長太もまた文章を書くのが苦手だった。蝶の仲間たちと「南の国から」という季刊誌を発行していて、そのなかに彼に割りあてられたページがあるのだが、その原稿を書き上げるためにいつも四苦八苦している。それなのに毎月子供たちに作女を書かせることにしていた。
国語という科目で子供たちは、漢字を書いたり、長い文章を読んだり、そこになにが書かれているかをあれこれ解釈したり、あるいは文法を学んだりする。しかし長太にはどうも国語という科目には、それ以上のものがこめられているように思えるのだ。というのも人間は言葉によって成長していく動物である。言葉によって道を切り開いたり、人生をつくりだしていく。したがって国語の最後の目的は、子供たちのいわば人生をつくりだしていく言葉の木を豊かに育て上げることではないのかと思うのだった。言葉の木を育てるためには、もちろん漢字も読解力も必要だった。しかしそれと同じように、いやそれ以上に言葉を表現する力、どのような言葉の葉を自分の内部に繁らせるかが大切だと。
そのための長太は作文にこだわるのだが、しかし子供たちは作文が嫌いだった。さあ作文を書いてもらうぞと言うと、子供たちはいっせいに悲鳴をあげる。その悲鳴は高学年になるほどはげしくなり、中学三年生にもなると、そんなことやってられるかという反抗の姿勢をありありとしめすのだ。しかし長太はそんな声に負けずに子供たちに一か月に十枚程度の作文を書かせることにしていた。
熊谷淳一は次のような作文を書いた。誤字脱字そのままに、なるべく原文のまま再現してみると、
この作文のなかに繰り返し受験という言葉が出てくるから、淳一が中学三年生だということがわかる。するとこの作文を読む者は、いよいよ幼稚だと思うにちがいない。誤字脱字の多さ、それになんとまあひらがなばかりなのだろうと思う。それにきちんと句読点や終止符も打たれていない。
しかし長太はもうそういうことは、どうでもいいことだと思っていた。ひらがなばかりだろうが、誤字脱字が多かろうが、終止符が打ってなかろうが、改行がきちんとできていなかろうが、そんなことは作文の本質となんの関係もないことだと思っているのだ。よく国語教師たちは、それが熱心な先生であればあるほど、真っ赤に朱を子供の作文にいれるが、あれほど子供に侮蔑をあたえることはない。あんなに朱をいれたら子供たちはもう作文を書かなくなってしまうだろう。
作文というものは絵画と同じであった。美術教師たちはけっして赤鉛筆をにぎって添削などしないはずだった。正しい線描とか、正しい色とか、正しい絵などというのはないのである。作文とてそれと同じだった。その間違った文字こそ、その子なのである。間違った漢字で書かれたその作文こそ、その子の肌なのだった。ひらがなばかりで書かれたその作文こそが、その子の心なのだと長太は考えるのだった。作文にとって一番大切なことは、正しい漢字、正しい文章を書くことではなく、どれだけ言葉の葉を繁らせることができるかなのだ。どれだけそこに豊かな言葉が繁っているかなのだ。
淳一の作文はいつも幼稚だった。それが彼の精神のかたちなのか、いつも単純な言葉をだらだらとつなぎあわせることだけだった。この作文もまたひどく退屈で幼稚な作文だった。三年生らしい高校受験のあせりが感じられる。そしていままでのぐうたらな自分からぬけだし、見事高校に受かって親を安心させたいというくだりでは、かすかに読む者に感情の波をひきおこす。しかしそれもまたすぐに消えてしまう。そしてまただらだらとのっぺりとした言葉が切れ目なく続くのだ。
中三ともなるともう陰毛もはえそろう。その陰毛のように彼らの言葉の根も深く地中にのびていくのだ。その幹もくろぐろとたくましくなり、枝もしなやかに宙に伸び、そこに言葉の葉をいっぱいに繁らせる。しかし淳一の言葉の木は貧弱だった。幹はか畑く、なよなよした枝には、ほんのもうしわけ程度の葉がはらはらとついているばかりのようにみえる。世界は単純ではないのだ。世界は少しも美しくない。この世はきれいな言葉で成り立っているよりも、むしろ醜い言葉で成り立っているのだ。こんなか細い精神、こんな幼稚な思考力しかないとしたら、たちまちこの圧倒的な世界に打ち倒されてしまうのだぞと、長太はいつも淳一の作文を読むと思うのだった。
中間テストがはじまった。淳一はだれよりも一生懸命だ。塾での二時間、一身にテキストにむかって鉛筆を走らせている。中間試験が終わると修学旅行に出かける。そのことに彼はわくわくしているようで、そのためにもがんばっているようだった。ほんとうかどうかしらないが、塾のない日も、遅くまで机にむかっていると言う。さすが三年生になると少しは変わるのかもしれないと長太はたのもしく思うのだった。
試験が終わった日に、長太は淳一にたずねた。
「どうだった、試験は?」
「七割ぐらいは書いたけど」
「そうか、それはだいぶできているなあ。結果が楽しみだね」
「前よりはばっちりです」
それから四日後、もどってきた試験の点数をきくと、
「社会は?」
「十七点です」
彼の苦手な科目からいつも訊いていくのだ。長太自身のショックをやわらげるために。
「うむ。それで、理科は?」
「まあ、二十三点です」
と彼はちょっとほこらしげにこたえる。
「英語は?」
「十二点ですね」
いつものことながら、疲れるなあという思いをかくしながら、
「それで、国語は?」
「これはちょっと悪いんですよ」
「何点なの?」
「十八点です」
そして最後に数学の点をたずねる。これは彼がいま一番打ちこんでいる科目だった。彼はいま数学に自信をもっているのだ。
「それで、数学は?」
「四十二点です」
彼はぐっと胸をはってこたえた。
しかし長太には少しも喜べない。このままではどの高校にも入れないだろう。長太はそれとなく冷酷な現実をつきつける以外にないのだ。
「定時制高校は、だめだって」
「お母さんがそう言うのか」
「ぼくみたいな、ちゃらんぽらんな人間にはつとまらないって」
「うん。しかしいい先生たちがいるし、友達なんかもまじめに通ってくるらしいよ。昼間はぷらぷらした生活になるから、なるべく昼間はバイトなんかさせるみたいだけど」
「そういう生活は、ぼくにはできないって言うんですよ」
「そうかな。淳一はどんなところにいても、ひたむきにがんばるタイプだけどね。ぼくはそうは思わないけど」
彼はいまだに都立高校の普通科に入るつもりでいた。その志は大事にすべきだが、しかし冷酷な事実もまたきちんとみなければならないのだ。受験というものがどのような原理の上に成り立っていて、そのなかで自分の位置がどこにあるかがわかって、そしてその方向を割り出していくような力がもう必要なのだ。ただ、頑張る頑張るだけでは、この世界は生きていけない。そんな生き方では、ただこの圧倒的世界に流されていくだけなのだと長太は言いたいのだった。
しかし長太は淳一のような子に出会うといつも思うだった。なんと彼らにとって学校の仕組みは不公平にできているのだろうかと。淳一はどんなことにも誠実に真剣に取り組む。しかし遅いのだ。例えば、英語のなんでもない文章をおぼえるにしても、社会やら理科のそれぞれの事柄をおぼえるにしても、人の何倍もかかるのだ。漢字を書くことも、それを読むことも、また驚くほどの時間がかかる。そしてせっかく苦労しておぼえたものも、翌日にはもうきれいなほどに忘れているのだ。したがってたった一ページ程度のことを、それなりに理解するだけでも、膨大な時間とエネルギーを要するのだった。
それは勉強の基礎ができていないからだとか、勉強の量がたりないだとか、あるいは勉強のやり方がわかっていないだとかいった議論とは次元の異なる、ある決定的な事実がその底に冷酷に横たわっているからだった。その冷酷な事実に立ってみるとき、できない子も勉強すればそこそこのレベルの学校に入れるというのは愚かな幻想だということがわかるのだ。だれでも必死に勉強すれば、かならず望みの学校に合格するなどということもありえない話だった。どんなに頑張っても能力以上の学校に入ることはできない。
それは百メートル競争にたとえればよくわかる。一クラスの生徒を同時に百メートルを走らせてみる。するとそこに子供たちの走る力の差が歴然とあらわれる。その差というものは、神が子供たちにあたえた能力の差であって、速い子はどこまでも速く、遅い子はどこまで遅い。この差は、努力だとか練習だとかでは埋めることができないものなのだ。
それと勉強も全く同じことだった。理解力とか、記憶とか、分析力とか、表現力とか、計算力とか、応用力とかいったそのすべての総体としての勉強という力をあたえられた子は、脚力にめぐまれた子がほとんど練習などしないで軽々と先頭集団でテープを切るように、いともやすやすと四とか五という点をとっていくのだ。とにかく彼らは一度説明されたら、学んだことを海綿のように吸い取ってしまう。暗記することだって、まるでカメラに写しとるかのようにしっかりと脳裏に刻みこむのだ。
それはまったく不平等だった。淳一のような子がテストに四十点をとるには膨大なエネルギーと時間がかかっている。できる子が百点とることと、淳一のような子が四十点とることとは、その点のなかの成分というもの、あるいは意味というものがまったく異なったものなのだ。それなのに学校教育は百点の子と四十点の子というランクづけをする。いまの学校教育の評価の仕方は、ただ神があたえた力の差を、ただそのままに評価するための物差しにすぎないと思うのだった。それは逆説的な言い方をすれば、神があたえた事実をまったく無視した卑劣な評価の仕方だということになる。
とりわけ通信表の成績というのは、運動会の百メートル競争とちがって、人間や人格の差としてつけられられていく。すなわち、すぐれた人間、ややすぐれた人間、普通の人間、劣った人間、最低の人間として。勉強の力などというのは、結局は速さを競う百メートル競争程度の意昧しかもたないのに、人間全部の評価として下されていくのだ。
修学旅行が終わったあとにすぐに学力試験があった。三年生になると毎月この試験があるのだ。いわゆる偏差値というものが、この試験によって打ちだされ、その値で自分が入れる高校がだんだんあきらかになっていく。
「このあいだの学力試験どうだった」
と長太は訊いた。
「まあまあです」
と彼はこたえる。いつものこたえなのだ。そしていつもの順番で訊いていく。
「社会はどうだった?」
「二十五点です」
「それはいいな」
長太はちょっとうれしくなって、
「理科は?」
「二十五点です」
「うむ、いいな。それで英語は?」
「英語が、ちょっと悪いんだよね」
「何点なんだよ」
「八点です」
ぐぐぐっとここでずっこけてしまうのだ。こんな点だと淳一の偏差値はたぶん三十六、七なのだろう。これではどこにも入る高校はなかった。
この日は作文を書いてもらう日だった。しかし長太は、もうやめるべきだと思った。作文を書かせたって、偏差値が上がるわけではない。作文などというものは今の時期にまったく無駄なことだった。どうせまた、だらだらと牛のよだれのように言葉をたれ流すだけなのだろう。それよりも少し漢字でも書かせたほうがいいのかもしれないと思い、
「そうだな、きょうは漢字でもやろうか」
「あれ、作文じゃなかったんですか」
と淳一は不満そうに言った。
「作文を書きたいの?」
「ええ」
そして彼は作文を書いたのだ。
その作文を読んだとき長太は思わず、
「すごいぞ、淳!」
と叫んでいた。
書店で購入した駅弁案内の本からの引用である。しかし列車の進行にあわせてその駅弁を紹介していく、その巧みな構成力はどうだろう。沢山の修学旅行の感想文が書かれるのだろうが、駅弁をはさみこんで進行していく作文はいまだかってだれの手によっても書かれたことはないにちがいない。旅先で様々な食事がだされるが、そのときの淳一の観察力と記述の力はどうであろう。
彼を乗せた列車が走っていく。次々に駅があらわれる。さてその駅にはこんな駅弁があるのだと誇らしげに書きこむのだ。まるで物語を書くような興奮にとらわれたにちがいない。ここには創造することの大いなる喜びと興奮が満ちあふれているように思えた。
もはや言葉は少しも単純でも平板でもなく、言葉は少しものっぺりとしていない。十分に複雑であり、複雑な世界にたええるほど複雑な精神があらわれている。淳一が「ハンバーガー弁当六百円、釜めし弁当千円、チキン弁当六百円」と書くとき、特別の意味があるのだ。「きりたんぼ鍋、もみじ焼き、お刺身(ひめます)」と書くとき、彼は生命の底からのびている言葉を書きとめているのだった。淳一の家は支出しの弁当屋さんだった。彼の父は朝はやくから市場に買い出しにでかける。彼が学校にいくころには、母もまた店で調理にいそがしくなる。そんな生活のなかで育ってきたのだ。彼が「特製牛鍋めし七百円、にこみかつ弁当六百円」と書くとき、あるいは「釜めし、中は烏にく、たまご、あわび、前菜とハンバーグ、ふらい、ゼリー」と書くとき、長太はそこに豊かに繁った淳一の言葉の葉をみるのだった。
淳一はそれまでのっぺりとした作文ばかりを書いてきた。そののっぺりとした作文から、彼の言葉の木はなよなよとしたか細いものだと思ってきた。しかしそうではなかった。彼の言葉の木は、たくましく成長していたのだ。その根は深く土のなかにのばされ、その枝にはざわざわとさわぐ葉が緑に輝いているのだった。
冬がやってきた。受験の冬だった。長太は淳一の母親に、苦しい宣告をしなければならなかった。あれこれと淳一の成績がのびないことを話すのだが、言い訳をしているようで重苦しい気分になる。
「どうもぼくの指導が悪いのですね」
「あれがあの子の力だと思っています。もう普通の高校はあきらめていますから」
と母親から言ってきた。
「そうですね。やっぱり定時制しかないようですね。しかし定時制にいっても、彼ならしっかりとやりとげますよ。誠実で真面目ですからね」
「真面目なんですよね」
「ええ、すごく真面目です」
「それとも、どうでしょうかね。調理の専門学校というのは。淳一にむいているような気がするんですが」
その専門学校のことは、前から淳一にすすめていたのだ。その学校では調理だけではなく、国語や英語などの科目も勉強する。なんだか彼にぴったりの学校に思えるのだ。
「うちではタマゴさえ焼いたことはないんですよ」
「それは彼にやらせないからですよ。夏の合宿のとき、彼が料理長だったんですが、なかなか優秀な料理長でしたよ。醤油はどこのメーカーがいいとか、みりんはあすこのメーカーだ、お酢は山形産にかぎるとか。ふつうあの年代で、そんなところまで目を配りませんが、彼は実に紬かいところまで気を配っていたなあ。それはお父さんやお母さんたちの仕事を、小さい時からみていたからなんでしょうね」
「うちではなにもしませんけどね」
「この作文をみて下さい」
と長太は修学旅行の作文をとりだした。
「この作文をたびたび取り出して読むんです。何度読んでも、うれしくなるんですね。よく書いたなって。実に深く料理のことをみている。この作文が彼の未来を暗示しているように思えてならないんです。料理はものすごく奥が深いものだし、芸は身をたすけるというか、料理が淳一という人間をつくっていくかもしれませんよ」
「そうですかね」
「それにお父さんお母さんの跡継ぎというか、お店の仕事だって手伝えるわけですから」
「いえ、それはまったく期待していません。小さい店ですから」
このとき温厚な笑みを始終たたえていた母親が、ちょっときびしい口調で言った。長太にはその裏の意味がわかっていなかったから、なおしきりにその専門学校をすすめてみたのだった。
数日後、淳一から、母親と二人でその専門学校にいって入学案内をもらってきたと聞いたとき、どうやらその学校に入ることを家族でかためたなと思ったが、年があけると淳一は奇妙なことを言い出した。
「定時制、受けることやめました」
「やっぱり専門学校にいくことにしたんだね」
「いえ、それもいきません」
「じゃあ、どうするんだ」
「就職します」
と明るくさっぱりとした調子で言った。
「どうしてまた就職なんだい。あの専門学校はどうなったの」
「あれはやめました。お金がすごくかかるから」
「お金はかかるよな。でも……」
「店をたたむらしいんです」
と不意に言った。彼の母親と最後に会っとき、店は希望がもてないというようなことを言っていた。住人がどんどん減っていくし、安いチェーン店がいたるところにできて、商売はやりにくいと。あのときもうすでに店を閉鎖するという結論を出していたのか。だから就職するということなのだろうか。そこまで経済的に彼の家庭は追いつめられているということなのだろうか。
「でも、就職するんだったら、ぜったいに定時制高校にいくべきだとぼくは思うけどな。まだまだ淳は、学ばなければならないことがいっぱいあるんだから、勉強する場というものを自分の生活のなかにつくっておくべきだよ」
「そうですか」
「そうだと思うんだ。ぼくは定時制にいっている子も、そこで教えている先生も知っているけど、とってもいい雰囲気らしいよ。そこではほんとうの教育が行われているような気がするね。それにさ、そこにいけば仲間がいるんだし。いろいろと職場でつらいことや、いやなことがおこっても、そこにいけばみんなから励まされる。そのためにもいくべきだよ」
と長太はすすめるのだ。
しかし彼は定時制にもいかなかった。淳が決めてきたその職場は、朝の七時からはじまって、夜の十時まで通して働くところだった。彼はそのあたりのことをゼームス塾の最後の作文にしっかりと書いた。
その作文もまたのっぺりとした単調な言葉が打ち続く。店が倒産、借金地獄、そして就職と、人間の言葉を深かめるための材料が、彼の前にまき散らされている。こんなときこそ人間は深く考えなければならないのだ。倒産というものがどうして起こるのか、銀行の構造というものはどうなっているのか、その借金地獄からどうやって一家は抜け出していくべきなのか。あるいは彼の就職先の待遇などをもっと深く知らなければならない、といままでの長太ならばその作文を読んで思うはずだった。大変だとか、地獄だとかいった感傷に流されることなく、その言葉を複雑な世界にはわせていってほしいと。それが精神の幹なのだ、言葉の幹がしっかりとこの地上に立つことなのだと。
しかしあの淳一の修学旅行の作文を読んでから、そういう見方を捨てていた。長太にはこの作文が、かぎりなく美しい文章に思えるのだった。それは多分その作文が美しいということではなく、彼の歩いていく姿が、あるいはその生きる姿が美しいということかもしれなかった。
それにしても、どうして勉強のできない子供たちが、いつも深く重い存在感を漂わしているのだろうか。学校ではいつも邪魔者あつかいされている子供たちが。勉強がよくできて、すいすいと走り去っていく子供たちは、ほとんどなんの痕跡も残さない。しかしできない子たちは、いつも深いところで長太に迫ってくるのだった。
彼らの背中には、お客さんだとか、落ちこぼれだとか、あるときはもっと露骨に、ゴミだとか、クズだとかいったレッテルがはられる。そんな屈辱的なレッテルが彼らの背中にいっぱい貼りつけられている。それはまったく理不尽な、まったく意味のない格印だった。彼らに深い存在感があるのは、この世の矛盾をその小さな背中に一杯背負っているからかもしれなかった。
長太はこういう子たちと出会うことで、救われてきたのだ。彼もまたどこに向かって歩いていいかわからないときがあった。どんな生き方をしていいかわからないときもあった。そんなとき、深いところで長太を励ましてくれたのが、淳一のようなできない子供たちだったのだ。彼らこそ生きていく道をさししめす指針だった。
「あのさ、これから土曜日は、休みなんだろう。卒業しても塾にくること」
「え! くるんですか」
「くるんだよ。漢字とか、作文とか。本を読んだり、絵をかいたりとかさ。これからもいろんな勉強をしていこうよ」
「はい」
「それでさ、いろいろとぼくに料理のつくり方を教えてくれよ。みんなで科理をつくるという時間もつくるからさ」
「それって、いいですね。ぼく教えますよ。また夏の合宿には料理長をやらして下さい。もっとうまいものをくりますから」
「ああ、それはいいな」
長太はなにかまた新しい希望が生れてきたような、豊かな気持ちで言った。