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十:『月見酒』

 満月は夜は、あの日のことを思い出す。どんなに美しくても、あのときの月には及ばない。次にあの月が現れるのは──。


 大きめのキャンバスに、黄色い絵具を何度も重ねていく。油絵具独特のぼこっとした質感が、立体感を作り上げていく。
 時折り吹き抜ける風により、周りの木々の枝が揺れ合う音を作り出し、鈴のような──スズムシではなく、シャンシャンという鳴き声だった──虫が四方から音色を奏でている。それぞれの音はごく小さいものだろうが、重なれば騒音だ。それでも不快でなく、逆に静かだと感じるのは、自然が作り出すものだからだろう。
 その中に、別の人工的な音が混じり、集中していた意識が途切れる。コツ、コツという靴の音。それは玄関先で止まった。ノックが2回。
 少しだけ違和感を感じたが、ドア越しから「しん太郎」と、俺の名を呼ぶ声がし、約束の相手だと確信する。
 玄関のドアを開けると、黒い和服姿をした幼馴染の宇佐木うさぎ月光げっこうが立っていた。彼は俺の顔を見て軽く微笑んだ。元々妙に整った顔立ちをしているのだが、月明かりによる軒の影がかかり、より一層怪しげな美しさをかもし出していた。
 俺は月光を家にあげ、庭先のテラスに案内した。
 先ほど感じた違和感の正体は結局分からず、些細なことだろうと、すでに俺の思考からは消えていた。

「随分早かったな」
「……仕事が早く片付いたんだ。まずかったか?」
「構わない。絵を描いていただけだ」
「何の絵を描いていたんだ?」
「月の絵だ。今日の満月は、どこか不思議な感じがしてな」
「ほう」月光はキャンバスを覗き込こんだ。「流石だな。あの、あれだ。月が平べったくないところがいいと思う。うん」
「無理に褒めなくていい」
「いや、上手いとは思っているぞ」
 月光は誤魔化すように笑いながら、周りの景色を見渡した。
「本当に何もないな。やはりこういう辺鄙へんぴなところの方が仕事が捗るのか?」
「そうだな。都会は煩いし、人が多い。一見何もなさそうだが、ここには都会にないものがある」そう言って、虫の音に耳を傾けた。
「ここまで来なくちゃいけない編集担当は大変だな」
「このアトリエの場所は教えてない。邪魔されたくないからな」
「……担当は大変だ」月光はため息をついた後、俺の顔を見た。「俺は来て良かったのか?」
「お前とは長い付き合いじゃないか」
「…………」
「どうした?」
「いや、何でもない。……あれだな。まったく連絡が取れなくなったら、ここでのたれ死んでいるから見に来い、ということだな」
「縁起でもないこと言うな、あほ」
 悪態をついたが、確かにそうかもしれない。もういい歳だし、そういうことも可能性としてあるだろう。

 俺は一度室内に戻り、台所から清酒と透明なグラスを二人分お盆に乗せ、テーブルに置いた。
 月光はすでに椅子に座り、足を組んで月を眺めている。俺も席に着き、清酒の栓を開ける。
「このアトリエに来るのは、創る最後の段階になってからだ。それ以外は都内で作業している。
 小説とか戯曲とか、モノ書きに関しては、どうしても人との関わりが必要だ。そうしないと、リアリティが損なわれるし、アイデアも出てこない」
「こういう静かな場所でじっと考えていた方が、閃きが降りてきそうだが」
「それはごく稀だ。閃きとかインスピレーションといったものは、経験とか知識とか、そういったところから紐づいて、段々と姿を現すものだ。まぁ、天才ってやつは違うんだろうが」
「『佐藤幸一郎は天才作家』。世間ではそんな評価だったはずだが?」
「そう思われているのはありがたいことかもしれんな」
 思わず乾いた笑いが出た。実際は天才なんてレッテルを貼られるような人間ではない。作品を評価されるのは純粋に喜ばしいことだが。
 しかし、月光にペンネームで呼ばれると変な感覚だ。
「必要なのは経験と知識なんだ。俺は出来る限り、直接聞いたり体験したいね。面白そうな話があったらすぐに教えてくれ」
「好奇心は身を滅ぼすぞ」
「流石に、本当にやばいことには手を出さないさ」
「ふーん……」

 俺は話しながら、透明な清酒が入ったグラスを、額より少し上くらいに掲げた。空に浮かぶ月に、グラスがちょうど重なるように。
「それは……」
「これか?『月見酒』を作っている」
「……」
「月がグラスの中に入っているようだろ?」
 グラスの中の小さい月は、透明な清酒によって、ぐにゃりと歪み、ゆらゆらと揺れている。
「それ、誰から聞いた?」月光は目を細めた。
「俺が考えたんだが?」
「嘘つけ」
「何で分かるんだよ……さぁな、忘れた。居酒屋で飲んでいた時に、隣にいたやつに聞いたんだったかな。あまり覚えていない」
「そいつ、他に何か言ってなかったか?」
「これを飲むと、千年生きることができるらしい」
 重陽の節句の時に飲む菊酒みたいな、一種の願掛けみたいなものだろう。
「お前は、それをやるのか?」
「なんだよ。面白くないか?」
「よく考えないで試すと、いつか痛い目に会うぞ」
「そんな大袈裟なことじゃないだろう」
 グラスを月にかざしているだけの、風情があるただの遊びだ。
 しかし月光は少し顔をしかめている。
「……でも」月光は少し考えた後、顰めっ面を取り除き、にやっと笑った。「いいよ。付き合ってあげる」
 月光も俺と同じように、酒が入ったグラスを空に掲げた。
 またどこか、違和感がした。

 月見酒を作りはじめてから、月光は一言も話さなくなった。ただ黙って、掲げたグラスをじっと見つめていている。どこか圧迫した空気が漂っており、俺も言葉を発せないでいた。
 沈黙が続く。辺りの虫と、枝の音が、いつも以上に騒がしい。
 耐えきれず、俺が先に沈黙を破る。「そろそろ出来たか?」
「いや、まだだ」月光はこちらを見ずに答えた。
「そうか……」
 本当に月を酒に熟成させているようだ。
 “洒落じみたことを本気でやる”。こういうのは嫌いじゃない。この沈黙も、風情がある落ち着ついた空間だ。──いつもならば。
 何故だか、月光の雰囲気が、いつもと違う気がしてならない。

「なあ、どのくらいやればいいんだ?」
「もうちょっと」
「ほお!本格的だな!」
 少し揶揄い混じりに、大袈裟に答えるが、月光からの反応はない。
「なあ」
「月見酒を作るんだろう?」月光は一瞬だけ、俺の方をチラリと見た。「もう少し入れていないと、月は完全に溶け込まないぜ」
 そして再び黙りこんで、グラスを見続けていた。
 妙な緊張感が漂う。本当に『月見酒』なんてものがあるかと錯覚を起こしそうになる。
 俺は緊張を打ち消すよう、時折小さく笑いながら、同じように月にグラスをかざし続ける。身体が強張っているのは、きっと腕が疲れてきているからだ。

「これを飲んだら、どうなるんだっけ?」長い沈黙を破って、ようやく月光の方から口を開いた。
「あ、ああ……千年生きられるって聞いたぞ」
「違う」
「え?」
「これを飲んだら。千年死ねない」
「変わらないだろ?」
「いや、全然違う」
「死にたくなっても、死ねなくなってしまうって意味か?」
「それも違う。この酒は、すごく旨いんだ。でも、最初の一口だけ」
 月光は小さく舌を出し、上唇を少しだけ舐めた。
「これはものすごく旨い。この世のものとは思えないくらい。そしてもう一度飲みたくなる。気が狂ってしまうほど。それしか考えられなくなる」
「そうなのか」
「これは千年に一度の、この満月でしか作れない。だから千年、“死ねない”んだ」
 グラスを見つめる彼の横顔から、目が離せなくなっていた。
 「もう一度飲みたくて、飲みたくて。それでも千年経たないと、同じ味は作れない。
 だけど、この酒自体に不老長寿の効力はない。だから何としても千年生きる方法を。生きながらえる方法を続けるしかなくなるんだ」
 俺は黙ったまま、その真剣な横顔を見る。改めて見ると、顔立ちが良いだけでなく、自分よりずっと、ずっと若く見えた。
「今宵の月は毒を流す」月光は俺の顔を覗き込み、そして囁いた。「それでも、君は飲むのかい?」

「出来た」月光は掲げていたグラスを手元に降ろした。「そっちの酒も。さあ、どうする?」
 俺はごくり、と生唾を飲み込んだ。痺れかけていた腕をゆっくりと下ろし、グラスを手元へやる。
「……仮に」自身の発した声は少し震えていた。「仮に本当だったとして、千年生きる方法って、そんなのないだろ……」
 月光は何も答えず、じっとこちらを見た。
 そんな空想じみた話、嘘に決まっている。だが、何故か手が動かない。
 月が溶けているという、そのグラスの中の酒を、俺は飲めずに見つめていた。
 月光がじっと、俺を覗き込む。そして耳元で囁いた。
「やめておけ。君が思っている以上に、恐ろしい」
 酷く低い声だった。
 虫の鳴き声がより一層大きく響き渡った。全ての音を奪っていくように。風はいつのまにか止んでいた。
 
「ふ、あっはははは!」
 俺の盛大な笑い声に、月光はきょとんとした顔をする。
 俺ははぁ、と息を吐いて、溜まっていた緊張を外に出した。思い切って盛大に笑い、無理やり緊張を解いてやったのだ。
「何、急に」
「お前なかなか演技派だな。ちょっとびびったぞ」
 すっかり緊張が解けた俺が笑いを抑えられないでいると、月光は眉を顰めた。
「……ふーん。信じないんだ」
「そりゃそうだろ。途中まじかもしれないと思ったけどな」
「じゃあ、君は飲むのかな?」
「飲むね」
「千年、あの味が恋しくてたまらなくなるのに?」
「そんな味なら、尚更飲んでみたいね」
「長いよ、千年は。君が考えているより、ずっとね……」
 月光は自分が持っていたグラスの中身を地面に捨てて、空いた方の手を俺に伸ばす。
「ほら、そのグラス、僕に渡しなよ」
「嫌だね。これは俺が作ったんだから俺が飲む」
 まだ言うのかと呆れながら、俺はグラスを自分の口に持ってゆく。
「もう一度だけ言うよ。……やめておけ」

 先ほどまで止んでいた夜風が、急に強く吹き抜け、頬を冷やす。
 雲が月を隠し、月明かりが消え、俺たちは影に包まれた。
 俺はふと、先ほどから感じている、妙な違和感を思い出す。
 『僕』、『君』。それに話し方。いつもの月光とはまるで違う。
 それに、そうだ、最初の違和感。月光はいつも、決まってノックを3回する。
 隣を見ると、にやにやと奇妙な笑みを浮かべている男。月光と同じ顔。でも、違う。
 ──こいつは、誰だ。

「君は、の友人だというから、2回も止めてあげたのに。
 僕は一言でも、嘘だなんて言ってやしないよ。言っただろう? 好奇心は身を滅ぼすって」
 気がついた時はもう、口の中には酒の味が広がっていた。この味は──。

「あーあ。これで千年、死ねないね」

 玄関の方からドアを激しく叩く音がした。ドア越しに、俺の名前を叫ぶ声が聞こえる。
「おや、君の幼馴染とやらが来たようだ」
 そう言いながら、そいつは玄関へと向かった。
 本物の月光が来ている。聞かないと。そいつは何者なんだって。

 そんなこと、もうどうでもいい。それよりも、さっきの酒を、もっと飲みたい。
 俺はグラスの酒を、もう一度口に含んだ。
 これはただの清酒だ。これじゃない。これはさっきの味じゃあない。もう一度、あの味の酒が飲みたい。
 ──『最初の一口だけ』
 そうだ、あの味はもう、ここにはない。あの味を、あの月見酒を、もう一度飲むために。
 千年生きないと。千年死なないようにしないと。どうすればいい。教えてくれ。

 そのためなら、
 なんだってするから──。

『月見酒』終。


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