スマホを忘れて

 スマートフォンを忘れた。そんな日に限って人身事故が起こる。
 偶然か必然かはどうでもいい。ただ、俺がそう感じているだけだ。


 失意の自殺だろうか。不運な事故だろうか。どちらであれば、まだしも救いがあるのだろうか。そんなことを考えながら、急遽降ろされた見も知らぬ駅のホームで独り途方にくれている。電車は「運転を見合わせており復旧のめどが立っていない」から、目的地にたどり着くために俺は別の経路を検索しなければならない。ところが困った。スマホがない。

 腕を拱いてその場に立ち尽くす。幸いなことに、時間はたっぷり余裕があった。三十分でも一時間でもこの場で待っていれば、いずれ電車は動き出すだろう。ゲームでもしていればすぐに時間は潰れるし、何なら恐らく誰一人事故の被害者を悼まず自分の都合ばかり考えて狂乱しているこの様を皮肉る投稿をしたっていい。ところが困った。スマホがない。

 ひとまず改札を出る。タクシーに乗れば自分で経路を考える必要はないし、カフェにでも入って座ることさえできれば、退屈をしのぐために出来ることはある。だが、タクシー乗り場は長蛇の列で最寄りのマクドナルドは大混雑。皆同じことを考えているらしい。地図を見ながら近くの別の駅まで歩くしかないと決意する。ところが困った。スマホがない。

 もう一度駅に戻ってくる。駅員に現況と見通しを問うてみると、反対方向の電車ならもうじき運転を再開するらしい。三つか四つほど駅を戻れば、目的地方向へ向かう路線へ乗り継ぎが出来るという。廻り道になるが致し方あるまい。十分時間に余裕はあるはずだが、念のため現在時間とスケジュールを確認しておこうか。ところが困った。スマホがない。

 なんとか目的地付近の駅までたどり着く。構内の時計で時間を確認してみると、まだ少しだけ余裕があったから、本屋に立ち寄り新刊の漫画を数冊買う。店員の姿が見当たらないので、「すいません」と声をかける。「おまたせしました」と少女が駆け寄ってきて、こちらを見てにっこりと微笑む。廻り道をして疲弊している精神に、その笑顔が眩しかった。


 いや、そんな次元ではない。あまりにも可愛い。なんだこれは。

 打算も忌憚も邪心も愛想も微塵も感じられない。なんだこれは。

 笑顔になるために生まれてきたとしか思えない。なんだこれは。

 この笑顔を表現する術をもたない己が恨めしい。なんだこれは。


 圧倒的な笑顔力を前にして俺はただただ幸福になる。人身事故のことなどもう忘れている。俺は今日、この笑顔に会うために遠回りをしたのだ。そうとしか考えられない。今すぐこの新鮮な喜びを誰かに伝えたい。世界中にこの笑顔の使者のことを伝えたい。軟派な人間のふりをして、今すぐ彼女の連絡先を聞き出したい。ところが困った。スマホがない。


 スマートフォンを忘れた。そんな日に限って天使に遭遇する。
 偶然か必然かはどうでもいい。ただ、俺がそう感じているだけだ。  

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