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コリオリの力

 羊水に浸っていたのは自分ではなかったか、と思うことがある。

 その日、東の海上から張り出した1018ミリバールの移動性高気圧が日本列島全体を包み込み、朝鮮半島の北西では低気圧が発達しつつあった。東高西低。「鯨の尾」と呼ばれる典型的な夏型の気圧配置だ。張り出した高気圧の等圧線は、たしかに鯨の尾びれに見えなくもない。

 フェーン現象。うだるような暑さという慣用句があるが、実際はフェーン現象が起こると湿度は下がる。
 その日の朝、測候所にはパレードの控え室のような緊張感が漂っていた。
 ここ数日の気圧配置から、今日、この夏の最高気温を更新することは、ほぼ確実だった。所員は本庁や観測点との連絡、メディアや市民からの問い合わせに振り回されることになるだろう。しかし、その忙しさを厭う者などいない。私もその中のひとりだった。読点のように丘の中腹に張り付く小さな測候所にも、年に数度、感嘆符は書き込まれる。14時、予想通り高崎と熊谷で最高気温が塗り替えられた。

 倉庫の内線電話が鳴る。予備の「流速計」を整備していた私は、潤滑油で黒ずんだ手をウエスでぬぐい、受話器に手を伸ばす。ダイヤルのない黒電話は、反駁を許さない厳格な裁判官を連想させた。   
「吉田さんに、ご家族からです」
 妻からだった。彼女は、小さくしゃくりあげるとひと言「ごめんなさい」と呟いた。死産だった。心臓を背後から、研ぎすまされたアイスピックでひと突きされた気がした。膝から下、感覚が抜けた。自分が地震計の記録用紙を取り替えている間にセロファンのような命は、世界を1ミリも震わせることなく消え去ったのだ。
 妻も私も次に紡ぐべき言葉を持ちあわせていなかった。沈黙が去るとやがて静謐が支配した。沈黙にはなにかが充填されている。しかし、静謐にはそれがない。
 自分が世界から切り離された気がした。友人からも、思い出からも、時からも。ありとあらゆるものから隔離されて、ただひとつの薄幸で貧弱な、ユークリッド幾何学にならうなら、位置を持ち部分を持たない点Aとして「ここ」に存在している。
 電話を切ったあともしばらく作業を続けた。流速計のアルミニウムの尾翼をいつもよりていねいに磨く。こいつはいつの日か、紺碧の空の下で、旺盛な息吹きをまとった風をこの翼に受け止めるのだ。悠然と。果敢に。そして、あたりを睥睨(へいげい)し、風がやってくる基点、つまりは世界の始まりを真っ直ぐに指し示す。その勇姿を、私は目を細め誇らしげに仰ぎ見ることだろう。
 不意に涙が溢れ出す。嗚咽が漏れそうになった。奥歯を食いしばる。死産に関して涙を流したのは、この時が最初で、そして最後だった。
 所長に事情を告げるとサドルに跨った。測候所から市民病院までは、約20分。飛ばすと10分とかからない。自転車のペダルを踏みながら、私は「見出し」を考えていた。新聞は「測候所職員Y氏の第一子死産」。週刊誌なら「死産だった!? 本誌独占Y氏単独インタビュー」。もちろん、一介の公務員の不幸などマスコミネタになるはずがない。自分でもなぜそんなことを考えているのか滑稽だった。
 踏み切りを渡り路地に入る。街路樹の小枝が肩先をかすめる。私が切り離された点ならば、妻も孤独な点なのだ。座標面の点と点は、最短距離で結ばれなければならない。たとえユークリッド幾何学がなんと云おうとも。
 ペダルに体重をのせる。自転車の影は、力強いコントラストをアスファルトに転写し、並走する刻印になる。停車していた軽トラックから甲子園のサイレンが聞こえた。カーラジオから流れるサイレンは、はるか遠い昔に鳴らされたかと錯覚するほど弱々しく、瞬く間に蝉の声にかき消されていった。

 あの日からどのくらいの月日が流れたのだろう。気象庁は気圧の単位をミリバールからヘクトパスカルに変更し、いくつもの測候所が閉鎖された。自分は閉所とともに仕事を辞め、人生にピリオドをひとつ付け加えた。
 退職後のあてなどなかった。プールの飛び込み板のようなものだ。ただ、きっかけが欲しかっただけなのかもしれない。風をはらんで、しゅるしゅると世界の基点を指し示していたあの流速計とともに私も消える。流速計には「伴走者」がいて、はじめて流速計となりうるのだ。

 コットンパンツのポケットから四つに折りたたんだメモ用紙を取り出し、バス停のベンチに腰を下ろした。メモを見ながら買い物袋の中身を確認する。高野豆腐、文鳥の餌、レンコン、合い挽き400グラム、シロップ(イチゴ)、大葉、オソウメン。必要な品数はすべて「1」なのに、それぞれに一箱、一袋、一本と書かれている。妻らしいな、と思った。
 ふいに視界の片隅でなにかが動いた。アキアカネだった。
 アキアカネは、一般には赤トンボと呼ばれている。盛夏を山あいで過ごし、晩夏から初秋に里に降りてくる。私は時期が少し早いなと感じた。観測員は、動植物にも詳しいのが常だ。自然に傅(かしず)くこと。それが私たちの習わしだったから。
 アキアカネは歩道のマンホールの上を、指揮者のタクトの軌跡を描いて飛んだ。マンホールには、午前中に降った通り雨の水がたまっていた。水面と呼ぶには狭すぎて、水深と呼ぶには浅すぎる。ガソリンが浮かんでいる。首を少し傾けると七色の油膜がゆらゆらと揺れた。
 水溜りの上には、人の目には見えない気流の層があるのかもしれない。その間隙(かんげき)を縫うように、アキアカネは小さな矢となって上昇と下降を繰り返す。やがて、なにかを決心したかのように急降下すると、卵管を水面に浸した。何度も何度も水面に尾を接触させるその姿は、敬虔な巡礼者の祈りのようだ。卵管が触れるたびに、水面には小さく、そして緩慢な波紋が広がった。
 マンホールの水はやがて蒸発するだろう。そして卵は孵化しない。ただそれだけだ。「そういう」事実がぽつりとあるだけだ。善悪もなければ虚実もない、優劣も階級も具象も抽象も、形而上も形而下も躊躇も憐憫も、そこに入り込む「余地」などない。そう、あるのは自然だけなのだ。それ以外は「あってはならない」。
 気圧計のついた腕時計を見た。1014ミリバール。あの日と同じだ。風が通り抜ける。声に出して言う。
「南東からの風、風力2ないしは3、雲量3」
 私は歩き出した。大腿四頭筋の力で。海へ向って。強い風が吹いてくる方へ。コリオリの力へと。路線バスが傍らを通り過ぎ、小さな陽炎を作り走り去った。 

(2012.05 記  photo:草野庸子)

かまーん!