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病院の怪談  ③

奈々枝はあと半年で90歳になる。夫の潤沢な遺族年金と資産で悠々自適だ。金持ちの家に育ち、高度成長期のエリート商社マンと結婚、お手伝いさん付の暮らしをしていた。子ども3人もエリートコースを走り抜け、今もエリート、海外暮らしだ。

夫は給料の絶頂期辺りでコロリと死んだ。だから寡婦年金の額はそんじょそこらの現役世代の給料より高い。資産はタワーマンションの最上階だ。

奈々枝は独り暮らし、お手伝いさん二人を雇い、暮らしに何一つ困ることはない。15年ほど前に難しい名前の癌を患ったが、お金の力で癌もねじ伏せている。

血液の中に出来た癌で、つい半年前も血液の中の癌細胞を200個ぐらい除去した。医師がそう言ったのだからそうなんだろう。
奈々枝は医師を信じている。あの医師の技術の凄さも、あの医師がお金さえ積めばどんな難しい癌も取り払ってくらるということも。

「最初の手術のとき100万円払ったの」
お手伝いの多佳子に言った。
「ど、どうやって100万円渡したのですか?」
「その時は、息子がね、ベルギーで買った本場のゴディバですって言って菓子箱を」
「で、箱の中に現金がドバっと?」
多佳子の声が掠れる。
「100万円ってそんなに分厚くもないわよ」
「……」
「それからはね、定期検診に行くたびに、私、息子に言われたように、10万円を診察室で」
「でも、あの病院、『付け届けはお断りいたします』って張り紙出てるじゃないですか?」
「あ、そう?でも、お金渡す人は渡してるってうわさよ」
多佳子は暗澹たる気分になった。
同じ病院なのに、夫は抗癌剤治療でボロボロになって死んだ。現金の付け届けをしなかったからだろうか……。
浅井の奥さまはたまたま担ぎ込まれた所があの公立病院だったが、もっと特別な、有名な病院に入院できたはずだ。上級国民だから……。
「浅井さんは、なぜ、あの病院に? 有明とか築地とかマリアンナとか上級国民向けの病院があるのに」
「あの先生と相性がよかったし、お金を積めば、癌細胞千個でも取り除いてくれるし」
そう言って奈々枝はゆったりと微笑んだ。多佳子は奈々枝のカップに紅茶を注ぐ。コロンビアの紅茶。

多佳子は紅茶を一口、かしこまって飲み込む。
コロンビアから取り寄せた紅茶なぞここに来た時しか飲めない。浅井家に縁ができて本当に良かった。
ときどき豪華ランチに連れていってもらえるし、古い金のアクセサリーももらった。お金に換えたらなんと40万円になった……。

お金の話も自分たちとは桁が違う。別世界だ。
「あの、お金を積むってどんなふうに、ですか」
「封筒を渡すの」
「お医者さん、受け取るのですか?」
「黙って受け取って、デスクのビニールカバーの下にすっと入れるわ」
「すっと……?」
「何も言わないですっと入れるの。診察室の中はね札束が飛び交っているのよ」
「ほんとうに……?」
「家族旅行をするって話をされたときはね、先生の住所うかがって、そこに30万円送ったの。そしたら長崎からお土産が送って来たわ。お礼のつもりなのね」
「すごく貢いだんですね」
「もう300万円ぐらいはね。公立病院ではふつう転勤があるけれどその先生は転勤しないの。私を患者に受けもっていたらお金がたっぷり入るから」
「先生が浅井さんを手放さないのですね」
「女性の先生だから転勤は嫌でしょうし、子どもが二人でお金もかかるでしょうし。公立病院の医師の給料は、まあ、並のサラリーマンよりはいいでしょうけど」
 奈々枝は夢見る瞳になった。
「商社マンだった夫の稼ぎと変わらないかも。あのころ、商社は買う気になれば地球一個買えるぐらい儲けていたって、夫が言ってた」
「私は……」と言いかけて多佳子は言葉を飲み込んだ。
「ああ、ご主人、癌で亡くなったのよね。お金渡さなかったから、おざなりにされたのかもね」
「寡婦年金もないし、遺産もないし、子どもは障害者だから、こうやって家政婦してるんです。80過ぎてるのに、ハハハ」
多佳子は笑った。笑うしかない。
「私、生きてる限り、あなたを使ってさしあげますよ。再発しても再発しても、あの先生が癌細胞を取ってくださるから、100ぐらいまでは生きられそうよ。オホホ」
「浅井さんの御病気、ほんとに癌なんですか?」
「お医者さんがそう言うからそうなんでしょう」

多佳子はふと思った。
浅井奈々枝は認知症になっているのではないだろうか。
大金持ちの認知症の人を以前二人世話したことがある。
普通に話していると分からない。だが時々、おやっと思った。お金の力をものすごく信じているのだ。
信じているというより、使い方が桁違いになっているのだ。
自分にもよく世話してもらおうと思って、封筒に入れた現金を手渡した。なんと50万円!毎月、振り込まれる謝金とは別に。
怖かったが黙って受け取った。
それがその人の娘に知られ、クビになった。そればかりかもう少しで警察沙汰にされるところだった。
だから今、自分は現金は受け取らない。豪華なランチ、ディナー、アクセサリー類ならいただくが。

もう一人はもうお金はないのに沢山あると信じていて、結局、最後の給料は払ってもらえなかった。実態は破産していたのだ。

医者に300万円ぐらいは貢いだという話し、本当かどうかは分からない。
本人がそう信じているだけかも知れない。
それに……。
医者が金品を付け届けしなかった患者にはおざなりな処置をして、莫大なお金を渡した患者には、とっておきの魔法のような治療をして命を救うなんてあり得ない……?。

絶対、夫が死んだのはそれが夫の寿命であって、お金を医師に渡さなかったからじゃない……。
多佳子はそう思うことにした。そうでないと救われない。

その夜,多佳子は夢を見た。
診察室の中を札束が飛び交っているのだ。お札の一枚が不意に多佳子を見て笑った。そのお札の顔が奈々枝に変った。

多佳子は目が覚めた。
明後日.あの家に行ったら奈々枝が認知症かどうか試してみよう……。

                          続く

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