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昔ロカビリー今リハビリー

 「昔はロカビリーで頑張ってました。今はリハビリを頑張ってます」ーこのジョークをしばしば飛ばしているの歌手の尾藤イサオさん。
 いつもにこやかで楽しく周りの人たちを喜ばせている尾藤さん。
 しかし、ひとたびステージに立てば、日本を代表するボーカリストとして70年にわたりショービジネスの世界で活躍してきた顔となる。
 代表作に「悲しき願い」「あしたのジョー」「涙のギター」「マック・ザ・ナイフ」などがある。

 
尾藤イサオ「あしたのジョー」ー作詞は寺山修司


 また尾藤さんは1966(昭和41)年にビートルズが日本武道館でコンサートをした時に前座を務めたことがある。
 俳優としても活躍しており、テレビでその顔を観た人も少なくないだろう。現在、ライブ活動を続けており、その歌声には衰えはみられない。
 尾藤さんはエルビス・プレスリーの大ファンとして知られる。

初めて聞いたエルビスの衝撃
 そのきっかけは、芸事の師匠の家のそばのそば屋からエルビスの「ハートブレイクホテル」が流れてきたことだ。尾藤さんは「フリーズしてしまった」という。「何だ、これは!」。店内に入るとお金をとられるので外で聞いていた。12歳あるいは13歳の時だった。
 10歳から16歳まで、尾藤さんは師匠の家に奉公に出た。食事や学校の授業料を出してもらい、裕福でなかった尾藤家にとっては大助かりだった。
 当時、曲芸は着物でやるものだったが、尾藤さんは細いマンボズボンにGパンといういで立ちで「ロカビリー曲芸」と称していた。Gパンは上野アメ横で100円くらいで買ってきたという。師匠は何も言わなかった。
 「監獄ロック」などをBGMに曲芸をやっていた。
 1959(昭和34)年7月から60(昭和35)年4月までアメリカに行った。「Japanese spectacular」と銘打ち、4人の曲芸グループとしてマンボやR&Bを向こうのジャズバンドをバックにやったりしていた。

ダイナ・ショア・ショーに出演
 その頃、「東のエド・サリバン・ショー、西のダイナ・ショア・ショー」といわれていた西にほう、ダイナ・ショア・ショーに出演した。59年12月24日に放送される回の収録だった。
 第一次安保の時期で安保反対運動が高まる中、アイゼンハワー米大統領の訪日が中止になる事態が起きていた。そんな折に米国に行く尾藤さんたちだったが、呼び屋のアイデアで、日本人が多いカナダのウィリーベイという場所ならば反日感情が薄いだろうと、そこにまず赴いた。
 しばらくすると、呼び屋はいろいろな芸を地元のテレビ局に「ばら売り」した。師匠は老人ホームに慰問、三味線は三味線で、日舞は日舞でと言った具合だった。師匠はおカネに困っていたが、尾藤さんは一日50セントのおこづかいをもらっていたという。
 ウィリーベイの宿舎は師匠だけがホテルで、尾藤さんたちは普通の家にお邪魔していた。「よくいえばホームステイ」だったと尾藤さんはいう。
 興行師は移動サーカスで売り込んで、普通のナイトクラブに出られるようになったのはようやく秋になってからだった。
 慰問でメンフィスに行った時にはエルビスの家に行った。
 テレビ局で5人編成のバンドがいて、尾藤さんが「プレスリーが好きだ」というと、向こうは「何か歌え」となって、何曲か歌ったこともあった。
 ビートルズを初めて見たのは家の小さなテレビで白黒のニュース映像でだった。ヘアスタイルもマッシュルーム。衣装も襟なしスーツ。「エルビスのロックに比べて、ボンボン」という印象を受けたという。

ビートルズと同じステージに立つ
 1966(昭和41)年5月、日劇ウエスタン・カーニバルの最中、東芝レコードの人から「6月にビートルズが来るので前座で出てくれないか」と言われた。日本武道館が舞台となるが、当時武道館は出来てから2年くらい。ビートルズに批判的な人は「あんな乞食みたいなのは夢の島でやらせればいい」なんて言っていたくらいだった。
 日劇の収容人員が3000人なのに対して、武道館は1万人。ブルーコメッツの井上大輔さんが作った「ウエルカム・ビートルズ」を歌っている途中でビートルズの一人一人の名前を呼ぶと、キャーッってなった。尾藤さんは思ったー「一万人の声ってすごい」と。

日本武道館


 尾藤さんは内田裕也さんと一緒にステージの下でビートルズのステージを観た。ジョージ・ハリスンが手を振ってくれたという。
 「生で聞いたらこれがかっこいいんだな。出てきて、後ろ向いて、チューニングして、手を上げるだけでキャーってなった。一曲目が「ロックン・ロール・ミュージック」だった」。
 「初めはおかっぱで、不良的なかっこよさがないと思っていたけど、実際に見るとすごいと思った。ステージを観て印象が変わった」。
 尾藤さんはクリフ・リチャードの「ダイナマイト」も前座で歌った。
 尾藤さんは裕也さんと相談してビートルズに何かおみやげを贈ろうということになった。「銀座にJUNという店があって、ぼくはいつもそこで衣装を買っていた。裕也さんのアイデアで、昼夜の公演の間に二人でJUNに行って、Lサイズのストライプ・シャツを4枚買ってきた」。
 「帰って、ビートルズのローディに「プレゼントをしたい」というと「カモン」と手招きする。上にあったビートルズの楽屋に行こうとすると、楽屋の直前で共同企画のマネージャーが「何だ。お前ら。警備をこれだけ厳重にしているのにお前たちだけ何だ」となって、裕也さんとそのマネージャーが取っ組み合いになった。結局、ローディにプレゼントは託した」。
 「ビートルズが凄かったのは、自分たちで作詞、作曲をして歌う。すごい強みだった」と尾藤さんは振り返った。
 
  

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