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雨の日のニューヨーク




 その島が、高城たちと別れたあと、ホテルに向かう車のなかで、
「フレッチャーを最後まで迫いかけたいんだ」
「そのギルモアという所にいるというのはたしかな情報なのか」
「いや、それはわからないよ。またもぬけの空だということだってあるかもしれない。しかしそこまでいってみたいんだ。そこにいるという情報がある以上、いってみなければ嘘だと思うんだよ」
「それはそうだな」
「おれをもう一度そこにいかせてくれないかな。彼はそこにいるかもしれないんだぜ」
「そうだな。いってみる価値があるな。ここまできたんだ。徹底的においかけてこいよ。カメラマンとしてこれが君の本格的なデビューになるわけだしな」
 それから五日後、もう仮設編集部をたたむという直前になって島から電話があった。彼はいまフレッチャーの山荘にいるというのだ。もっともそこには電話はなく何キロと離れた隣の山荘からかけているらしいのだが、声を弾ませてフレッチャーはとてもきさくな人で、写真などバシバシ撮らせてくれるし、これならばインタビューだって可能だと言ってきた。もうユキも日本に帰っていて、そこに飛べる人間といったらぼくしかいなかった。特設編集部を閉じ、そのあと残務整理をして、ニューヨークを離れるのは五日後という予定を組んでいたが、ちょっと滞在をのばせば、そのギルモア往復に要する四五日ぐらいの時間はつくれないこともない。これはちょっとした世紀のチャンスだった。このチャンスをみすみす逃すことはないのだ。明日もう一度電話をくれよと言ってひとまず受話器をおいたが、すでにぼくの気持ちは決まっていた。あとはいかにスケジュールを調整するかだった。
 難波の展覧会がヒュートンと、そこから歩いて五分もかからぬストーンという二つの画廊で開かれた。そのオープニングの日は、ナタリア・ペトルセワというチェリストの独奏会を開くというイベントをつけたのだが、ニューヨークの一線で活躍している画家や彫刻家や作家や音楽家やデザィナーたち、さらにテレビのキャスターや俳優まで多彩な人間がそのオープニングのカクテルパーティに集まってきた。この都市ではギャラリーが社交場になっているらしいが、まるで水が湧き出てくるようにさまざまな分野の創造者たちが集まってくるのは、芸術や文化を生みだす厚い土壌があるからにちがいなかった。そのパーティは刺激的で、ニューヨーク特集号はここからスタートさせるべきだと思ったが、それこそもう後の祭りだった。
 そのパーティにはサンドラも姿をみせていて、その夜ぼくはサンドラのアパートに誘われた。彼女の部屋に入ったのは二度目だったが、壁になにげなく架けてあった絵が、たったいま会ってきたケリーという画家のものだということを知って、なんだかより一歩深く彼女のなかに踏みこんできたように思えた。それにしても彼女の部屋は、インテリア雑誌のカラーページさながらだった。部屋のレイアウトも落着いた色調も、家具や調度品もなにか絵画をみるようにしゃれている。マンハッタン誌ではシニア・エディターという地位にいてかなりの高給をとっているにせよ、たった一人でこれだけの空間と生活を維持できるアメリカの底の深い豊さを思わずにいられなかった。
 彼女が編みだしたというミルクで割ったカクテルをつくってくると、
「わたしも行きたいのよね」
 と言った。トム・フレッチャーのいるミシガン湖の旅に彼女を誘ったのだ。しかしちょうど締切りにあたっているらしい。
「わかるよ。締切りの地獄は西も東も同じさ」
「本当にくやしいわ。あたしも彼にききたいことはいっぱいあるのよ。それにぜったい何かを書かせたいと思うわね」
「君の分まで彼にたずねてくるさ。彼の話しをテープにいれるかもしれない」
「そういう手は使いたくないわ。言葉と言葉をふれあわせなければ話したっていうことにならないじゃない」
「それはそうさ」
「でもこれであなたの雑誌、すごくエキサイトするわね。刷り上がったら必ずわたしの所に送ってちょうだいね」
「君にはずいぶん助けられたな。ほんとうに感謝しているよ。それにぼくの下手な英語に辛抱づよくつきあってくれて」
 彼女の暖かい部屋のなかで、彼女のやわらかい視線を前にして、崩れていくような濃密な空気に、ぼくは少し酔いかけていた。
「あなたが帰る前の夜はあけておいてちょうだいね。あなたをちょっと素敵な所に連れていきたいの。今度はあたしがおごるのよ」
 サンドラはまたぼくを崩し去ろうとするような視線を向けた。
 ミシガン潮に旅立つ前の夜、宏子に電話をいれた。このところ彼女の夢をよくみるのだ。彼女のもとに帰っていくのだという喜びが、無意識の世界を支配しているからかも知れなかった。
「もうすぐね」
 と宏子は言った。朝の声だった。明るく、健康で、ぼくを幸福にする声だった。
「うん、もうすぐだ」
「うまくいっているわけ?」
「まあまあだな」
「まあまあって言うことは、うまくいったってこと?」
「うん。みんなうまくいったよ」
「よかったわ。慣れないことばっかりだから、あなた痩せたんじゃない?」
「うん、すこし痩せたよ。眠りが浅くてね」
「うんと食べなくちゃいけないわ。あなたが倒れたらみんな困るのよ」
 彼女のやさしくやわかい声に身もとけるようだった。ぼくには待っている人間がいるのだった。もう孤独でもなれけば、一人でもない。喜びも悲しみもわけあえる人間がいるのだという思いにしみじみとした幸福感が広がっていくのだった。
「もうすぐだな。もうすぐで君を抱けるんだ」
「あなたもそう思うわけ」
「そう思うさ」
「あたしもそう思うの。あなたの声、とても感じるのよ」
「もうすぐ君をベッドのながでいじめることができる」
「わたしもあなたをいじめるのよ」
「うん。君の声もすごく感じるよ」
「あなたがいやだって言ってもわたしはいじめるのよ」
 と彼女はなんだか涙ぐんでいるように思えた。もう少しだった。あとわずかで彼女に会えるのだ。彼女との熱い夜がまっているのだ。
 シカゴのオヘア空港に降り立つと、そこからタクシーでメソグフイールズという近距離専用の飛行場に飛んでいった。そこからもう一度飛行機に乗るのだが、めざすグランド・ベイにいく機はすでに飛び立ったあとで、仕方なくその夜は近くのホテルで一泊しなければならなかった。グランド・ベイに着いたのは二日目の朝だった。ただ一本の滑走路が白い広漠とした荒野のなかに走っているだけの飛行場だった。飛行場の建物といったら素気ない兵舎のような建物があるばかりで、北の果てにあるさびれた駅に降り立ったという感じだった。
 フレッチャーの家には電話がないのだから、こちらからは連絡はとれないのだ。島がここまで迎えにくるまで、何時間でも何日でも待つ以外にない。ロビーに小さなコーヒー・スタンドがあって、そこでコーヒーを飲んだり、やわらかい冬の陽ざしが降りそそぐ表に出てあちこちをぶらついたりしながら待つこと四時間。一台のプロペラ機が南の空から小さな爆音をたててあらわれ、雪をはらった滑走路に滑りこんできた。その水陸両用機から島が降りてきたのだ。
「昨日も迎えにきたんだがね」
 と島は白い息を吐いて言った。
「昨日は間にあわなかったんだ。おかげでひどいホテルに泊まったよ」
 そんな会話を交わしていると一人の男がやってきた。それがフレチャーその人だった。アメリカ人にしては小柄な男で、顎ひげをたっぷりとたくわえたその風貌は若々しくみえる。この男が飛行機を操縦してきたのだ。建物の前にあるスパーマーケットに入り食糧を山ほど買い込んで、その小さなプロペラ機に乗込んだ。
 後部のシートに座りベルトをしめると、ブルブルとエンジンは唸りだしたが、それにつれて恐怖も高まっていく。かつては飲んだくれていたという男に操縦などできるのだろうか、ずいぶん古ぼけてみえるがこんなものが飛ぶのだろうか、これでおれの人生はあえなくついえるのではないかという思いが駆け抜けていくのだ。しかしよいしょとばかり地上から舞い上がり、ぐんぐん高度をあげてまるで空を散歩するかのようにかろやかに飛翔すると、もう不安はなくなった。
 白く化粧した大地がたとえようもなく美しかった。遥かなる大地、海のように広がるミシガン湖。美しきアメリカだ。青く沈んだ潮面にばしゃりと卵を割るように着水すると、波をけたてて糊岸から一本のびている突提に機を着けた。木立のながにどっしりとした山荘がたっていた。それが世を逃れたフレッチャーの隠れ家だった。なにか一瞬してドラマの世界にはいったように思えるほどだった。
 島がこんな極地に住むフレッチャーに会ったのは、まったくの偶然だったらしい。グランド・ベイでうろうろしていると、ちょうどそこにフレッチャーの隣の家、といっても何キロも離れた場所に住むハドソン夫妻に出会って、彼らの自家用機でここに連れてこられたらしい。それ以来もう七日も滞在している島は、昼はフレッチャーのあとをについて釣りや狩にでかけ、夜は夜でポーカーの相手をしたりで、ひどくフレッチャーに気に入られているようだった。フレッチャーは驚くほどの正確さで島のことがわかっていた。辞書片手にただ単語を並べるだけの島を、作家の鋭さで内部までのぞいているのだった。
 その夜ぼくと島は鍋料理をつくれば、フレッチャーは朝の狩で仕留めてきた野鴨をじりじりと肉汁をたらしながら焼き上げた。あかあかと燃えさかる暖炉の前で、男だけの宴がはじまった。ぼくらは缶ビールで、フレッチャーはミルクで乾杯した。ひどいアルコール中毒から立ち直った彼は、いまではミルクー辺党だという。
「ぼくらだけビールで悪いですね」
 とぼくが言うと、
「いや、君らこそあわれに思うぜ。ヴァッカスは悪の水、ミルクこそ生命そのものだ」
 と宣教師のようなことを言うのだ。たぶん彼にはアル中から抜けだすための壮絶な戦いがあったにちがいない。いまの彼は本当にいい顔をしていた。若いころの写真はいかにも怒れる若者といったひりひりとするような印象を与えたが、髭のなかに隠れるようなそのまなざしはどこまでも静かでやわらかいのだ。
 ごうごうと燃立つ火を前にして、ビールの酔いが心地よくまわりぼくは深い充足感に満たされていた。島は時折カメラで抜目なくフレッチャーをとらえる。
「よく島に写真を撮らすことを許しましたね」
「彼はおれを撮っているのではなく、この美しきミシガンを撮っているのさ。冬のミシガンはもちろん美しい。しかし春も夏も秋もまた素晴らしい。彼に言ったんだ。春にも夏にも秋にもやってこいってね」
「ああ、それは素晴らしいですね。彼もいま苦しいところに立っているんですよ」
「そうらしいな。カメラというやつで自分を表現するには、カメラとともにくたばる以外にないからな」
「あなたと出会ったことで、彼は蘇るがもしれませんね」
 安っぽいお世辞だとばかり、ぶんとあざけるような笑いをつくると、
「君らも馬鹿な企画をたてたものだな。それでその日本の作家はトム・フレッチャーをどうやってつかまえるわけだ」
「たぶんうまくつかめないと思いますよ」
「そうだろうな」
「しかしあなたは、ぼくらのなかに依然として生きているんですよ」
「それはおれではなくてあの本がさ。あの本はもうおれのものではないんだ。おれはもう君らの馬鹿騒ぎから足を洗ったんだよ」
「この山荘にきて、ソローのウォールデンを思い出しましたよ」
「うん、ソローか。あいつもアメリカ人なんだな。ああいう人間というのは、むしろ君たちの国にいっぱいいるんじゃないのか」
「昔のことは知りませんが、いまはあんな人間はいないですよ」
「自然の美しさをほんとうにわかる人間は、極東に住む人間たちだと思うのだがな」
「しかしもうそうではなくなってしまいましたね。物質を生産することだけに一生懸命の民族になってしまいましたよ」
 そしてぼくは葉狩史郎のことを、まずしい語彙をかきあつめながら、しかし熱っぽく話してみた。すると意外にもフレッチャーは、
「そいつは建築屋じゃないのか。詩人というのは滅んでいく人間たちを歌う人種のことなんだ」
「かつての彼はそうだったんです。しかしその絶望の深さゆえに、今度は建設する人間たちのことを歌おうというのですよ」
「建設などいうのは糞くらえなんだ。いいか、この世は建設で満ちあふれている。どこもかしこも建設だらけだ。いたるところ建設だ。建設がすべてを亡ぼしていくんだ。もしそいつが詩人ならば建設などいうものをはじめてならないんだよ」
 そのはげしい言葉とはうらはらに彼は静かに話すのだった。
「この世には建設したがっているやつらは腐るほどいる。建設はそいつらにまかせておけばいい。どうせガラクタしかできない。なにをつくったってガラクタになるんだ。いまおれたちがすることはなにもしないことだ」
 この大いなる自然のなかでこびりついた毒を洗いだしている彼は、いままったく新しい言葉を育てているように思えた。時間をたっぷりつくってもう一度この男を訪ねたいと思った。ぼくもまたこの男のように自然のなかで釣りや狩りをしながら自分を洗いたいと思ったのだ。
 結局その山荘に二泊して、ニューヨークに戻ってきたのだが、帰りの飛行機のなかでまた宏子の夢をみた。それはちょっと恐ろしい夢だった。なにか底のない沼のような空間にずるずると沈んでいく宏子が、救いの手をのばしているのだ。そのあまりにも奇妙な恐ろしい夢に汗をびっしょりかいて目がさめたのだった。
 ホテルに戻ってくると、もうすっかり親しくなったフロントのケリーがぼくの顔をみるなり、あなたに何度も東京から電話があった、至急ここに電話するようにと言って紙切れをよこした。そこにはニシカワと書かれてあり、いったいこのニシカワとはだれなのだろうか思いながら東京を呼び出した。
 東京はまだ朝の七時前だった。こんな早朝に悪いと思い、いや至急ということだから仕方がない、それにしてもこの人物はだれなのだろうと思案をめぐらしながら東京がでてくるのを待っていると、突然そのニシカワなる人物がだれなのかがわかったのだ。何度も電話をくれたんだってとぼくは陽気な声で伝えると、西川はなんだか曇った重い声で、
「実藤‥‥」
 と言ってそこで途切れた。なんだい、どうしたんだいとぼくはまた元気な声で応答すると、
「実藤、あのな‥‥」
 と言って、そこで西川の声が途切れる。そこではじめて西川はいまなにかただならぬことを告げようとしているのだということがわかった。どうしたんだい、なにがあったんだいと同じ問いを発したが、ぼくの声は緊張していた。またその問いのあとに深い沈黙があった。それはたぶん恐ろしい言葉を告げるために、呼吸をととのえていたのだろう。
「宏子が死んだよ」
 そのときたったいま飛行機のなかでみた夢が、ぼくを吹き飛ばすようにたたきつけてきた。それが冗談ではないことがわかっていながら、
「どういうことなんだ。悪い冗談はやめてくれよ」
 とぼくはかろうじて言った。十目の朝に発見されたんだ。溺死だよ。茅ケ崎の海岸でね。だいぶ酔っていたそうだ。彼女の友だちも彼女を助けようとして死んでいる、と受話器の底が流れてくる声を呆然として聞いていた。


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