隊は一幡さまを探し求めて駈けずり回りました、卑劣にも彼らはあたかも一幡さまを救出しにきたかのように、一幡さま、一幡さまと声をかけながら探し求めたのです。
 そのとき紅蓮の炎に包まれた建物のなかから、その声に呼び出されたかのように、女たちが一人の少年を抱きかかえて飛び出してきました、女たちは叫びました、この方こそ一幡さまであられます、次の将軍になられる方です、道をおあけ下され、この方に指一本も触れてはなりませんと、その少年がまぎれもなく一幡さまと見届けた義時は、冷酷非情なる声を部隊に発するのです、あの少年の首を落とせと、抜刀して襲いかかっていく義時の部隊を眼にした女たちは、驚愕の声をけたてて一幡さまをかかえ再び紅蓮のなかに飛び込んでいったのです」
 公暁の顔はその衝撃の深さを語るように青くなっている。震える声で道忠に問うた。
「義時がその謀略の指揮をとったのですか」
「左様でございます、北条義時がいま歴史の舞台にあざやかに登場してきたのです、いつも父、北条時政の陰に隠れていました義時が、いよいよ政事の前面に躍り出てきた一瞬でした」
 公暁の澄みきった眼の奥で、めらめらと憤怒の火が燃えていた。その視線に道忠はたじろぐがさらに語らねばならぬと公暁に問いかけた。
「公暁さまは、お父上がお亡くなりになったときのことを、お聞きになられたことはありますか」
「周囲の者は病気で亡くなったと言うだけでした、しかしそこに何かが隠されていることは幼い頃から知っていました、しかしいまのいままでそのことを知ろうと思いませんでした」
「なぜでございますか」
「怖かったのです、そのことを知ることが怖かったのです」
「その避けたいお気持ちのなかに、私は踏み込んでいってもよろしいのでしょうか」
「私はいまようやく、歴史を知らなければならないときにきたのです、いまは避けてはならぬと思うようになりました、話を続けて下さい」
「意識が混濁するほどの、病から奇跡的に立ち直った頼家さまは、引企の事件を聞くと怒りに震えました、そして北条こそ誅すべきだと怒りの声を荒らげますが、もはや将軍という鎧を剥ぎ取られては裸同然の身、頼家さまに反攻する力など形成できるわけがございません。幕府は策謀どおりその年の九月に、頼家さまを三百の兵に警護させ、伊豆に追いやりました、鎌倉からの追放であり、伊豆の山中に監禁することでもありました、しかしそれもまたあくまでも最後の一点を完成させるための策略でした、頼家さまはいつまた蘇ってくるかもしれないのです、いつまた勢力を結集して鎌倉に打って出てくるかもしれませぬ。
 事実、頼家さまは幽閉の身でありながら、さかんに復讐の策動を試みています、北条は一刻もはやく、謀略の最後の一点を完遂させねばなりません、頼家さまを抹殺しなければ、その雄大な構図は完成しないからです、私たちはここで注意しなければならぬのは、この一連の筋書きを書いたのは北条時政ではなく、北条義時であったということです、引企の乱という架空の陰謀をでっち上げていったのも、一幡さまをその騒乱のなかで消し去り、さらに頼家さまを山中に幽閉し、抹殺するという恐るべき陰謀もまた、義時が義時の時代をつくりだすために、書き上げたものなのです。
 その謀略の最後の一点を完成すべく、義時は元久元年の七月に暗殺部隊を伊豆に送り出しました、その部隊は七月十七日の夕刻に伊豆に参着しましたが、頼家さまは恐るべき剣の使い手、そのまま踏み込めば何人もの武者たちが犠牲になる、そこで部隊の指揮官は一計を案じ、頼家さまが湯殿に入っているところを、急襲するという作戦に打って出ました、ひそかに潜入させた諜者が、頼家さまが入浴したという布を振る、それを合図に暗殺部隊がどっと湯殿になだれ込み、裸身の頼家さまを惨殺するのは実に容易なことでした、首を落とし、ふぐりまで切り取ったのです、それがすなわち、頼家さまは病死されたと報告された、その病死という真の意味でございます」
 その日、公暁は四人の武装した僧の警護を従え、京に向かった。権中納言一条信嗣の館で催される歌会に出るためだった。公暁が一条家に出入りするようになったのは、大学寮で一条信嗣の子息信鷹と知り合った関係からだった。歌などというものを嫌悪していた公暁が、公家の歌会に顔を出すようになったのは、彼のなかで複雑に揺れ動く実朝への思いからだった。実朝を知るには、実朝が心を奪われている歌を知らねばならぬと思ったのである。
 一条信嗣は三十四歳の時、現代歌論を著わして一躍注目を浴び、いまでは藤原定家らと並んで四歌人の一人とたたえられるばかりの人物だった。公暁はこの信嗣の主宰する歌会で、はじめて歌の世界の深さを知ったのだ。彼がそれまで嫌悪していた歌なるものは、けっして軟弱なものではなかった。歌をつくるとは、白刃を抜いて斬りあう戦闘に比肩する力動の行為だった。
 すでに公暁は建歴三年に編まれた実朝の和歌集を手にしていた。その頃から公暁は、その六百余編にも及ぶ歌の一つ一つを、まるで実朝の心を写し取るかのように筆写していた。歌の一文字一文字を書き写していくと、近くて遠い存在だった実朝が、彼にぐんぐん近づいてくるかのようだった。それまで見えなかった実朝の悲しみといったものさえ見えてくる。
 しかし道忠に出会ってからその作業をぱたりと止めてしまった。血で血を洗うばかりの謀略と暗殺が打ち続く鎌倉の歴史を吹き込まれた身にとって、もはや実朝のつくり出す歌の世界はそらぞらしく空虚に思えてきたのだ。
いつも京に向かうとき、公暁には武装した四人の僧の警護がついた。黒馬にまたがるその日の公暁は、その警護の僧たちが乗った馬を振り切るように鞭をふるった。矢のように疾走する黒馬のあとを、四騎の馬が必死に追跡する。公暁は何か真実という獣を振り切るように、林間を駈け抜け、峠を駈け抜けていった。その日の公暁は一条の館の門前で馬を止めなかった。猛然と門前を駆け抜けた馬はさらに南に向って疾走していった。



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