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12月30日 銀座線は「地下鉄の父」と「強盗慶太」の合作

今日は何の日?をビジネス視点で掘り下げ「頭の体操ネタ」にしています。
今日の「頭の体操」用質問例はこちら。

→日本はイノベーションが弱いと言われるが、明治から昭和初期の日本は「アニマルスピリット」が旺盛であることが窺えるエピソードに事欠かない。同じ日本でなぜこれだけの違いがあるのだろうか?


1927(昭和2)年のこの日、上野~浅草に日本初の地下鉄(現在の東京地下鉄銀座線)が開通した「地下鉄記念日」です。

日本で最初の地下鉄である、銀座線。この成り立ちは、当時の鉄道という最先端の産業をめぐる弱肉強食といっても良い資本主義の当時の厳しさを垣間見ることができる物語でもあります。

登場人物は二人。早川徳次五島慶太です。

まず、早川徳次。彼は日本で初めての地下鉄を作った人物です。
早稲田大学卒業後、南満州鉄道に入社後鉄道院に転職。その後、東武鉄道の社長である根津嘉一郎に見出され活躍します。そして大正3年に欧州訪問の際、イギリス、ロンドンの地下鉄に感銘を受け、日本でも必要だと考えるようになります。

東京の地盤が軟弱であること、事業性などに不安を示され、私営での建設を決断するものの、資金調達に苦労します。彼は、地層を調査したり、交通量調査を行ったりして技術的にも事業的にも問題がないことを示し、免許を取得、建設を始めます。途中関東大震災に遭うなど大変な苦労をし、開業に漕ぎ着けました。

一方の五島慶太。こちらは東急の生みの親ということで早川より遥かに有名でしょう。数々の伝説(?)がありますが、ここでは、地下鉄に関わるところだけお伝えします。

彼は渋谷に東横百貨店を開業します。ところが当時の渋谷はまだまだ田舎。なんとか一等地に進出したい。そこで、三越の乗っ取りを狙います。それに三井、三菱という財閥が対抗し、資金源を絶たれます。

その後、彼が狙ったのが早川が率いる地下鉄だったのです。渋谷から新橋まで地下鉄を作り、早川の作った浅草から新橋の地下鉄と接続することで都心への足掛かりとすることを狙ったのです。

五島は渋谷から新橋への地下鉄の工事を進める一方で、地下鉄株の過半数を買い占め、早川を追い出してしまいます。

流石に強引なやり方に世間から批判が起こり、「強盗慶太」とあだ名する者もありました。

このように、今の銀座線は浅草から新橋までを早川が、渋谷から新橋までを五島がそれぞれ作ったものなのです。

なお、両者が鍔迫り合いをしている間に五島の路線が新橋まで開通しますが、早川が接続を拒否したため、一度降りて地上に出て乗り換える必要があったそうです。今でも昔の新橋駅が残されているそうです。

いかがでしょう?
当時の方が今より資本主義がむき出しだったことが窺えます。

なお、銀座線の成り立ちには、今の「メトロ」と「都営」の二つが分かれてしまった理由にも繋がる経緯があります。そこについては以下が分かりやすいかと思いますのでご紹介します。ご興味があれば。


また、五島慶太については、こちらをご紹介します。


→明治、大正、昭和初期の日本、今に比べてアグレッシブに思えるエピソードが多く見られる。また、今回取り上げた二人ともがいわゆる官僚から民間に転じ、多くの仕事をしています。これにはどのような時代背景があったのだろうか?


最後までお読みいただきありがとうございます。
過去の投稿は以下にまとめていますので頭の体操ネタに覗いていただければ幸いです。




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