見出し画像

1923年虐殺の根っこ

 1923年9月1日に発生した関東大震災。その後、流言飛語が飛んだことなどから朝鮮人、中国人らが虐殺された。その数は数千人にのぼったといわれる。日本人によるそのような殺戮がどうして起きたのか。その根っこを長いスパンで振り返りつつ、一橋大学名誉教授の田中宏さんが探った。
 2018年8月、国連・人種差別撤廃委員会で日本の大鷹正人国連大使は「99年前、パリ講和会議で、日本も積極的に参加する形で国際社会と人種差別との闘いが始まりました」と胸を張った。
 そう、第一次大戦後終結のためのパリ講和会議において牧野伸顕は、人種や国籍の如何に関わらずすべての国家の人民に対して法律上または事実上の差別を禁ずる条項を国際連盟規約に盛り込むように提言したのである。
 なぜ、このような時期に日本は戦勝国として参加したパリ講和会議において人種差別撤廃を訴えたのだろうか?
 日本アジア関係史を専門とする田中先生は説明した「昔、日本は貧しくて多くの人口を抱えていました。国策として海外に人間を送り込み、台湾と朝鮮を植民地として、そこへは自由に行けました。しかし、アメリカに行くとなると、そこは白人の国なのでアジア人である日本人は差別冷遇される」。
 「貧しい国の政府として、海外で暮らしている移民を助けるために海外にメッセージを送れば助かるだろうと考えたのです」と田中先生は2023年7月19日(水)に「スペースたんぽぽ」(東京都千代田区神田三崎町3-1-1高橋センタービル1F)で行われた講演会で語った。

 田中宏先生


 しかし、この国際連盟における人種差別撤廃の提案は受け入れられなかった。1919年のことだった。ちなみにこの年は日本の植民地になっていた朝鮮での3・1独立運動、中国(中華民国)におけるベルサイユ条約を不服とすることから起こった5・4抗日運動が起こっている。
 関東大震災が起こったのは、それから4年後のことだ。9月1日に巨大地震が関東地方を襲った。その直後から朝鮮人が「放火をした」とか「井戸に毒を入れている」といった流言蜚語が飛び交い、日本人自警団などが朝鮮人や中国人を虐殺するという事件が多数起こったのである。
 この問題について永井柳太郎議員(三木武夫内閣=74年12月成立=で文部大臣を務めた永井道雄氏の父親)は「震災直後発生したる不祥事は、流言蜚語であるが如く言うて居られます・・・若し、流言蜚語に出たものでありまするならば、其流言蜚語を取り締まるべき所の、政府自ら出した所の其流言蜚語に対して、政府は責任を感じないのか」と政府に詰め寄った。
 それに対して山本権兵衛総理は、「政府は起こりました事柄について目下取調進行中でござります」として、もし分かることがあれば報告すると述べていた。しかし、その後100年間、ほとんど議論がなされたことがない。

山本権兵衛総理


 この問題については、戦後8件の「質問主意書」と「答弁書」がある。一番最近の2022年12月6日に杉尾秀哉参議院議員が提出した主意書に対する岸田文雄首相の答弁書は「調査した限りでは、政府部内にそれらの事実関係を把握することのできる記録が見当たらないことから、お尋ねの見解についてお答えすることは困難である」だった。
 いつもこうした判で押したような答弁である。
 話は戻る。第二次大戦中の1943年に日本は東京で「大東亜会議」を開いた。11月6日に出された「大東亜共同宣言」は「大東亜各国は、大東亜を米英の桎梏(しっこく)より解放して、その自存自衛を全うし・・・大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し・・・」としていた。
 田中先生は「戦況が不利になる中、日本は43年9月にビルマを、43年10月にはフィリピンを独立許与し、アジアの主として日本が打って出たのが大東亜会議の背景である」と話した。
 連合国は、その日本の「道義的挑戦」に対抗して、「大東亜共同宣言」の盲点ともいうべき台湾、朝鮮の日本帝国からの解放を「カイロ宣言」(1943年11月27日)に盛り込んだのである。
 「満洲、台湾・・・を中華民国に返還すること、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする」とされたのだ。
 このカイロ宣言の条項は履行されるべきだと、日本が受託した「ポツダム宣言」の第8項に明記されていた。ここが「日本の戦争が終わった時に一番重要なポイントになるところです」と田中先生はいう。
 台湾は日清戦争によって日本の植民地となったのだが、第二次大戦の敗戦によって日本は手放すことになった。しかし、「あまりそういう経緯の認識はないんだと思います」と田中先生は語った。
 だが、中国では違う。周恩来総理は1972年9月25日、田中角栄首相の歓迎宴での挨拶でこう述べた、「1894年から半世紀にわたって、日本軍国主義者の中国侵略により、中国人民は極めてひどい災難を被り・・・」と。1894年とは何か。そう、日清戦争が起きた年である。


 この認識の違い、とりわけ台湾の扱いについてうたわれたカイロ宣言を反映したポツダム宣言についての日本側の理解不足が、現在、台湾をめぐって日中関係が不安定であるその根底にはあるのではないだろうか。
 2022年3月の韓国の大統領選挙で尹錫悦(ユン・ソクヨル)氏が当選し新大統領となった。「日韓新時代などと騒いでいるが、それならちゃんとやれといいたい」と田中先生は言う。1998年に金大中大統領が来日して小渕恵三首相との間で結ばれた「日韓パートナーシップ宣言」、そして翌年の小渕首相の訪韓で、地方参政権付与が日韓両政府の共通課題となった。


 さらには自民党、自由党、公明党の「三党連立政権合意書」(99年10月4日)で永住外国人地方選挙権付与について、法案をあらためて三党において議員提案して成立させるとしたのである。「しかし、途中でバックラッシュになってしまう」(田中先生)。98年以降、度々法案が提出されてきたが成立に至らず。2009年以降にいたっては法案の提出すらない。
 韓国では2005年に選挙法改正がなされ翌年実施された。その結果、在韓日本人は衆参両院選挙は在韓日本大使館で投票、地方選挙は韓国の居住地で投票できるようになった。すでに5回投票している。
 一方、在日韓国人は大統領・国会議員選挙は在日韓国公館で投票、地方選挙は日本では不可で、今だに出来ない。日韓は「非対称」のままだ。
 国連の人種差別撤廃委員会は2018年に「日本に数世代にわたり居住する在日コリアンが地方選挙において選挙権が認められるよう確保すること」と「総括所見」において述べていた。
 参加者からの意見で、外国人の処遇については、相手が認めるならこちらも認めるとの相互主義が合理的ではないかとの発言があった。
 田中先生はこうした問題については、「基本的に相互主義というのが合理的だとは思います・・・参政権の問題について、韓国では日本がやらないなら相互主義にしたらいいといった声が出始めているらしい。韓国の日本人に地方選挙での投票を認めないという声があるようです」と話した。
 また「中国は長い間、日本人はノービザで中国に行けたが、中国人は日本に来るビザを要求されていた。最近、それを相互主義にしようとの動きがあるようだ」と田中先生は付け加えた。


  
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?