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小林一緒 -あの味を忘れない-

 2014年12月、埼玉県さいたま市の埼玉会館で『うふっ。どうしちゃったの、これ!? えへっ。こうしちゃったよ、これ!! 無条件な幸福』という展覧会を観に行った。これは埼玉県障害者アートフェスティバルのひとつとして企画された展覧会で、5回目を迎える。障害のある人たちの作品群が並ぶ会場を歩いていると、隅の方に展示されていた奇妙なイラストに目が留まった。『俺の日記』と題されたその作品は、ルーズリーフやノートに弁当やラーメンなど実に美味しそうな料理のイラストが描かれている。料理の名前や値段、そして食材と共に、画面の余白に書き添えられた「旨イッ!!」という感想。これは、実際に食べた料理をイラストと感想で記録した絵画だった。展覧会場で身震いがして、僕はその作者を追いかけた。

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 2005年、つくばエクスプレスの開通に伴い開業した三郷中央駅。埼玉県三郷市の中央部に位置し、駅周辺にはショッピングセンターや新興住宅地が立ち並び、現在も開発が進んでいる。そんな駅の最寄りにある閑静な住宅街の一角で、小林一緒(こばやし・いつお)さんは高齢の母親と暮らしている。

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わざわざ来て頂いてすみません。ジジイが勝手にメモ帳に描いてるだけなのに。

 声が聞こえる方に向かうと、キッチンも兼ねた部屋の隅に小林さんは座っていた。小さな座卓の上にはボールペンや色鉛筆、マジック、コンパスなどの画材に加え、食べ終わった貝殻やカニの脚から割り箸、そしてお弁当に付いていた香辛料や調味料に至るまで様々な物が溢れかえっている。周囲にはビニール袋に入ったカップラーメンの容器の山が小林さんを取り囲み、全て手の届く位置に置かれているようだ。

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 机はもうごっちゃ。空き箱は全部食べたやつ。食べたものを絵にするから色々置いてる感じですけど、面倒くさくて捨ててないのもあります。食べてないのはカップラーメンですね。おふくろが買ってきてるんですよ。「ここに置いといたらいいな」が、こんなぐちゃぐちゃになっちゃって。最初はただの広いテーブルだったんですけどね(笑)。

現在53歳(取材当時)の小林一緒さんは、東京の江東区森下に生まれた。

 水元公園近くの葛飾区で生活してて、こっちへ家建てるんで小学校2年生の途中で引っ越して、それからは三郷中央ですね。親父はプロパンガス屋で、ボンベ乗っけて配達してた時代でね。その頃、親父が一生懸命やってました。兄貴はもう結婚して杉戸の方にね。娘もでっかいです。私は独身で、一人静かにやってたんです。絵を描くのは小学校の頃から好きで、中学そして高校1年の初めまでは美術部でした。高校は埼玉の県立吉川高校です。美術部を辞めて、近所の喫茶店でウェイターのアルバイトやってる時に、食べるのが好きだったから「こういう飲食の仕事いいなぁ」と思うようになって、池袋の後藤学園っていう調理師専門学校に1年行って、そのまま調理師として市内のお蕎麦屋さんに就職したんです。

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 20歳から38歳まで18年働きました。「出前持ちから頑張って、いつか自分の店持ちたいな」なんて夢ばっかり見てたけど、途中で気力が無くなっちゃったんですよ。蕎麦屋さんも途中で店閉めちゃて、「もう一度開店しよう」って言われたんだけど「俺はもういいや」って辞めちゃいました。結局、挫折しちゃったんですね。その後、近所の老人ホームの栄養課に2年、三郷順心総合病院(現在の三郷中央総合病院)で5年。病院では150食とか作ってて、どっちも小学校の給食センターみたいな職場でしたね。まぁ、俗にいう人間関係のトラブルで辞めちゃいましたけど。

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 本人もはっきりとは覚えていないが、食事の絵を描き始めたのは18歳、19歳の頃だという。当初は、家に帰ってから食べた物を思い出してメモに描く程度だった。「ただの日記帳代わり」と彼は言うが、何という記憶力だろう。僕なんて昨日の夕食も思い出せないのに。そして机の下から出てきたのは、無造作に輪ゴムで包まれた膨大な紙の束だった。

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 輪ゴム取ってバラバラにして構わないっすよ。これが全部メモです。時代も何も全部バラバラで、ここにも無い昔のは、もう捨てちゃったけどね。このメモは家に帰ってから記憶だけで描いてて、これを見ながら落書き帳に清書するんです。忘れたものは仕方ないけど、余計なものは書かない。色なんかは、適当に自分でこんなもんかなと。ただ赤を白にしたり、黒を黄色にしたりはしませんよ。そんなことはしない。大体絵に描いたら、こんな感じだったなあって描いてますよ。

 そんな小林さんが現在のようなスタイルになったのは昭和63年。ちょうど26歳の頃だ。

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 20代前半は、どこ食いにいっても、「あぁ美味しかった、さようなら。はい、美味しかった、さようなら」って、何食べてもそうだったんですよ。だんだん食べてるうちに、「絵描いて残しとこうかな」って思って、ちっちゃい絵から描きはじめて、そのまんまずっと今も描いてます。テレビ見てて、人の食べてるものを「美味しそうだな」って思うけど、絵を描くのはやんないです。あくまで自分で食べたものだけ。まぁ、「何年何月から描きはじめてずっとやってます」じゃなくて、ちょこんちょこんやってるって感じで、全く描かなかった日も今までにありますよ。

 メモを頼りに当時の記憶を呼び起こして描かれた絵画は、皿の模様に至るまで忠実に再現されており、その緻密さに驚かされてしまう。18歳頃から、これまで描きためた枚数は1000枚以上にものぼり、処分したものはないという。当時のメニューが無くなったり、お店が閉店したもの沢山あり小林さんの絵は、ある意味で当時の食文化を伝える貴重な資料とも言える。中には、弁当に付いていた香辛料など「現物」がそのまま貼り付けられた絵や、食材の名前や値段が「?」になった絵も。

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 それ、期限切れてるから食べらんないですよ(笑)。このワサビとかは、家にあるのをかけたりして、食べなかったんですね。あと、値段が分かんなかったら「?円」とかにしちゃいますよ。食材が分かんないこともあります。特に、ほうれん草や葉っぱ物は分かんないときありますね。山菜とかも何が入ってるのか分からない。「山菜」って書いてあるだけでねぇ。「ゼンマイ」とか書いてあれば書きますけど。

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 それにしても、なぜ「絵画」なのだろうか。外出先でもどこでも食べた物を、iPhone片手に写真に撮って済ませてしまう僕からすると不思議で仕方がなかった。

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 当時は携帯無かったですし、食事の写真撮るのは恥ずかしかったですね。以前は、「写ルンです」を買って写真で済ませてた時代もありました。しばらくは写真に撮って溜めてたんですけど、やっぱり現像するのにお金かかっちゃうでしょ。デジタルカメラも操作分かんなくて、いまだに携帯も持ってないぐらいなんで、遅れ過ぎてるっていうか、それでも生活できちゃってますけどね。友達も居ないし暇だったから、ちょこちょこっとメモするとか「美味しかった」って店の名前とか描いていたんです。あと、例えば「わかめうどん」とか、中に椎茸が入ってるやつがあるんですよ。ほら、写真で撮ると椎茸が隠れて見えないでしょ。自分は絵を描くときに、椎茸を移動しちゃえばいいんですよ。そうすれば全部の食材が見えるからね。

 そういう理由で、小林さんの絵は全て真上から見た構図で描かれていた。それは、単なるデザインではなく、「全ての食材を描く」ために編み出した技法だったのだ。そして和食や中華など多彩なジャンルの食事の絵が多いが、きちんと値段まで記されている。

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 おふくろが料理あんまり作れないし、お蕎麦屋さんの出前持ちしてた20歳の頃から三食昼寝付きだったんで、結局おふくろの飯はその頃から食べてなくて、自分で料理もしないですね。だから、ここにあるのは、自分で食べに行ってた頃のものです。値段まで書いてるのは自分の趣味ですよ。そうそう、知り合いがいる山梨には、家族でもよく食べに行ってましたね、高校三年生の時からマイカー持ってましたから。酒や煙草なんかも、早くから「男の子の通る道」を通ってきてますからね。それは捕まっちゃうんであんまり言わないようにして下さい、元気な頃の時代ですから。「時効です」って勝手に決めたりして(笑)。煙草は今でも吸ってます。

 お母さんの案内で2階の寝室も見せていただいた。戸棚の中には、若い頃に浅草で購入した食品サンプルやプラモデルが埃をかぶっている。そして、ベッド脇の大きな段ボールには、ハガキサイズの沢山のファイルの束が投げ込まれていた。

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 あの段ボールに入っていたのは、病院に勤めてた頃のまかない飯を描いたものです。早番・日勤・遅番と勤務によって違うんですが、お昼は絶対食べてましたから。ハガキサイズのメモ帳がちょうどあったんで、毎晩家に帰ってから、自分が食べた昼ご飯をメモして、それを暇な時に清書してました。当時は、友達と一緒に飲みに行ったり一人でスナックを飲み歩いたりしてましたね。スナックは近くにもあるし、電車やバスで松戸・金町・綾瀬まで行ったりね。親父も酒が強かったから一緒に飲みに行ったら「いいねぇ、親子で」なんてよく言われましたよ。酒好きだから、こんな体になってしまったんですけど。ちょっと度が過ぎたっていうか。

 小林さんの絵には、生ビールや焼酎などのアルコール類もよく登場する。やはりお酒は相当好きなようで、病院で働いていた頃、飲みすぎて膵臓を壊し何回か入院したこともあったそうだ。これまで日々の食事を楽しみながら、調理師として順調な人生を歩んでいた小林さんだが、そのお酒が原因で46歳のとき、転機が訪れる。

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 病院の食堂を辞めて1ヶ月後に車を運転してたら、目がショボショボして、おかしくなったりフラフラしたり。病院行ってなんだかんだ言ってるうちに、車椅子になっちゃったんですよ。今度はもっと危なくなって、お袋と兄貴も来てくれたんですけど、1ヶ月の間で「もう危ない」って先生に言われたとか。そのうち、ろれつも回らなくなってきて「お前、何言ってるか全然分かんなかったぞ」って後から兄貴に言われました。

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 その時は本当に記憶が無くなったみたいになって、浦島太郎状態だったんです。アルコール性神経炎っていう、アルコールの取りすぎによる神経の炎症だと言われたけど。ここまでひどくするぐらいですから相当飲んでましたね。結婚もしてなかったから良かったっていうか、好きなことばっかりやってたんで。だから、病気になって7年ぐらい働いてないんです。親父も10年くらい前に亡くなって、今は81歳のおふくろに世話になってる状態です。 

 生死の境をさまよいながら奇跡的に一命を取り留めた小林さんだったが、歩行障害が残ってしまう。

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 病気をしてから足が2本ともね。脳梗塞みたいなもんです。しばらく病院でお世話になって退院して、ずっとこの状態です。最初は車椅子でトイレ行ってて、それから歩行器になって、やっと杖になったのが今の状態なんです。杖をついてどうにか外には出られます。ただ距離は歩けない。だから、生活は本当に不便ですよ。こんな体にしたのは自分ですから自分で後悔してるんですけど。しかも、入院してる時に血糖値が高いことが分かって糖尿病にもなったんです。結局足が動かないから、糖尿病もひどくなるんですよね。いまは月に一度水曜日に通院して、お薬貰ってインスリンも打ってます。先生からは「死ぬまでお付き合いする病気だ」って言われますが、正直に言うと今もお酒を断ててなくって、トイレの中とかで飲んじゃってます(笑)。

 話を伺っている中で、ずっと小林さんはその場を離れようとしなかったが、「動かなかった」のではなく「動けなかった」のだ。

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 出かけられないんで、朝から寝るまでここにいます。疲れたら寝ればいいし、お尻が痛かったら姿勢を変えればいいしで。間に、ご飯食べたりテレビ見たりしてるだけで、たまに外に出るってこともなくって、ここに座ったっきりです。2階の寝室へは、前はおしりで登ってたんですけど、今はやっと階段の一段一段なら手で登れるようになったんです。8か月くらいは入院してて、退院後もベッドと車いす借りて、しばらくは寝てる状態だったんです。ベッドを返してからやることなくてね。病院へのリハビリは、3か月くらいで辞めちゃいました。本当は続けなきゃいけないんですけどね(笑)。だから家で寝てるかテレビ観てるかになっちゃって、一日何しようかってね。

 絶望的な状況に置かれながら、再び小林さんはペンを握り始めた。外出が難しいため、食事のバリエーションこそ少ないものの、現在は出前や母親に買ってきて貰ったコンビニ弁当のイラストを中心に絵を描いている。

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 いまは外に食べに行くのはできないんで。朝は食べないんですけど、昼と夜は出前とったり、おふくろには悪いけど「今日は麺類買ってきて、今日はお弁当買ってきて」ってリクエストしたりしてます。まぁ、「違うの買ってきて」っていっても、人が食ってるの分かんないから、同じ物になっちゃうことはありますけどね(笑)。だから、それをメモって描いてます。いまになって初めて、手元で食材を見ながらメモを描くようになりましたね(笑)。

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 以前は訪問リハビリの人も来てたんですけど、お風呂もなんとか自分で入れるようになったから、もう辞めちゃったんですよ。いまは訪問介護員(ヘルパー)さんが毎週火曜日に来てくれるだけ。その時に、画材をどうにか一緒に買いに行ってます。さすがに一人じゃ行けないんでね。油絵の具とかだったら無理ですけど、鉛筆とかマジックとかボールペンは、道路を渡ったホームセンターに売ってるんですよ。だから、訪問看護員さんとは買い物に行くか、散歩に行くか、お風呂に入れてもらうかですね。それでちょうど1時間くらい経っちゃうんで、ご飯食べに行ったりとかは無いです。

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 そりゃ、食べたい物はいっぱいありますねえ。今だって近所に、吉野家とかすき屋とかあるけど「そこの牛すき鍋630円を食べにいって描きたいな」ってのはありますけど。車いす、歩行器を経てやっと杖になったのに、その杖を外すまでがいかないんですよ。杖のままだと危なくてね。車椅子に戻りはしないとは思うんですけど、また痛みはじめると怖いですからね。

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 小林さんが自分の周りに置いてある絵を見せてくれた。A4サイズの紙に描かれた作品は、全て体が悪くなってから描いたものだという。よく見ると、添えられた感想は「美味しいかった」「旨い」というポジティブものばかり。

 あんまり読まないでよ。小学校低学年の漢字、間違えてますから(笑)。昔から美味しくないものでも「美味しかった」って書いてます。誰に見せるわけでもないけど、後から見たときに「あぁ、美味しかったんだな」って思えば忘れちゃうじゃないですか。「まぁ、美味しかったんだからいいや」ってね。ただ「固い」「柔らかい」とか「火が通ってねえ」みたいなのは書きますけど。

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 まぁ、自分の好きな物しか食べてないから、病院の先生には怒られちゃってます。麺類が好きなんですけど、和食レストランの「とんでん」とか、ファミリーレストランに行くと色んなもん食べたくはなりますけどね。嫌いなのは、納豆やとろろですね。無理して食べて、やっぱり「美味しかったです」って書きます。とろろや納豆もちゃんと描いてますもん。まぜまぜ丼に、少し納豆入ってるんですけど、それぐらいは食べられるから。

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 でもねぇ、いままでラーメンだったら「醤油ラーメン」しか食べなかったんです。こういう体になって初めて「色々食べてみよう」と思って、「塩ラーメン」「味噌ラーメン」とかこれまで避けてたのも食べるようになりましたよ。まぁ、その方が絵のバリエーションも広がりますしね。

 近年は、家で過ごす時間のほとんどを制作に費やしている。絵のために、さまざまな種類の食べ物を意識して食べるなど、いまの小林さんの中心にあるのは、まさに絵を描くという行為だ。中には未完成のまま色付けされていない絵もあり、「次々と食べてるし、描きたいものが出てきてきちゃうんです」とのこと。そして、作品も少しずつ進化しているようだ。

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 これは最近描いている、箸で持ったり手で持ったりするシリーズですね。手は適当に想像して描いてます。だから、絵は同じかもしれないですけど、工夫してますよ。訪問介護員さんがお土産に買ってきてくれた駅弁なども描いてて、蓋が開くのもあります。この間、埼玉会館に展示して頂いてるのを見に行ったんですけど、蓋したまま額に入れられてたんで、どうやってめくるのかなって思ったんです。そしたら「ぼくシュウマイ弁当でシュウマイが見えないんです」ってことになっちゃってたな(笑)。あとは、カレンダーの後ろとかを取っといて、すぐに描けるようにお皿だけの型紙とかを作っておくんです。容器の柄まで描き出したのは最近ですね。返す前に、メモを描いとくんですよ。

 食事が好きで、調理師として働いてきた小林さんにとって、大好きな食事を自由に食べることができないという現実は想像しがたいものがある。自宅でベッドから起き上がったとき、当初食べ物の写真を撮っていた小林さんだったが、ある時から再びペンを握り始めたという。

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 いまの小林さんを支えているのは、絵を描くということだ。携帯やデジタルカメラを持っていない、そもそも機械音痴だったことに加えて、これまで描きためてきた膨大な量のドローイングが彼の制作を後押ししたのかもしれない。描き続けることで小林さんは冷静さを保っているようにも思えた。食べた物は今日も小林さんの中でじっくり噛み砕かれ、絵画として消化されてゆく。

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 「彼に食べられる食事は幸せだろうな」――そんなことを想いながら、僕は埼玉をあとにした。


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<初出> ROADSIDERS' weekly 2015年6月24日 Vol.169 櫛野展正連載






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