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木立は緑なり

 長太もまた文章を書くのが苦手だった。蝶の仲間たちと「南の国から」という季刊誌を発行していて、そのなかに彼に割りあてられたページがあるのだが、その原稿を書き上げるためにいつも四苦八苦している。それなのに毎月子供たちに作女を書かせることにしていた。
 国語という科目で子供たちは、漢字を書いたり、長い文章を読んだり、そこになにが書かれているかをあれこれ解釈したり、あるいは文法を学んだりする。しかし長太にはどうも国語という科目には、それ以上のものがこめられているように思えるのだ。というのも人間は言葉によって成長していく動物である。言葉によって道を切り開いたり、人生をつくりだしていく。したがって国語の最後の目的は、子供たちのいわば人生をつくりだしていく言葉の木を豊かに育て上げることではないのかと思うのだった。言葉の木を育てるためには、もちろん漢字も読解力も必要だった。しかしそれと同じように、いやそれ以上に言葉を表現する力、どのような言葉の葉を自分の内部に繁らせるかが大切だと。
 そのための長太は作文にこだわるのだが、しかし子供たちは作文が嫌いだった。さあ作文を書いてもらうぞと言うと、子供たちはいっせいに悲鳴をあげる。その悲鳴は高学年になるほどはげしくなり、中学三年生にもなると、そんなことやってられるかという反抗の姿勢をありありとしめすのだ。しかし長太はそんな声に負けずに子供たちに一か月に十枚程度の作文を書かせることにしていた。
 熊谷淳一は次のような作文を書いた。誤字脱字そのままに、なるべく原文のまま再現してみると、

        ぼくの希望ぼくの夢

ぼくは小学校のころからは勉強よりテレビが多くて勉強はしませんでした。こうゆうすごし方をしていて小学佼が終わり中学に入った。中学の一二年のときも小学と同じ生活をしていた。でも中学ではクラブといゆものが活発だから少しはへいきだと思った。
ぼくはサッカー部にはいりました。でもぼくはすぐにサッカー部をやめそうでした。サッカー部の一日は朝六時ごろおきて朝食を食べていく。あまり食べるとおなかがいたくなるから少ししかたべなかった。食べてから学校の先にはしがありそこに集まりいく。カバンははしにあつめてそこにみはりが二人ぐらいそのまわりをはしる。ふとうの方を十六キロぐらい走る。さいしよはまずはしの上をはしる。そしてはしをおりて少し走る。すると右にうんがみえてひだりに国鉄のしゃこがみえるそこを毎日走る。すると二つめのはしがあり二十分ぐらいで三つのはしがあり四つめがある。これで半分ぐらいでずうっと走る。だいたいかかる時間はよくて五十分ぐらいでまたいっしゆうしてはしの下にもどる。それから学校にいく。つくのがふつうが八時五分ぐらいでじゅんびたいそうをしてふっきん百回はいきん百回をしてボールでいろいろなことをしてからしあいをする。おわるのが八時二五分ぐらいで三十分にはじまるからいそいできがえてからいく。
じゅ業がはじまりごごの練習があるごごがすごくつかれる。まずグランド十しゆうをしてじゅんび体操をしてからうでたてふせ百回してシュートの練習パスの練習をする。そのあとにしあいが四五分して終わりで終わるのが六時半ぐらいでじゅくの日は走って帰る。そして夕食を食べてからじゅくにいく。そして十一時ぐらいに家についてねる。その次の日が、足がいたくなり練習がきつくなる。でも2年間つづいたからよかったと思う。はじめにはいったときは三十人ぐらいいて一年でやめたのが十三人ぐらいやめて2年でやめた人が八人ぐらいでもずうとたえてたえてもう少しで終わろうとしている。サッカーから帰るとじゅくがない日はテレビをみて、べんきょうは一しゅうかんに二回ぐらいしかしない。だからあまりべんきょうができない。でもじゅくにはいってからは少しはべんきようをしていると思う。
でも三年になったらこのままではいけないと思う。じゅけんがそなえているからだ。これからはなるべく毎日一時間はやろうと思うけどきめるだけで三日ぼうずである。三年になったら勉強より話が多いと思うから勉強はしない。春体夏体、冬体を使い、一年二年の勉強をとくにしてがんばりたい。そして少しせいせきをあげたいと思う。一日一日がだいじだからあそんでいるときではないと思う。でも高校のことはあまりわからない。普通工業とかがあるけどどれにはいるとかがわからない。
中学になってからいろいろなじゅ業があって一学期にはきゅうぎ大会や野球をやる。二学期はバレーボールで三学期はぼくの好きなサッカーである。遠足はデイズニーランドいきました。とてもたのしかった。長野県のいどう教室にいってたのしかった五月になるとしゅうがくりょこうで東北にいく。こういうことが学校で一番たのしい。家ではマンガをよんだりテレビをみたりラジカセであそんだりしている。ことしの冬のクリスマスにいもうとがファミリコンピュタ一をかって、それにむちゅうになってしまい勉強は後でやろうと思いやっているうちにねむくなってねてしまう。こういゆう生活をしていると一年なんてすぐ終わる。これではいけないので宿題はかならずやって、ていしつ物はかならずだそうと思う。
ぼくはいつも家ではなにもしていない。ぼくの夢は普通の高校にいき、普通のサラリーマンみたいなことをしたいなと思うけど…………。
ぼくのいなかは伊豆大島で夏体の話をしようと思う。夏休の三日目ぐらいから大島にいった。朝4時ごろ軽食をして横浜にいってそこからのりかえてさがみ鉄道でえびなまでいき小田急で小田原まで行きそこからバスで二十分ぐらいで舟つきばまでいく。ついたらはやすぎて二時間ぐらいまってやっと舟が来て乗った。やく二時間ぐらいでつく。そこにはいもうとと二人で行った。そこからバスでクダッチという所にいった。いとこのうちは本屋オモチャ屋洋服他をやっている。ぼくはたちがいくとたいていいとこのこどもたちがくる。だからおばあちゃんがたいへんです。だから毎日いろいろとてつだって朝はたいてい勉強をしてごご海に泳ぎにいきます。ぼくたちがいってからぼくたちはいとこのすいえい大会にいきました。その日おばあちゃんが入院しました。びょう名ははいえんでおそろしい病気です。その日からぼくはおじいちゃんと家にとまりました。そこでプールに毎日行きおじいちゃんの家ですごしました。プールといってもその水は海からとってきたものだからしお水です。十日ぐらいしてから父母がきて帰りました。
大島には一才ぐらいのときから毎年春休夏休冬休といっています。けれどことしは夏にいったきりで冬はまたおばあちゃんもたいへんだからいきませんでした。春休も行きませんでした。これから少しずついなかにいかなくなるなあと思いました。こうゆうふうにまだじゅけんというのはまださっぱりわかりません。これからは勉強で小学校のとき中学一二年のときさぼったぶんをこの一年間でしっかりやりたいです。
サッカーも夏休前で終わります。じゆけんといゆうのはあまいものではないと思います、うかる人もいれば落ちる人もいます。じゅけんはたたかうためのせんそうみたいなものです。ぼくは兄さんもねえさんもいないから高校がどうゆう所なのかどういうふうに勉強をやっているのかわかりません。だからこれからととか言っているけどできることは三分の一ぐらいだと思う。口でいっていても体でしめさなくてはいけないと思います。だからこれからは体しめしたいと思います。やさしさにあまえずきびしさについていきたい。
でもぼくよりもお父さんお母さんが心配しているからもお父さんお母さんたちにあんしんさせたいです。いつも勉強しろといわれているけど勉強は自分のためにやるもので何時間やればやるほどせいかがでると思います。これからは少しでも勉強しようと思う。じゅくを休まずに行きわからないことをしつもんしていきたいです。高校にいくのは勉強している人たちはらくだと思うけど小学校中学校でさぼっていた人は、はいれるとしてもたいへんだと思う。それだけにがんばりたいです。とくに国語数学理科社会英語をやってがんばりたいです。とくに国語は本をよみかんじをしっかりやり数学はきそをしっかりみにつけてけいさんを練習したい。理科はだいたい先生のゆっていることや実験でやったことがでると思うのでがんばりたい社会は地理、歴史は終わり公民という新しいものにはいり社会はだいたいあんきだと思う。英語は単語をおぼえて文法をかくじつに身につけたいです。他の技美体音はだいたい美技は作品をださないと点はあがらないと思う。ぼくはじぎようたいどはしずかにしているけど内容は先生のはなしが右からはいり左から出ていくみたいです。国語英語の時間はスピーチというものをやる国語は新聞のきじニュースを聞いた内容と感想を国語の時間に一人づつ発表する。英語は教か書にかいてある三四行をおぼえて発表するぼくがやっているときはしんぞうがドキドキしておぼえてるのがほとんどわすれてしまう。だから英語はこのじゅくにはいって少しは覚えられるけど一日で忘れてしまう。だから一日一日べんきょうしてやっと覚える。少しはじゅくでやっていることが学校でもやるからあんきりょくをつけたいです。

もっと勉強して高校合格したい。高校に合格すると父母はすごくよろこぶと思う。だからべんきょうをしてお母さんお父さんの喜んでいるかおにしたいです。せめて高校ぐらいだめと父母にゆわれているけど中学卒業だけじゃだいたいしゅうしょくするところがないと思うし、高校でもわるい所だと働先はむずかしいと思う。だから普通の高校にいきふつうのサラリーマンになり父母に喜ばせてあげてがんばりたい。でも学校の先生は一二年のときにふざけても三年の三学期ぐらいになるとふざけていた人もまじめになるといっている。こういうふうになったらもうおそいと思う。
だからいまから少しずつべんきょうしてがんばりたい。せいせきのできる人はどういうべんきょうをしているのかわかりません。一時間勉強するとしても、ぼくが三時間で覚えるのが一時間ぐらいですむと思う。それだけ勉強の力がちがうと思う。最初は英語もみんなで最初にならってもう英語べんろん大会ですごく長い文を発表している。それだけさが二年でついたので少しずつこつこつ勉強してがんばりたい。

 この作文のなかに繰り返し受験という言葉が出てくるから、淳一が中学三年生だということがわかる。するとこの作文を読む者は、いよいよ幼稚だと思うにちがいない。誤字脱字の多さ、それになんとまあひらがなばかりなのだろうと思う。それにきちんと句読点や終止符も打たれていない。
 しかし長太はもうそういうことは、どうでもいいことだと思っていた。ひらがなばかりだろうが、誤字脱字が多かろうが、終止符が打ってなかろうが、改行がきちんとできていなかろうが、そんなことは作文の本質となんの関係もないことだと思っているのだ。よく国語教師たちは、それが熱心な先生であればあるほど、真っ赤に朱を子供の作文にいれるが、あれほど子供に侮蔑をあたえることはない。あんなに朱をいれたら子供たちはもう作文を書かなくなってしまうだろう。
 作文というものは絵画と同じであった。美術教師たちはけっして赤鉛筆をにぎって添削などしないはずだった。正しい線描とか、正しい色とか、正しい絵などというのはないのである。作文とてそれと同じだった。その間違った文字こそ、その子なのである。間違った漢字で書かれたその作文こそ、その子の肌なのだった。ひらがなばかりで書かれたその作文こそが、その子の心なのだと長太は考えるのだった。作文にとって一番大切なことは、正しい漢字、正しい文章を書くことではなく、どれだけ言葉の葉を繁らせることができるかなのだ。どれだけそこに豊かな言葉が繁っているかなのだ。
 淳一の作文はいつも幼稚だった。それが彼の精神のかたちなのか、いつも単純な言葉をだらだらとつなぎあわせることだけだった。この作文もまたひどく退屈で幼稚な作文だった。三年生らしい高校受験のあせりが感じられる。そしていままでのぐうたらな自分からぬけだし、見事高校に受かって親を安心させたいというくだりでは、かすかに読む者に感情の波をひきおこす。しかしそれもまたすぐに消えてしまう。そしてまただらだらとのっぺりとした言葉が切れ目なく続くのだ。
 中三ともなるともう陰毛もはえそろう。その陰毛のように彼らの言葉の根も深く地中にのびていくのだ。その幹もくろぐろとたくましくなり、枝もしなやかに宙に伸び、そこに言葉の葉をいっぱいに繁らせる。しかし淳一の言葉の木は貧弱だった。幹はか畑く、なよなよした枝には、ほんのもうしわけ程度の葉がはらはらとついているばかりのようにみえる。世界は単純ではないのだ。世界は少しも美しくない。この世はきれいな言葉で成り立っているよりも、むしろ醜い言葉で成り立っているのだ。こんなか細い精神、こんな幼稚な思考力しかないとしたら、たちまちこの圧倒的な世界に打ち倒されてしまうのだぞと、長太はいつも淳一の作文を読むと思うのだった。
 中間テストがはじまった。淳一はだれよりも一生懸命だ。塾での二時間、一身にテキストにむかって鉛筆を走らせている。中間試験が終わると修学旅行に出かける。そのことに彼はわくわくしているようで、そのためにもがんばっているようだった。ほんとうかどうかしらないが、塾のない日も、遅くまで机にむかっていると言う。さすが三年生になると少しは変わるのかもしれないと長太はたのもしく思うのだった。
 試験が終わった日に、長太は淳一にたずねた。
「どうだった、試験は?」
「七割ぐらいは書いたけど」
「そうか、それはだいぶできているなあ。結果が楽しみだね」
「前よりはばっちりです」
 それから四日後、もどってきた試験の点数をきくと、
「社会は?」
「十七点です」
 彼の苦手な科目からいつも訊いていくのだ。長太自身のショックをやわらげるために。
「うむ。それで、理科は?」
「まあ、二十三点です」
 と彼はちょっとほこらしげにこたえる。
「英語は?」
「十二点ですね」
 いつものことながら、疲れるなあという思いをかくしながら、
「それで、国語は?」
「これはちょっと悪いんですよ」
「何点なの?」
「十八点です」
 そして最後に数学の点をたずねる。これは彼がいま一番打ちこんでいる科目だった。彼はいま数学に自信をもっているのだ。
「それで、数学は?」
「四十二点です」
 彼はぐっと胸をはってこたえた。
 しかし長太には少しも喜べない。このままではどの高校にも入れないだろう。長太はそれとなく冷酷な現実をつきつける以外にないのだ。
「定時制高校は、だめだって」
「お母さんがそう言うのか」
「ぼくみたいな、ちゃらんぽらんな人間にはつとまらないって」
「うん。しかしいい先生たちがいるし、友達なんかもまじめに通ってくるらしいよ。昼間はぷらぷらした生活になるから、なるべく昼間はバイトなんかさせるみたいだけど」
「そういう生活は、ぼくにはできないって言うんですよ」
「そうかな。淳一はどんなところにいても、ひたむきにがんばるタイプだけどね。ぼくはそうは思わないけど」
 彼はいまだに都立高校の普通科に入るつもりでいた。その志は大事にすべきだが、しかし冷酷な事実もまたきちんとみなければならないのだ。受験というものがどのような原理の上に成り立っていて、そのなかで自分の位置がどこにあるかがわかって、そしてその方向を割り出していくような力がもう必要なのだ。ただ、頑張る頑張るだけでは、この世界は生きていけない。そんな生き方では、ただこの圧倒的世界に流されていくだけなのだと長太は言いたいのだった。
 しかし長太は淳一のような子に出会うといつも思うだった。なんと彼らにとって学校の仕組みは不公平にできているのだろうかと。淳一はどんなことにも誠実に真剣に取り組む。しかし遅いのだ。例えば、英語のなんでもない文章をおぼえるにしても、社会やら理科のそれぞれの事柄をおぼえるにしても、人の何倍もかかるのだ。漢字を書くことも、それを読むことも、また驚くほどの時間がかかる。そしてせっかく苦労しておぼえたものも、翌日にはもうきれいなほどに忘れているのだ。したがってたった一ページ程度のことを、それなりに理解するだけでも、膨大な時間とエネルギーを要するのだった。
 それは勉強の基礎ができていないからだとか、勉強の量がたりないだとか、あるいは勉強のやり方がわかっていないだとかいった議論とは次元の異なる、ある決定的な事実がその底に冷酷に横たわっているからだった。その冷酷な事実に立ってみるとき、できない子も勉強すればそこそこのレベルの学校に入れるというのは愚かな幻想だということがわかるのだ。だれでも必死に勉強すれば、かならず望みの学校に合格するなどということもありえない話だった。どんなに頑張っても能力以上の学校に入ることはできない。
 それは百メートル競争にたとえればよくわかる。一クラスの生徒を同時に百メートルを走らせてみる。するとそこに子供たちの走る力の差が歴然とあらわれる。その差というものは、神が子供たちにあたえた能力の差であって、速い子はどこまでも速く、遅い子はどこまで遅い。この差は、努力だとか練習だとかでは埋めることができないものなのだ。
 それと勉強も全く同じことだった。理解力とか、記憶とか、分析力とか、表現力とか、計算力とか、応用力とかいったそのすべての総体としての勉強という力をあたえられた子は、脚力にめぐまれた子がほとんど練習などしないで軽々と先頭集団でテープを切るように、いともやすやすと四とか五という点をとっていくのだ。とにかく彼らは一度説明されたら、学んだことを海綿のように吸い取ってしまう。暗記することだって、まるでカメラに写しとるかのようにしっかりと脳裏に刻みこむのだ。
 それはまったく不平等だった。淳一のような子がテストに四十点をとるには膨大なエネルギーと時間がかかっている。できる子が百点とることと、淳一のような子が四十点とることとは、その点のなかの成分というもの、あるいは意味というものがまったく異なったものなのだ。それなのに学校教育は百点の子と四十点の子というランクづけをする。いまの学校教育の評価の仕方は、ただ神があたえた力の差を、ただそのままに評価するための物差しにすぎないと思うのだった。それは逆説的な言い方をすれば、神があたえた事実をまったく無視した卑劣な評価の仕方だということになる。
 とりわけ通信表の成績というのは、運動会の百メートル競争とちがって、人間や人格の差としてつけられられていく。すなわち、すぐれた人間、ややすぐれた人間、普通の人間、劣った人間、最低の人間として。勉強の力などというのは、結局は速さを競う百メートル競争程度の意昧しかもたないのに、人間全部の評価として下されていくのだ。
 修学旅行が終わったあとにすぐに学力試験があった。三年生になると毎月この試験があるのだ。いわゆる偏差値というものが、この試験によって打ちだされ、その値で自分が入れる高校がだんだんあきらかになっていく。
「このあいだの学力試験どうだった」
 と長太は訊いた。
「まあまあです」
 と彼はこたえる。いつものこたえなのだ。そしていつもの順番で訊いていく。
「社会はどうだった?」
「二十五点です」
「それはいいな」
 長太はちょっとうれしくなって、
「理科は?」
「二十五点です」
「うむ、いいな。それで英語は?」
「英語が、ちょっと悪いんだよね」
「何点なんだよ」
「八点です」
 ぐぐぐっとここでずっこけてしまうのだ。こんな点だと淳一の偏差値はたぶん三十六、七なのだろう。これではどこにも入る高校はなかった。
 この日は作文を書いてもらう日だった。しかし長太は、もうやめるべきだと思った。作文を書かせたって、偏差値が上がるわけではない。作文などというものは今の時期にまったく無駄なことだった。どうせまた、だらだらと牛のよだれのように言葉をたれ流すだけなのだろう。それよりも少し漢字でも書かせたほうがいいのかもしれないと思い、
「そうだな、きょうは漢字でもやろうか」
「あれ、作文じゃなかったんですか」
 と淳一は不満そうに言った。
「作文を書きたいの?」
「ええ」
 そして彼は作文を書いたのだ。

          修学旅行

そしていくとうじつに朝五時におきて駅で友たちをまっていました。少しすると友人がきて六時三十分のけいひん東北線で上野駅に七時二十分について発車まで時間が数分あったのでトイレ他にいくことになりました。ここからの説明はぼくがしらべた駅弁のことについてのせます。
上野駅の駅弁の紹介です。
うなぎ御飯八百円 牛めし弁当七百円 洋風弁当六百円 しょうが焼き弁当六百円 さけ弁当六百円 とんかつ弁当六百円 チキン弁当六百円 道中割子そば四百五十円 カツサンド四百円 お好み寿司五百円があります。
時間がおわり新かんせん乗り場へ行き「やまびこ団体せんよう列車」にのりかえました。ここから少しのあいだつうか駅の駅弁しようかいになります。
赤羽駅 寿司四百円 大宮駅 おおみや弁当八百円 盆栽ずし六百円 とかんつ弁当六百円 牛すきやき弁当六百円 とりめし五百円 一ロカツ弁当七百円
小山駅 うな重七百円 焼き肉弁当五百円 とりめし五百円 ヒレカツ弁当五百円
宇都宮駅 特製チキン弁当七百円 はいから弁当八百円と千円 うなぎめし八百円 ちゅうか弁当八百円 下野山菜弁当六百円 とりめし八百円 玄米弁当五百円 宮まつりずし七百円 茶めし弁当五百円 釣天井ちらしず四百円 おにぎり弁当三百五十円 日光きすげ弁当千円
西那須駅 那須の寿司六百円 九尾ずし六百円 高原肉めし六百円 九尾釜めし六百円 よいちなべ六百円
黒磯那須駅 いわなすし千円 よいちなべ六百円 高原肉めし六百円
那須駅 すし六百円 九尾ずし六百円 きじ焼栗めし六百円 四季弁当千円 新白河駅 とんかつ弁当八百円 鱒めし八百円 鱒笹薪すし七百円 郡山駅 うなぎ弁当千円 山菜きじ焼き弁当七百円 栗山おこわ千円 山菜釜めし六百円 磐梯牛めし六百円 磐梯鍋めし六百円
ここの駅がすぎてやっとまちにまった弁当。きょうの弁当のこんだては二色弁当(のりかつおぶし)鳥のからあげ、たまご焼き前菜麦茶このときだけはみんなうるさかったのにしずかになりました。

ここからまた盛岡駅までの駅弁しょうかいをします。
福島駅 特製牛鍋めし七百円 にこみかつ弁当六百円 鱒すし六百円 焼き肉弁当六百円 チキン弁当六百円 わらしこ弁当七百円
仙台駅 うなぎめし八百円 ささにしき弁当八百円 あっちっちかきめし八百円 まつたけ弁当八百円 祭り寿司六百円 あわびめし九百円 わかどり弁当六百円 栗めし六百円 とりたけ弁当六百円 大漁ちらし七百円 山菜くりめし六百円 押しずしさんさ時雨七百円 お子様ランチ四百円 かま弁当六百円 茶そば五百円
小牛田駅さ ささにしき弁当千円 釜めし八百円 菊水こけし弁当八百円 おせきはん弁当千円
一の関駅 義経弁当八百円 田舎弁当八百円 うなぎめし八百円 あゆ寿司八百円 かにめし六百円 栗駒山菜弁当千百円 やまびこ弁当千円 懐石弁当千円 あわびかまめし六百円 松茸めし七百円 栗めし七百円 牛めし五百円
北上駅 うなぎめし八百円 行楽弁当七百円 くるみもち五百円 鬼剣舞弁当六百円 千貫石弁当千三百円
花巻駅 うなぎ弁当八百円 賢治弁当七百円 三陸鱒弁当五百円 しいたけ弁当四百円 五目めし四百円 とりめし四百円 釜めし五百円
盛岡駅 うなぎめし八百円 行楽弁当七百円 不来方弁当七百円 陸奥弁当七百円 四季の味千円

ここでやっと盛岡駅についた。盛岡駅から2分ぐらい歩き十和田観光バスにのり発筒峠に行きそこでおやつにパン、ミルクをもらいました。そこは東京の真冬の感じだった。そしてまたやっと盛岡駅についた。
盛岡駅から2分くらい歩き十和田観光バスに乗り発筒峠に行きそこでおやつにパン、ミルクをもらいました。そこは寒くてたまりませんでしたそこは東京の真冬の感じだった。そしてまたバスに乗り玉だれのたきにつきそこで写真をとり奥入瀬をさんぽ調子大滝子ので写真をとりました。子の口発十和田湖ゆうらんせんにのりそこでの船からの風景がまたかくべつでガイドさんの話がとても感動てきです。そして一時間で船のたびは終わった。休屋着そこでまた写真をとりました。
ここでやっと十和田湖グランドホテルについた。でもしんかんといっているけどしんかんのわりには少しきたないです。入室して夕食のメニューが特別いんしょうにのこりましたここでのメニューをしょうかいします。きりたんぽなべ、とうかん自まんのもみじ焼き、お刺身(ひめます)ご飯、香の物、ミニステーキ、エビフライ、ホワイトシチュー、プリンを食ベフリータイムは2時間ぐらいたちました。ヘやで遊んだりみやげを買ったりするのが終わり、係会がおわり就寝です。
第二日目は六時三十分に起床です。七時朝食のメニュー、きらず鍋、長さら点盛り、サラダ、ビイフシチュー、味付のり、ご飯、香の物を食べ乙女の像で写真をとりました。ここのおとめの像は感動的です。またホテルに着いて大湯環状列石にバスでいきました。ここではバカなやつがいてストンサークルのなかに石をなげておこられた人がいました。歴史にのこっているのにその中に石なんかなげるのはぜったいにやめてほしいとおもう。そこからマインランド尾沢はぼくがいんしょうにのこったひとつの所です。ここではラジオみたいなものを一人ずつもってはいりました。ここではおと年の三年生がちょうどじしんになりそこににげたとゆうことを先生に聞かされました。
このなかはむかしの人の鉄こう石やそのたをとっているすがたを人形で表していてとてもおもしろいものです。もう先にいくと光線が出ていて顔が変なふうにみえました。そこはだいたい三キロ歩いたんだけど全々つかれなくて出口にちかずいたときにすごく明るい光があったそこはなんとおみやげをうっている所でした。そこできりたんぽもち、くるみ大副、クッキー、りんごもちをかいバス乗り場までいきました。そこから鹿角秋北レストハウスここで昼食でここでのメニューは釜めし中には鳥にく、たまご、あわび、前菜とハンバーク、ふらい、ゼリーを食べ後生掛温泉は残念ながら雨のため見学できませんでした。そこから八幡平頂上も雨がふっていたけれど雪がまだ残っていて雪台戦をやりました。ここはすごく寒く冷凍こにはいっているくらいでした。ここでは写真をとるためでしたけど南のため中止少しはやくホテルに着きました。
二日目のホテルは八幡平リゾートホテルはすばらしいところです。十和田湖グランドホテルにくらべにならないほどすごいホテルでシャンデリアがすごく多くてきれいでした。入室ここでは入浴ができます。十和田湖グランドホテルでは自由に入っていいんだけどここは広いので入れました。ここのおふろがまたかく別ですごく卵くさいけど外が見えてサウナがありとてもいいゆかげんでした。はいり終わり夕食まで少し時間がありました。ここの部屋は自由で中からしかあけられませんので少しふべんです。
そして夕食ここでのメニューは、カップスープ、生野菜、サラダ、スパゲテイ、ビーフステーキ、フルーツヨーグルト、アイス、海老フライここでは座しきでフォークとナイフで食べるんですけどぼくのとなりの人がフォークとナイフが使えなくてこまっていました。でもぼくはそんなことはありません。なぜならしょちゅう肉類を食べているのでこういうのでべんりでした。ここで鬼けんばいをみました。とてもすばらしいものでした。でもないてもわらってもこれが最後の夜もうみんなでねる日は一生ありません。おにけんばいのしょうを見終わりこんどはキャンプファイヤーだけど雨のため中止、そのため八幡平リゾートホテル別館のスケートセンターでフォークダンス歌をやりました。部屋はすごくせまかったけどかくべつなものでした。ホテルにかえり斑長会をして二日目終わりました。
しかしこの夜にじけんがあります。ぼくたちはみんなうるさくてねむれませんでした。トントンとだれかがきて何か話して帰りました。まただれかがきたのでだれかの先生のはなし声がしたら、その先生でぼくたちはろうかにせいざさせられました。ここで人間とはなんだと聞いてぼくは人民の人民のための人民の政治といったらわらわれてしまい十二時ごろまでせいざをしていましたやっと先生がきて今時はちゃんとねれるなといって部屋に帰りすぐねました。三日目は朝食のメニューはバターロール、クロワッサン、牛乳、目玉焼サラダ、スープです。
出発ここから少しバスで2時間中尊寺を見学しました。ここでは特別なガイドさんがいてくれました。でもここは歴史好きか老人むけのくるような所であまりおもしろくなかった。だけどガイドさんがほかの学校はふざけていて説明してもきいてくれないけどぼくたちはよく聞いたので時間を予分に話してくれました。
ここから少しバスで毛越寺レストハウスにいきました。ここでのメニューはからし大根おろし、おしんこしいたけもち、おぞうに、おしるこもちの定食でとてもいい味でした。ここから毛越寺を見学ここでは中尊寺とくらべてすごく広かったです。帰りにおみやげやでリンゴチイプとうす皮大ふくをかってバスにのりました。ちょうど先生がのっていてお前また食ものを買ったのかよくかうなとわられはずかしかったです。
またバスに乗り厳美渓はとてもきれいで水が青くみえました。これで修学旅行はもう終わりに近づきました。一ノ関発団体専用列車にのりすぐにおやつとしてパンとジュースがでました。ここでまた駅弁のしょうかいをします。

一戸駅、北福岡駅、金田駅 うなぎ弁当八百円 末の松山弁当七百円 特製ロースとんかつ弁当七百円 ハンバーガー弁当六百円 すき焼き弁当六百円 とんかつ弁当五百円
八戸駅 子唄寿し八百円 おいらせ弁当七百円 うにわっぱめし七百円 野辺地駅 とりめし六百円 ほたて弁当五百円
青森駅 うなぎめし八百円 ねぶた弁当八百円 津軽路弁当千円 その他いろいろと弁当があります。
もう少しで上野に着きます。だけど帰りの電車では行きとちがったことがあります。それはチャイム音楽です。それは各駅づつに音楽がながれるんだけど団体専用列車にはながれないことになっているんだけどぼくたちがしらべたことを日本旅行の人が国鉄の人にゆってお顧いしたすえにやっと音楽がなりました。これはすごいことだと思います。なぜならぼくたちがかいた研究のものを国鉄を動かしたとゆうことはみんなのおかげだと実感で思います。そのチャイム音楽をしょうかいします。
大宮駅 大宮音頭 小山駅 小山音頭 宇都宮駅 日光和楽おどり 那須塩原駅 機織唄 新白河駅 白河音頭 郡山駅 会津磐梯山 福島駅 飯坂子唄  白石蔵王駅 白石音頭 仙台駅 斉太郎節 古川駅 お立酒 一ノ関駅 クルクル節 北上駅 北上夜曲 新花巻駅 星めぐりの歌 盛岡駅 南部牛追唄を聞きながら帰ってきました。
上野駅についてもう終わりなんだなあと思いました。駅でかいさんなんだけど一人がどこかにいってしまいました。こないので帰ったんだろうとゆうことでかいさんしました。やっと家についたと思って父母に修学旅行はこうだったよと一時間話しました。
おみやげをわたしたときの顔はわすれられない母はなにか東北のおかし他を食べたいとゆったからおかしをかってきたんだけど全部おかしに使ってしまって母はびっくりしました。次の日は一日じゅう体がだるくてねていました。

 その作文を読んだとき長太は思わず、
「すごいぞ、淳!」
 と叫んでいた。
 書店で購入した駅弁案内の本からの引用である。しかし列車の進行にあわせてその駅弁を紹介していく、その巧みな構成力はどうだろう。沢山の修学旅行の感想文が書かれるのだろうが、駅弁をはさみこんで進行していく作文はいまだかってだれの手によっても書かれたことはないにちがいない。旅先で様々な食事がだされるが、そのときの淳一の観察力と記述の力はどうであろう。
 彼を乗せた列車が走っていく。次々に駅があらわれる。さてその駅にはこんな駅弁があるのだと誇らしげに書きこむのだ。まるで物語を書くような興奮にとらわれたにちがいない。ここには創造することの大いなる喜びと興奮が満ちあふれているように思えた。
 もはや言葉は少しも単純でも平板でもなく、言葉は少しものっぺりとしていない。十分に複雑であり、複雑な世界にたええるほど複雑な精神があらわれている。淳一が「ハンバーガー弁当六百円、釜めし弁当千円、チキン弁当六百円」と書くとき、特別の意味があるのだ。「きりたんぼ鍋、もみじ焼き、お刺身(ひめます)」と書くとき、彼は生命の底からのびている言葉を書きとめているのだった。淳一の家は支出しの弁当屋さんだった。彼の父は朝はやくから市場に買い出しにでかける。彼が学校にいくころには、母もまた店で調理にいそがしくなる。そんな生活のなかで育ってきたのだ。彼が「特製牛鍋めし七百円、にこみかつ弁当六百円」と書くとき、あるいは「釜めし、中は烏にく、たまご、あわび、前菜とハンバーグ、ふらい、ゼリー」と書くとき、長太はそこに豊かに繁った淳一の言葉の葉をみるのだった。
 淳一はそれまでのっぺりとした作文ばかりを書いてきた。そののっぺりとした作文から、彼の言葉の木はなよなよとしたか細いものだと思ってきた。しかしそうではなかった。彼の言葉の木は、たくましく成長していたのだ。その根は深く土のなかにのばされ、その枝にはざわざわとさわぐ葉が緑に輝いているのだった。

冬がやってきた。受験の冬だった。長太は淳一の母親に、苦しい宣告をしなければならなかった。あれこれと淳一の成績がのびないことを話すのだが、言い訳をしているようで重苦しい気分になる。
「どうもぼくの指導が悪いのですね」
「あれがあの子の力だと思っています。もう普通の高校はあきらめていますから」
 と母親から言ってきた。
「そうですね。やっぱり定時制しかないようですね。しかし定時制にいっても、彼ならしっかりとやりとげますよ。誠実で真面目ですからね」
「真面目なんですよね」
「ええ、すごく真面目です」
「それとも、どうでしょうかね。調理の専門学校というのは。淳一にむいているような気がするんですが」
 その専門学校のことは、前から淳一にすすめていたのだ。その学校では調理だけではなく、国語や英語などの科目も勉強する。なんだか彼にぴったりの学校に思えるのだ。
「うちではタマゴさえ焼いたことはないんですよ」
「それは彼にやらせないからですよ。夏の合宿のとき、彼が料理長だったんですが、なかなか優秀な料理長でしたよ。醤油はどこのメーカーがいいとか、みりんはあすこのメーカーだ、お酢は山形産にかぎるとか。ふつうあの年代で、そんなところまで目を配りませんが、彼は実に紬かいところまで気を配っていたなあ。それはお父さんやお母さんたちの仕事を、小さい時からみていたからなんでしょうね」
「うちではなにもしませんけどね」
「この作文をみて下さい」
 と長太は修学旅行の作文をとりだした。
「この作文をたびたび取り出して読むんです。何度読んでも、うれしくなるんですね。よく書いたなって。実に深く料理のことをみている。この作文が彼の未来を暗示しているように思えてならないんです。料理はものすごく奥が深いものだし、芸は身をたすけるというか、料理が淳一という人間をつくっていくかもしれませんよ」
「そうですかね」
「それにお父さんお母さんの跡継ぎというか、お店の仕事だって手伝えるわけですから」
「いえ、それはまったく期待していません。小さい店ですから」
 このとき温厚な笑みを始終たたえていた母親が、ちょっときびしい口調で言った。長太にはその裏の意味がわかっていなかったから、なおしきりにその専門学校をすすめてみたのだった。
 数日後、淳一から、母親と二人でその専門学校にいって入学案内をもらってきたと聞いたとき、どうやらその学校に入ることを家族でかためたなと思ったが、年があけると淳一は奇妙なことを言い出した。
「定時制、受けることやめました」
「やっぱり専門学校にいくことにしたんだね」
「いえ、それもいきません」
「じゃあ、どうするんだ」
「就職します」
 と明るくさっぱりとした調子で言った。
「どうしてまた就職なんだい。あの専門学校はどうなったの」
「あれはやめました。お金がすごくかかるから」
「お金はかかるよな。でも……」
「店をたたむらしいんです」
 と不意に言った。彼の母親と最後に会っとき、店は希望がもてないというようなことを言っていた。住人がどんどん減っていくし、安いチェーン店がいたるところにできて、商売はやりにくいと。あのときもうすでに店を閉鎖するという結論を出していたのか。だから就職するということなのだろうか。そこまで経済的に彼の家庭は追いつめられているということなのだろうか。
「でも、就職するんだったら、ぜったいに定時制高校にいくべきだとぼくは思うけどな。まだまだ淳は、学ばなければならないことがいっぱいあるんだから、勉強する場というものを自分の生活のなかにつくっておくべきだよ」
「そうですか」
「そうだと思うんだ。ぼくは定時制にいっている子も、そこで教えている先生も知っているけど、とってもいい雰囲気らしいよ。そこではほんとうの教育が行われているような気がするね。それにさ、そこにいけば仲間がいるんだし。いろいろと職場でつらいことや、いやなことがおこっても、そこにいけばみんなから励まされる。そのためにもいくべきだよ」
 と長太はすすめるのだ。
 しかし彼は定時制にもいかなかった。淳が決めてきたその職場は、朝の七時からはじまって、夜の十時まで通して働くところだった。彼はそのあたりのことをゼームス塾の最後の作文にしっかりと書いた。



           就職

ぼくは就職することにした。いろいろとあつたけど、ぼくのえらんだ道は就職です。このあいだ面接にいってきたけどしごとは朝七時からはじまり、夜は十時におわりです。すごくきついとけどサッカーできたえた体力があるからだいじょうぶです。その会社はしんせきのまたしんせきですが七年前につくって七つの支店があってまたこんどまた大宮に店をだす。仕事はきついそうです。もたない人は三日でやめていくけどここで二年つづいたらどんな会社にいってもりっぱに一人前になるとゆっていました。どうしてそこを選んだかというとぼくはだんだん料理にむいていると思ってきたからです。その仕事なら一生つづけてもいいと思った。三年をのりこえたらずうっとつづくといつた三年間ここでじつとたえていたらどんなこともこなせて一流になるとゆわれました。そこでがんばればお店ももてるといわれた。
朝がはやく、ひびやのその店にいくには六時半には家をでないといけないけど部活していたときもそのぐらいだからがんばり土曜日と日曜日が体なのはうれしいです。そこは日本料理店でてんぷらとかおさしみとかやっているけどさいしよはお皿をあらつたり野菜はこんだり冷ぞう庫そうじしたりすることからはじめていく。それがあたりまえだと思います。それがきちんとできてはじめて料理づくりです。
お客さんに食べてもらうのだからたいへんです。きゅりよう六万円ぐらいだそうだけどボーナスというのがあるぼくまずそのお金を家にいれようと思う家にはずいぶん借金があるから、店がうまくいかなくなったのでかえすのに大変です、まだずいぶん残っていて銀行にかえす。お店をやめてもかえさなければなりません。生きていくにはなかなかつらいところがあります。妹がいるしこれからまた学費とかいろいろとお金がかかるのでここでぼくが働くことは大切なことです。
ほんとうは母は料理学校にいれたかったといいましたがじゅくの先生もそっちがむいているといったけで、そこにはいるにはお金がかかりとてもいまの家にはないといいました。母はお店がうまくいっていたらそこにいれたのにとがっかりした顔でいったけどぼくもそんな学校にいきたいと思ったけど金がないしかたがありません。
いまぼくは会社でがんばることです。
ほうちょうをもたしてくれるのはまだまださきだといいました。いまではうちでも料理つくりました。父と母におそわっていろいろなものをつくる妹はお兄ちゃんの作ったものはまずいといいますが、母や父はうまいうまいと食べてくれます。そんなときはうれしいことです。

いま家でしゅぎようです一人前になるのはしゅぎょうで何年もしゅぎようしなければけっして一流にはなれません。ぼくはだんだん料理が好きになっていきますできたときになんともいえない楽しみがある。家でいろいろと作ってみると母や父がたいへんだったことがわかります。あとかたずけが大変です人をつかったり仕入れにでかけたりどれだけ売るかということがたいへんです。だけどあんなにがんばっていたけどお店はしつぱいした。借金がたいへんです銀行にいまでもずいぶんお金をかえす返さないと住む家も土地もとられてしまうそうです。銀行はこわいところです。かすときははいはいとかすけど返さなくなると、これはひどいことをいわれたりつんとされたりするそうです。商売といものはいうまくいっているときはいいけど失敗したらじごくだといいました。これからずうっとあと十年はかえしていかなければならないといいます。かえすためにはたらくようなものだと父はいつたけど銀行にはお金をかりてはけないと思った銀行は土地があるといくらでもお金をかしてくれるといいます。でも返すときがたいへんです。それで最初にかえすのは利子ばかりで、利子をかえすから借りたお金の二倍ぐらいかえさなければならないそうです。それで最初かえすのときは利子ばりかだからいつまでたっても、かりたお金はかえせないあと十年じごくが続くといいます。ぼくは銀行にはお金はぜったいにかりてはいけない思います。銀行はこわいところですじごくの生活です。
ぼくはいまは働いたお金ですこしは楽になればと思います。でもそれがみんな銀行にいくと思うともったいないと思います、父もまた別のところではたらきはじめましたがみんな銀行にいくみたいです。ほんとうにばかみたいな話しですがしかたがありません。かりたはの返さなければなりません。
ぼくのクラスではすぐに働く人はあと一人しかいません。その人は工場にいきます。またその人は定時制の高校にはいりました。ぼくは定時高校にもいきません。高校にいけないことはさびしいことですがもともと勉強が好きではないのでそんなに残念だと思いません。料理も勉強だと思いますこんどの会社がぼくの高校だといいました。味をつくるにしてもたくさんの作り方があるラーメンーつ作るにしてもいろいろな作り方がある。これから一つ一つが勉強です。ぼくはいままで父や母の仕事はやりたくないと思っていましたが、でもそうなっていくことにこうかいしていません。
きゆうりようが楽しみです。最初は六万ぐらいです。半分は家にいれたいと思う。母はしようらいためにちょきんしておくといいます。あとはバイクを買うためにためることと妹にもおこづかいをやろうと思います。このあいだはじめてコロッケを作った。どうゆうふうに作るかというとまずジャガイモをにます。にたらふかふかしてるうちに皮をむくそしてそのシャガイモをつぶすのです。それからタマネギをみじんぎりにしておいてフライパンでいため、牛のこまぎれをそこにいれていためるいためたものをジャガイモをつぶしたなかにいれるそのときの塩あじがポイントです。あついうちに一つずつコロッケの形にまるめるそれに小麦粉たまごパン粉他をつける、そして油をガスにかけてあたためていなければなりません。そしてその油がしんせんでなくてはなりません。そしてその油がパンこをさらっと落したときぱりぱりといえばコロッケをいれます。じゆうと音がします。そしてそのコロッケがういてきたらあがりです。こつはさらりとしあげることです。きつね色にやくのがポイントです。妹はうまいうまいと言って七個も食べました。妹がぼくの科理をうまいと言ったのははじめてです。それはほんとうにうまいものでした。コロッケづくりは大変です。じゅんび他が大変です。それといっしょにいろんなことをしなければいけません。
でもできたときの喜びはかくべつなものがあります。

 その作文もまたのっぺりとした単調な言葉が打ち続く。店が倒産、借金地獄、そして就職と、人間の言葉を深かめるための材料が、彼の前にまき散らされている。こんなときこそ人間は深く考えなければならないのだ。倒産というものがどうして起こるのか、銀行の構造というものはどうなっているのか、その借金地獄からどうやって一家は抜け出していくべきなのか。あるいは彼の就職先の待遇などをもっと深く知らなければならない、といままでの長太ならばその作文を読んで思うはずだった。大変だとか、地獄だとかいった感傷に流されることなく、その言葉を複雑な世界にはわせていってほしいと。それが精神の幹なのだ、言葉の幹がしっかりとこの地上に立つことなのだと。
 しかしあの淳一の修学旅行の作文を読んでから、そういう見方を捨てていた。長太にはこの作文が、かぎりなく美しい文章に思えるのだった。それは多分その作文が美しいということではなく、彼の歩いていく姿が、あるいはその生きる姿が美しいということかもしれなかった。
 それにしても、どうして勉強のできない子供たちが、いつも深く重い存在感を漂わしているのだろうか。学校ではいつも邪魔者あつかいされている子供たちが。勉強がよくできて、すいすいと走り去っていく子供たちは、ほとんどなんの痕跡も残さない。しかしできない子たちは、いつも深いところで長太に迫ってくるのだった。
 彼らの背中には、お客さんだとか、落ちこぼれだとか、あるときはもっと露骨に、ゴミだとか、クズだとかいったレッテルがはられる。そんな屈辱的なレッテルが彼らの背中にいっぱい貼りつけられている。それはまったく理不尽な、まったく意味のない格印だった。彼らに深い存在感があるのは、この世の矛盾をその小さな背中に一杯背負っているからかもしれなかった。
 長太はこういう子たちと出会うことで、救われてきたのだ。彼もまたどこに向かって歩いていいかわからないときがあった。どんな生き方をしていいかわからないときもあった。そんなとき、深いところで長太を励ましてくれたのが、淳一のようなできない子供たちだったのだ。彼らこそ生きていく道をさししめす指針だった。
「あのさ、これから土曜日は、休みなんだろう。卒業しても塾にくること」
「え! くるんですか」
「くるんだよ。漢字とか、作文とか。本を読んだり、絵をかいたりとかさ。これからもいろんな勉強をしていこうよ」
「はい」
「それでさ、いろいろとぼくに料理のつくり方を教えてくれよ。みんなで科理をつくるという時間もつくるからさ」
「それって、いいですね。ぼく教えますよ。また夏の合宿には料理長をやらして下さい。もっとうまいものをくりますから」
「ああ、それはいいな」
 長太はなにかまた新しい希望が生れてきたような、豊かな気持ちで言った。


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