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教育の逆コース:前川喜平

 戦前、皇民化教育を推進した教育勅語体制というのがあった。教育勅語とは近代日本の教育の基本方針として明治天皇が1890年に下されたものである。その天皇の勅語を頂いた国民教育の体制であった。
 そんな教育勅語なんて今やアナクロだと思われる方もいるかもしれない。しかし、そんなことはない。2017年に第二次安倍晋三内閣は教育勅語を今日の学校で教材として使うことを是認する閣議決定を行った。
 「憲法や教育基本法等に反しないような形で教育に関する勅語を教材として用いることまでは否定されることではないと考えている」。
 2014年には下村博文文部科学大臣(当時)が参議院文教科学委員会で次のように述べていた。「教育勅語の中身そのものについては今日でも通用する普遍的なものがあるわけでございまして、この点に着目して学校で教材として使う、教育勅語そのものではなくて、その中の中身ですね、それは差支えないことであるというふうに思います」。


 前川喜平(まえかわ・きへい)元文部科学省事務次官は「教育基本法と日本の教育」と題して、2023年6月8日(木)に「スペースたんぽぽ」(東京都千代田区神田三崎町3-1-1)で講演会を開いた。

前川喜平さん


 講演のサブタイトルは「子どものための教育からお国のための教育へ」。前川さんは今日の教育の状況を「まさにその通り」と言って、話をスタートさせた。「日本国憲法と1947年教育基本法は一体のものでした。教育基本法は準憲法的な性格だった。しかし、私が文科省に入った時、それをいずれ変えなければいけないと思っている人が多かった」。
 1947年教育基本法は前文にその精神がはっきりと表れていたと前川さんは説明する。「民主的な国、文化的な国家、そしてその中には非軍事的国家という意味合いも入っていましたが、それを作ろうということでした。日本だけでなくグローバルな視野も含まれていました」。
 「そのためには教育がしっかりしていないと実現しないということだったのです。戦前・戦中の教育に戻ってはならない。国のために死ぬ奴隷的精神を復活させてはいけない。一番大切にすべきは個人の尊厳であるとしたのです。一人一人の人間こそがかけがえのない存在だと」。
 それに対して、日本の「伝統と文化」、例えば家父長制などにこそ普遍的なものがあるというような人たちもいた。その代表的な人物が、1982年から87年まで総理大臣を務めた中曽根康弘氏だった。スローガンは「戦後政治の総決算」で、その中には教育も含まれていた。

ゴリゴリの国体思想を持つ中曽根
 中曽根首相は直属の「臨時教育審議会」を立ち上げて、国の教育の理念そのものを変えてしまおうとしたのです、と前川さんはいう。「それには自主憲法制定のための地ならしという意味合いもありました。教育基本法の改正なら単純な多数決でいける。そのあとが(多数決だけでは決められない)憲法改正だと思っていたのです」。
 彼らが信奉する国体思想には3つの側面があるという。前川さんによると、「神話的価値観」「道徳的家族観」「家族国家観」である。まず神話的価値観について、前川さんは「日本は神話の国だとする選民思想。日本民族が一番優秀だとして、他の民族を差別する根拠となっていました」という。
 道徳的家族観については「忠と孝。日本という大きな家があって、そのお父さんが天皇だという考え方です。国家の単位は家であるというのです」と前川さんは語った。続けて家族国家観だが「血縁共同体を重視します。血がつながらないものはどこまでいっても他人であると」。
 「これは移民国家では通用しません。出自の違う人たちが集まっているからです。日本はこれから外国人をもっと入れていこうとしているのに、家族国家観、血縁重視を抜けきることが出来ない。だから、入管(出入国在留管理庁)は人を人と思わないようなことが出来るのでしょう」。


 中曽根首相は「ゴリゴリの国体思想」を持っていたと前川さんは見ている。中曽根さんは憲法も教育基本法も「日本解体の一つの政策の所産だと見ています・・・日本民族の歴史や伝統、文化、あるいは家族には言及せず、国家、あるいは共同体に正面から向き合っていない」と。
 「「蒸留水みたいな人間をつくれ」ということであって、立派な魂や背骨をもった日本人を育てようということではないのです」と中曽根さんは自著「二十一世紀日本の国家戦略」に書いていた。
 その中曽根さんはまずは教育基本法の改正を目指した。臨時教育審議会で検討した。そこでは教育自由化の議論と国体の議論がぶつかりあった。
 当時、教育改革には3つの視点があったー「個性重視の原則」「生涯学習体系への移行」「変化への対応」。臨教審での議論が重ねられたが、同法の改正には至らなかった。中曽根さんの思うようにはいかなかった。


 前川さんにいわせると、教育の右傾化の転回点は1997年だった。その年に、「日本会議」が出来た。「新しい歴史教科書をつくる会」が発足した。「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が作られた。
 「従軍慰安婦について記述された中学校の教科書が使われ始めたのが97年でした。右派の政治家たちは強く反発しました。知識人たちも動きました。反動の時期に入った年となったのです。第2の逆コースです」。
 第1の逆コースとは、敗戦後、米国は日本から軍備を取り上げて非武装でいかせようとしたが、1950年に勃発した朝鮮戦争によって、その方針を放棄し、逆に日本に再軍備させることになった、それを指す。
 99年に総理になった森喜朗さんは「教育改革国民会議」を立ち上げた。森さんは中曽根内閣で文部大臣を務めていた。2000年12月に出た同会議の報告では、教育基本法を変えるべきだとされた。だが、森さんの後を継いだ小泉純一郎さんは「教育に関心がなかった」(前川さん)。
 小泉内閣の官房副長官だった安倍晋三さんが総理の座についた後、中央教育審議会に教育改革を諮問した。国体思想を復活させようという狙いだったがそれは出来なかった。自公政権の公明党がブレーキ役となった。前川さんは振り返った。「山下栄一さんという公明党の議員がいましたが、この人がいてくれたおかげでブレーキがかかったと思っています」。

国が作って上から押しつける道徳
 前川さんは言った。「右派の人たちの考える道徳というのは国が作って国民に上から押しつけるものなのです。公共の精神というのも、自立した個人が集まって作りあげているのが公共だと思うのですが・・・」。
 だが、2006年、ついに教育基本法は改正された。その2条では国家主義・全体主義的な教育目標が設定された。「道徳心を培う」「公共の精神に基づき社会の発展に寄与する態度を養う」「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養う」。
 学校規律が6条2項で強調された。「教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずることを重視する」。
 そのうえ、家庭教育に対する義務づけ規定(10条1項)も。「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身につけさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする」。
 政治の教育への支配の強化(16条)も。「教育は、不当な支配に屈することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」。


 前川さんは言う。「憲法では、国というのは主権者である国民があくまでも作り上げていくもので、具合が悪ければ作り直せばいいとなっているのです。しかし、国が伝統と文化によってつくられてきたとするならば、国は変えられない。国と郷土、そこに家族。教育勅語が復活してきたのです」。
 教育勅語の復活について、前川さんは「神社本庁が中心にいる。かつての生長の家のように新宗教も背後にいる。統一教会も勝共連合を通じて自民党と密接な関係。教育の右傾化を狙ってきた政治家たちもいます」という。
 第2次安倍内閣で教育勅語が復活し、「普遍的内容があるので」学校での教材として使うことに道が開かれた。安倍さんと下村さんが肩入れしていた学校法人森友学園は教育勅語を道徳の教科書に使おうとしていたのだ。結果は皆が知っての通りとなった。


 
 

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