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日本中世史研究のパイオニア 大山喬平


 合唱とは、決して心をひとつにすることではない。昨年、文化功労者になった合唱指揮者、田中信昭はそう言い切る。プロ、アマチュアと縦横に広がる日本の合唱文化の礎となり、今なお現役で駆け回る。「肉体が波動を起こすやり方は人それぞれ。他者との違いを確かめ、自分だけの人生を生きる力を得ること。それが、歌というものが存在する理由にほかならない」
 89歳。岩城宏之、山本直純、林光、三善晃ら、西洋の借り物ではない自分たちの音楽文化を戦後日本の焦土に築こうと奔走し、先だった盟友たちとともに受けた栄誉と感じている。
  大阪の中学校で音楽の教師をしていたが、本格的に歌を学ぶ夢を諦めず、東京芸術大学声楽科へ。言葉こそが音楽の母、とドイツ歌曲の名匠ネトケ・レーヴェに学び、日本独自の歌の文化を育てるべく、卒業式のその日、声楽仲間と東京混声合唱団を創設する。
 初演した曲は約450曲。楽譜を受け取り「おお、変な曲。よし、やってみるか」。この繰り返し。「とんでもない曲が届くほどうれしい。今でもね」
 一番「とんでもない」と思ったのは、柴田南雄の「追分節考」(73年)だ。「日本の民謡の素材だけで書いて」という田中の難題に対し、柴田の答えはシステム化されたクラシック音楽のやり方、つまり楽譜と指揮による奏者への束縛を放棄することだった。
 指揮者が手にするのは指揮棒ではなく、複数のうちわ。奇声や追分のユニゾンなどを意味する様々な指示が書かれている。積み上がってゆく音響空間のなか、指揮者は即興的に次の指示を出してゆく。すべてが混沌(こんとん)、筋書きのない即興芝居さながら。「奏者ひとりひとりが己を解き放ち、音で空間をつくる『遊び』に主体的に加わってゆく」。合唱そのものの本質を射抜いた野心作は、今や合唱界の主要レパートリーだ。
 最も嫌いな言葉は「予定調和」。「わざわざホールに足を運び、いわゆる名曲をいままでと同じような演奏で聴かされて何が楽しいのか。破綻(はたん)のない『芸術』ほどつまらないものはない。生きている以上、新しいものに驚き続けたい」(編集委員・吉田純子)

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日本中世史研究のパイオニア  大山喬平


『日本中世の村落』は、第二次大戦下で、日本中世史研究のパイオニアであった清水三男(一九〇九─-四七)が、中世荘園制の枠細みの背後にある自然村落の実態を探り、そこに国家を形成する自然農民の豊かな農耕生活と村落の芸能・文化生活を浮かびあがらせた名著である。そこに示されていた中世村落自治の輝かしい前進についての認識に清水が戦後史学に残した大きな遺産があった。

 本書は日本中世史研究の魅力あふれる名著でありながら、長いあいだ正面からとりあげてこれを論じることは避けられてきた。清水は一九三八年治安維持法違反で逮捕され、三九年以来、思想犯として警察の保護観察のもとにあった。四二年に書かれた『日本中世の村落』はその間の仕事であり、自己の良心と時代のはざまで引き裂かれなければならなかった一つの確信と信念の書であった。日本軍の兵士として千島列島のホロムシロ島で敗戦を迎えた清水はシベリアヘ送られ、一九四七年スーチャン捕虜収容所において死亡している。

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 中世の村落は清水にとって、つねに近世村落との対比によってとらえられていた。中世後期への時代的推移のうちに、商人の活動が活発になり、彼らの村政への進出が顕著になる一方、城下町への武士町人の吸収がみられ、中世村落が内包していた武士的要素・商人的要素が希薄になり、信長・秀吉の地方政策がこれを決定的にした。室町の村落は清水にとって純一な村落とみなされている。そこにみられるのは番頭百姓であり、名主沙汰人である。番頭がいないところではおとな・古老・老衆が全村を代表する自治機関を構成し、村政にあたった。おとなに対置されるのが若衆である。おとな・若衆というふるくからの制が村落自治の機関と化し、行政的な寄合をもつようになるのが室町という時代を特色づける。鎌倉時代にはまだ地侍的な名主が村政を牛耳っていた。こうした不純分子が守護のもとに去り、そのあとに純在地的な室町 の郷村が現出するとみるのである。室町時代の村落にあって、おとなは外にたいして村を代表し、村の若衆は村落内部の活動の中心をなした。ここには清水が理想とする生きた村落自治が現出していた。

 こうした中世にあらわれた村落自治の精神的中心として、村の神、村の鎮守が位置づけられている。中世寺院は概して村人の個人的生活にかかわり、個人的信仰の面では念仏をとなえて極楽往生を欣求(ごんぐ)していたのにたいし、神社は集団生活を保護支持する精神力としてはたらき、村人全体・国家全体の平安を祈るものとしてあらわれたというのである。こうした観点のもとに国・郡・荘郷など、各レベルの神社とその信仰生活が詳細に考察される。土地にいます神という土地の味より、地方民の集団の神としての性格をそこに読みとった清水は、村人の信仰が鎌倉以降、次第に地方化していく現象を捉えている。そのいっぽう、室町時代になると国家的信仰のたかまりが認められ、守護大名領の形成、近世的国民国家の成熟とともにふたたび  国家的な神が求められるにいたった事実を、清水は荘園文書の起請文の文言をはじめ、多くの事実から読みとっている。

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 寺院もこれに関係した。寺院は村人の個人的信仰にかかわっただけでなく、神仏混交の時代にあって、寺院の村人の共同生活との結びつきもまた大きかったのである。西大寺の郷にみられる叡尊の用水池をめぐる寺僧と寺辺の衆庶との結びつき、荘園の鐘撞免田の存在から村人に時刻を報じ、時には異変を知らせた中世の鐘の音に注意し、鐘撞免田が村人による自治の進行にともなって現われ、村政の一つの中心となったと述べる。若狭汲部(つるべ)・多烏(たがらす)の村堂としての観音堂の存在、薬師寺の修二会にみられる寺内におかれた宮座の機能がすくなくとも室町初めにさかのぼる事実、そこには仏式神式の行事が、一つの宮座で行なわれていたのであるが、清水はその本質を神道に求め、その精神が共同生活を強め固める神道的精神のものであったとする。清水は日本の神がもつ共同生活擁護の性格に注目するのである。

 清水は室町時代の荘園のなかに郷村文化の高度な達成をみている。それらは郷々の田楽、猿楽、細男(せいのお)であり、各地の白拍子、傀儡師(くぐつし)であり、地下(じげ)の若衆の演じる神事能、田舎人の芸の高さであった。室町時代、芸能における都鄙の別は小さかった。「天下泰平国土安穏今日の御祈なり」という能の翁の祈願の精神、神を楽しませ人も楽しむ芸術的共感がここにあり、芸能が地方の神事に結びついて発達したのであった。連歌も同様であった。これが信長・秀吉の兵農分離政策以前の室町郷村文化の性格であって、そこでは郷村の生活のなかに文化的要素が分有されていたのであった。郷村の自主的な精神が室町文化の基礎であり、室町文化の粋は京都奈良の都市文化であったにしても、その根底に郷村文化を置いていたという。室町時代、村々は共通の山の神を祭る杣人の連合として、あるいは用水を共有する近隣諸村の連合として村落連合体を形づくった。

 中世村落は奈良・平安の異国的貴族的文化を咀嚼選択して日本の土壌に適した文化に編成し、室町文化の基底を作った。兵農分離は地方文化層の都巾集中をもたらし、村落文化は国民文化の標準から置き去られていく運命をたどる。
 こうして清水が説いてやまないものは中世村落の文化の高さであった。それは室町の天才的な文化人の手によって洗練されて京都や奈良において真の意味での国民文化に転成され、室町文化を全面開花させていくのであった。この国民文化の基底を建設していた中世民衆のたくましい文化意欲について清水は心をこめて指摘するのである。

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 清水は中世の市場が荘園領土経済の一部ではなく、さらに広い国民生活のなかに成長したと『村落と市場』で述べている。中世の市には市尾をもつ市と、店屋をもたぬ行商による市の二つの型があり、前者は地方に中小地主の向上した生活と経済の成立があって、そのなかから生まれたとみる。市場の発達もまた国民中堅層の荘園関係からの脱却活動の一形態である。市場が多く神の計により、神の恵みとして立てられたことを示す武蔵国の祭文、そこに想定される問屋的な市場商人の誕生、直接消費ではなく、生産のための購入消費が奈良京都においてよりもとくに村落市場において発生したこと、それを担う層としての市場商人によって近世的な国家意識が早く把握されたであろうこと、彼らはしかし近世の町人ではなく、一面村を離れながら村に結びつけられており、その本質は村人の一部としての名主であったことが述べられている。自然経済の狭隘な枠のなかから、中世商業が成立してくる過程を近世のより発達した商業活動と対比させながら清水はこれらを的確に説明している。

 建武中興を意義づけるために、中世村落についての清水の所説を展開したのが『建武中興と村落』である。建武新政府は国に国司と守護とを併置した。清水は建武中興の意義を国司守護制の立直しによって村人を軍事的・政治的に国家的規模のなかに強く引き入れ、そのことによって彼らの愛郷心を強め、自治的郷村の形成に導いたと評価する。地方組織としての国司守護制・村人の愛郷心・それを体現するものとしての自治的郷村の三者がここに提示され、その三者が建武中興の意図した国家形成によって統括させられている。清水は建武中興の意義を近世的国民国家への道をひらいたものであるという。それは村人の生活意識の解放として現われ、荘園内・村落内において終始する狭い生活圏内を離れて、国司守護中心のより広い領域生活の確立が日本に近世的国民国家を形成させたというのである。

 清水の主題はここでも中世村落の推移におかれている。清水にとって北条氏の凋落は村落史における地頭の凋落であった、鎌倉後期における村人の意識的政治的団結は地頭非法への抵抗として組織されることが多く、したがって倒幕への企てには地頭打倒の村人の要望と荘園領家側の期待がこめられていた。新政府が地方行政の単位として守護と国司を用い、地頭を重視しなかったのはこのためであると見る。清水は地頭の領主的経営の推移を問題にして、地頭の凋落は鎌倉時代の地頭・名主の下人私有による耕作をとどめ、彼らを年貢を取得するたんなる地主にかえたと見、ここにより自由な小作関係が一般化し、その下に村人の結合が成立し、「郷村制」に基礎をおく国司守護による地方勢力の統一が始まると見るのである。

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 最初に清水の学問のキータームとして自然村落と国家(近世的国民国家)の二つがあったことを指摘した。ただ清水の仕事は国家についてはきわめて抽象的でその具体的分析はほとんどないに等しい。村落について執拗に事実を掘り起こし、これを全面的に明らかにしようとしていたのと対照的である。守護の領国について清水は、近世的国民国家への可能性をそこに読み取っているのであるが、それがきわめて観念的かつ抽象的なままに放置されていることを指摘しておかなければならない。清水が国民国家を口にするとき、つねに念頭に置かれていたのは一九四〇年代前半の、第二次世界大戦を戦う大日本帝国のあり方であった。

 かつてマルクス主義に傾いたことのあった清水は、時の日本国家に批判的言辞をもらしていない。かれはあるべき国家のありかた、民衆の自治にささえられた真の意味での国家形成をただ抽象的に説くのみである。こうした清水をどう見るかはむつかしい。清水は私の解釈では現実の日本帝国のありように意識的・無意識的に目をつぶったのだと思う。それが精一杯の清水の抵抗ではなかったかと、このように敗戦後、実に半世紀を過ぎて私は思うのである。そこにまた清水の大きな限界があったのであると。

 しかし国家をリアルに見ることなく、その現実のあり方との格闘を避けたところに、いっぽうの自然村落ともろもろの中世の村制度との相互の関連が生き生きと分析されえた側面があったといわなければならない。ここには現在の歴史学にとっても示唆深く、含蓄に富んだ分析の数々がちりばめられているのである。それは悲しい事実である。

 清水は出征にさいして後輩の林屋辰三郎に一篇の論文を託した。林屋は敗戦の直後、志を同じくする友人とともに新しい希望にもえて京都の地に日本史研究会を創設し、その機関誌として『日本史研究』を創刊した。清水の後輩の歴史家たちは、林屋に託した清水の論文を『日本史研究』創刊号の巻頭に載せて彼の帰国を待った。清水は帰ってはこなかったけれども、林屋たちが設立した日本史研究会は東京の歴史学研究会とならんで、戦後歴史学を担う中心的な大学会となり、日本の歴史学を内外に代表して現在にいたっている。

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