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幼少期の事①小学校まで

氷河期世代は概ね団塊ジュニア世代と被る。
もちろん人により親の子を持った時期の早い、遅いや氷河期世代の中での生まれの早い、遅いにより例外はあるが、おおむね団塊世代の子供が団塊ジュニア=氷河期世代といって良い。
私の親もまさに団塊世代。
私の場合は当時にしたらだいぶ遅めの結婚・出産だったようで親は団塊世代最初期、私は氷河期末期といったイメージである。

私の小学校までの記憶はとても曖昧である。
個人差はあるにせよ、この時期までの実際の自分の体験として明らかに覚えていると言える記憶は、母親の保育園の送り迎えのママチャリで、足を自転車のスポークに挟まれとても痛くて泣いていたシチュエーションで、内容は分からないが母親に怒鳴りつけられている場面位だ。

そう、私の親は優しい母親などと言うにはほど遠い人格の者であった。

父親はと言えば、当時すでに離婚していたそうで、一切記憶にはない。いわゆる母子家庭、今どきで言うシンママの下で育っていた。

記憶はそれくらいの事しか覚えていないのだが、確かな記録や大人になってからの話等々から組み立てると、
まず当時住んでいた家から保育園まではかなり急な勾配の坂道を含む約2㎞程度の道のりであった。
これを毎日母親は仕事をしながら自転車で送り迎えしていたのだ。

大変であったのは今ではわかる。
しかし子供にはそんなことは関係ないわけで、足をスポークに挟んだ我が子を怒鳴りつける母親などと言うのは今でも嫌悪感を抱かざるを得ない。
(母親と書いているが父親でもこの点は同様である。ただ私の実体験をもとにした文章であるから、母親の事として記述している。)

家は母親の実家で祖母と祖父、母親、私の4人で住んでいた。住所は東京都から始まるとはいえ景色はド田舎そのものというべき山奥で今となっては大した価値は無いが、敷地面積は100坪を超える家だった。

祖母は士族系の旧華族の家系で異常にプライドが高く、祖父は祖母よりは出自の身分は低いのであろうが、士族の家系ではあった様だ。
祖父の印象は私には正直ほとんど残っていない。小学校のころに死ぬのだが、その時涙が出た記憶は残っているので、恐らく4人家族の中では私は一番祖父が好ましく思っていたのだろう。
そう、印象が残っていない祖父が一番好ましかったと思われる程度には、祖母と母には良い思い出が無いのである。
と言っても、母の事も祖母の事も、この当時は大好きであったはずだ。嫌いになるのは祖母は小学生のころ、母については中学生のころだったはずなので、まだこの時期は好いていたはずである。

子供にとって親というのはよほどの事でなければ好かなければならない、生命にかかわる絶対的な存在なのであろう。

つまるところ私の幼少時代は、母子家庭で母方の祖父母と同居。
資産は当時すでにまともなものは無かったが、プライドと、古びた家と土地の広さだけは一流の中途半端な田舎で、やさしさを欠いた母親に怒られながら育ったという事である。

一口に氷河期世代と言ってももちろん人それぞれ、おかれた環境は様々であろう。
だが今と違うのは、子供は殴られて、怒られて当然という社会であった。
体罰の是非はさておき、今ではほぼ全面的に否定されている体罰が現に世の中に普通の事として存在する時代。

そう、氷河期世代はこの後降りかかる悲惨な人生の前哨戦として既に、現在までに廃れた様々な旧弊・悪性をその身に受けるほぼ最後の世代でもあったのである。

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