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【連載小説】フェアーグラウンド・アトラクション(1)

 一希の言うことをあまり鵜呑みにするべきではないというのを私は知っていた。そもそも一希自身が自分の言いたいことを自分でもよく理解していなかったかもしれない。一希はどんなことにも迷っていた。選択肢すら与えられていないのに、自ら進んで無数の選択肢を増やし続けていることに一希は気づいていなかった。例えばそれは、たまに出る彼の唇の細かな震えや、弛緩する声色、とびとびに繰り出される言葉の連関のなさに表れた。つまり一希は、小さな言動に自分を縛りつけたがる人だった。
 なので、一希を知るためには、一応、、一希の身体性にも言及しておく必要がある。彼の体躯はほっそりしている。髪の毛は細く柔らかいのに、髪全体は毛量が多くて、少し野暮ったい。彼の声はよく通る声をしているが、勝気さよりも臆病さが勝る不思議な声だ。指の節々はゴツゴツしていて、手の表面は滑らかで透き通っているように見える。彼の瞳は、手前で親密さを感じるものの、奥の方では他者との隔たりを暗に湛えている。そんな彼は、私と話している時、上手く物事を説明できたかと思えば、私の前で黙り込み、遠くを見る眼で、眼の前にいる私を眼差すことが多々あった。それでも私が彼と眼が合うと、しばしば彼は即座に目線を外し、沈黙を引き延ばそうとした。そういう時、彼の目線は決まって私の胸元辺りに目線を送られるので、私は多少の気まずさを感じざるを得ない。それから少し経つと、彼は私の話を突然遮って、全く違う話を矢継ぎ早に繰り出す。全てをひっくるめると、彼の主張は彼の尻込みの表れ、というのが私の目下の結論である。一方で、私が一希の近くにいる人たちから耳にしていたのは、彼は「興味深い人間」ではあるけど、「人から非難や賞賛を積極的に引き出せるような魅力がある」わけではなく、「心と体が色々な方向につぎはぎされた印象を与える」といったものだった。世界からの離脱を試みるオマージュとしての一希。「優しい美男子」という声も私の友達から多数あったが、私から見れば彼は、自分に対しても、私やそれ以外の人に対しても、優しさの一部分すら垣間見せることがなかった。私としては、「現代社会の孤独に立ち向かおうとしないのに、自分の孤独だけは頑なに守ろうとしている」が、彼という人間を一番的確に表現している感想だと思う。というのも彼は表面上の人間関係にはとにかく疎いからで、かと言って彼には、個人性を超えた他者への/からの信頼や友情を求めている様子も見受けられなかった。私はそんな彼を間近で見ていて、切なさを感じる時があった。しかしそれは私の問題でも、彼の問題でもなかった。それは私が、人間に必然的に埋め込まれている、罪はないが致命的な傷口を、彼という存在を通して認識していることの証左だった。
 形のない生命の欠片を、強く、それも意図的に強く握りしめているくせに、一希が生き残りを賭けて戦った世界は一体どこにあるのか。私にも、誰にも分からない。

         *** 

 一希が、「なまこが怖い」と唐突に言い出したことがある。私が一希と、大学から帰る電車に乗っていた時のことだ。たしか、平日の昼間だったはずだ。池袋から新宿方面に走る電車の車内は、乗客はまばらで、とても静かだったから、彼の特徴でもある、あの小動物的な高い声が、「なまこが怖い」の短文と一緒に辺りに響いた。目の前の座席に座っていた女性がこちらを見上げているのを無視して、彼は話し始めた。
「よく子供の頃、家族と沖縄へ旅行に行ってたんだよ。夏のとても暑い日。日本中がたくさんの移動を開始する、あの夏休みさ。飛行機で沖縄まで飛んで、空港でレンタカーを借りるんだ。家族みんなでいっぱいのリュックを背負って、僕は薄紫色のバケットハット、お姉ちゃんがカンカン帽を被ってた。お父さんがサングラスをかけて運転して、お母さんがお父さんの冗談に笑って、僕もお姉ちゃんもお母さんにつられて笑う。車内にはサザン・オールスターズが延々とかかっている。今考えれば、最高の夏休みだったよ。だって、ほら、少し大人になったら、そういう家族の時間ってなかなかとれなくなるじゃん」
「そうだね」私は一希の方を見て、頷いた。
「あの時、流れていたサザンの曲を今でもよく聴いてる。聴くと必ず、国道の真横に広がる、沖縄のおっきくて真っ青な海を思い出すんだ。同時に、家族と過ごしたしあわせな時間もね。大体毎回、沖縄に行ったら、行き先は決まってて、ハブ園とか、アジア一大きな水族館とか、海鮮市場とか。僕にとったらどこも、楽しい遊園地みたいなもんだった。特に、ハブ園はすごかったよ。僕もお姉ちゃんも、でっかい蛇を頭と体にグルグル巻きにして巻いて、お母さんとお父さんに写真を撮ってもらってた。そのせいか知らないけど、今でも全く蛇が怖くないんだ。蛇は畏怖の対象だってよく言われているけど、僕は彼らに友情の念しか湧かない。いつだって、僕の近くにいてくれる生き物って思うし、彼らの方もそんな風に僕のことを思ってくれてるんじゃないかな。水族館もすごかったね。マグロの大群が泳ぐ水槽を、毎回僕は飽きもせずにずっと眺めてたらしい」

(続く)

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