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人間の特徴量としての「好き」


「得意なことを好きになる」の合理性とリスク

 人は自分が得意なことを好きになりがちだ。それは得意なことの方が成功体験を積みやすいからだろう。成功体験はその対象に対する熱に直結する。

 そしてその熱に従うことは社会の中では往々にして合理的でもある。元からできることをしていた方が失敗は少ないし、そもそも社会的な生き物である人間が経験するところの成功体験とは、究極的には個人の利益と集団の利益の一致のことだ。個人の利益が集団の利益と一致したとき、その行為には社会的な価値が生まれ、人はそこに自身の存在意義を見出すことができる。

 しかし、その「好き」は本物だろうか?それを好きでいた方が都合が良いので好きになるというのは、ただのご都合主義の合理化ではないだろうか?もちろん本人が好きだと言うものを外野が否定するのはお門違いも甚だしい。せっかく好きでいるんだから、それが本物だ偽物だと論ずるのには実りがないと思われるかもしれない。

 だが、得意だからという理由だけに起因する「好き」には明確な欠点があると僕は思う。その欠点とは環境の変化に対する脆弱性だ。

「好き」は自分が決められるが「得意」は周りに規定される

 僕は「好き」とは本来は理由が説明できない主観的なものだと思う。それに対して「得意」とは自分が周囲に比べて優れているというだけの客観的な性質だと思う。前者は主観的であるが故に絶対的であり、後者は客観的だが相対的な性質だと言える。

 「得意だから好き」という場合の「好き」はその根拠を周囲に求めている点において「根拠のない好き」とは質的な相異がある。これによって浮き彫りになる「得意だから好き」の脆弱な点は所属している集団が変わり、自分が対象を得意でなくなってしまった時に、同時にそれが好きでも無くなってしまう可能性があるという点だ。

 「得意だから好き」は本来個人に依拠していて揺るがないはずの「好き」という性質を他者に規定させてしまうことで、それを個性とは呼べない何かにしてしまっているように思う。それは挫折の可能性を産み、さらには自分の好きに責任を持たなくて良いような逃げ道を与えてしまっているような気がするのだがどうだろう?翻って「主観的な好き」は個人を特徴付ける性質であり、合理的でないかわりに人生に一貫性を与えてくれるような気がするのだがどうだろう?

「得意」を無視して「好き」を追求するという奇行

 ここまで論じたように、「得意」を無視して「好き」を追求するという合理性を欠いた奇行は、しかし人にしなやかさと筋の通った魅力を与えてくれる行為でもある。この奇行に名前を付けるなら「努力」こそ相応しいと僕は思う。


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