『子宮に沈める』『冷たい熱帯魚』を観て

はじめに


 先日の春休みの読書感想文に引き続き、この記事では春休みのうちに観た映画の感想文を書いてみたい。というのもこの春休みは本を読むだけでなく、水星の魔女を観るためにアマプラに入り直し、そのついでにフォロワーから募ったおすすめの映画を履修する期間でもあったからだ。そちらの感想文も近いうちにまとめておきたい。今回の記事で取り上げるのは以下の二本。いずれも前々から気になっていた作品である。
緒方貴臣『子宮に沈める』2013年
園子温『冷たい熱帯魚』2010年
 これらの作品の主題のうち、筆者の目を最もよく引きつけたのはやはり「女」であった。以下ではそれぞれの作品における「女」を概観し考察してみたい。また筆者は映画をあまり見ないたちで、考察の進め方や視点に不備・不徹底な部分が多分にあると思われるが、どうかご容赦いただきたい。
※以下両作品のそれなりに仔細なネタバレを含みます。



『子宮に沈める』における女


 『子宮に沈める』は2010年に発生した大阪二児餓死事件を元に構成された映画である。筆者の記憶では同じ事件に取材した漫画のネット広告をしばしば見かけたことがある。「幼子が空腹に耐えかねて空のマヨネーズ容器を吸う」と言えば思い当たる人も多いのではないだろうか。
 実際の事件の情報はwikipediaやネット新聞等に詳しい記載があるためそちらに譲り、ここでは作中の人物模様について見ていきたい。若くして結婚・出産を経験し幸(さち)と蒼空(そら)の二人の子を育てる専業主婦の由希子は、愛人の存在を匂わせる夫に一方的に離婚を突き付けられシングルマザーとなる。学歴も職歴も持たない由希子は長時間の労働と並行して医療資格の勉強をし、母子三人での生活を独力で成り立たせていくことに。仕事と育児に忙殺されながらも専業主婦時代と変わらない「よい母親」であり続けようとする由希子であったが、高校時代の友人の言葉から稼ぎのよいナイトワークを始める。

 夜の仕事を始めたことで新たな恋人を得た由希子であったが、部屋は雑然とし、子どもたちは「パパがいい」と懐かず、また恋人にも次第に邪険にされるようになっていく。そのような日々が続いたある日、由希子は子どもたちに大盛りの炒飯ひとつを作ると、「仕事に行く」とだけ言い残し、居間の戸を粘着テープで封鎖してアパートを去る。
 それから何十日かが経過したまたある日、由希子はアパートに戻ってくる。由希子は餓死した蒼空の遺体からウジを取り除いて処理し、「ママ、ママ」とすがりつく幸を浴槽で溺死させ、二人分の遺体を食卓に座らせる。ごみだらけだった部屋を片付け、窓からはゆるやかな午後の風が吹くなか、由希子は主婦時代から編んでいた毛糸のマフラーに繋がったかぎ針を自身の秘部に突き立てマスターベーションに耽る。やがて由希子は絶頂を迎えてシャワーを浴びるが、その秘部からは血が流れだし、自分のやったことを思い出したかのように怯えた目で震える。しばらくして浴室から出た由希子は子どもの遺体をレジャーシートで包み、窓の外を茫然と見つめるのであった。


ラストシーン・「地続き」であること


 この映画の大部分は二人の子どもが母の帰りを待つ姿をこちらが「覗き見る」映像で占められており、見る者がどうにかして生きようとしながら衰弱していく子どもを前に何の手出しもできない「不快」に心を不断にひっかかれることは言うまでもない。しかしここでは、我々が由希子=母親に向ける視点の方に注目したい。
 この映画を観る中で(もしくは実際の事件について見る中で)我々は二人の子どもを餓死させた「母親」を理解不能なもの・あるいは自分と地続きではあるけれども、地続きではないものとして対象化し、この物語の発するむごたらしさを「鬼母の過ちあるいは母子を孤立させた社会の過ちにより、二人も子どもが死んだ」というきわめて理性的な原因譚として整理してしまうだろう。しかし筆者には、こうした認識を否定し、「この物語は行政の対応がどうこう近所づきあいがどうこう実家義実家の対応がどうこう……の意味ではなく、より根源的なところで我々に地続きである」と認識させるのが上述したラストシーンであると思われてならない。

 部屋と子どもを片付けて椅子に身体を預ける母親の「疲れ」は、映画全体を通して横たわる人間の「疲れ」──家庭を捨てた夫の疲れ、いい母親たらんとする由希子の疲れ、子どもが寝ている横でなりふり構わず由希子の身体を貪る恋人の疲れ──と、むごい映像を何十分も見せられた我々自身の疲れをとおして我々に接近する。さらにその疲れが、たとえば由希子がワッと泣き出すようなシーンで発散される──つまり、母親の母性と結びつけられて神格化されることはない。あくまで誰しもが感じたことのある薄暗い午後の空気の中で、理由も必然性もなくただ「なんとなく」湧くものでしかない性欲や、そこからゆるやかに気だるく生じるだけのマスターベーションの快楽といった誰もが知る質感と結びつくばかりなのである。
 実際にこのラストシーンは、他の読みを許さないレベルで露骨なモチーフ暗喩(幸が蒼空の遺体に粘土のケーキを供えてハッピーバースデーソングを歌うなど)が画面を覆いつくす本編とは対照的に、その必然性のなさ・結びつけられなさから見る者に多様な読みを許容しているように見える。例えば筆者がマスターベーションと取ったかぎ針挿入を堕胎行為と読む人もいるようである。

(ともかく自らの読みを支持するとして)こういうわけで筆者にとってこの作品における「女」とは、まったく根源的なところで我々と地続きなものであると言えるだろう。しかしここでの「地続き」とは、我々が自らのうちに取り込んですっかり理解したり、自分の都合の良いように改造・教育したりできることを意味しない。それは女を対象化しなければ不可能であるから、「地続き」とは反対のことだ。むしろ確かに地平を共有していながら(いるはずなのに)ふっと湧く性欲、なんとなく理由なしに感じる身体の痛みのように、どこまでも明晰には理解できない、理性的に認識できない、自己に還元できない他者性を持つことが、「地続き」ということであり、他者というものなのではないか。
 実際に緒方のインタビューを見ると、『子宮に沈める』とは、堕ちた母親の狂気というより社会によって子宮という母性に縛り付けられた母親のことを指している。由希子の子どもからの逃避は、母性のうちに「沈められた」女の他者性の最後の悲鳴ではないか。



『冷たい熱帯魚』における女


 以上のように述べ来たったが、そんな女の他者性がこれでもかというほど痛快に、カタルシスを伴って結実するのが『冷たい熱帯魚』である。
 小心者で小市民的、気弱でうだつの上がらない熱帯魚店経営者・社本(しゃもと)は、非行に走る娘の美津子と後妻(前妻は亡くなっている)の妙子の不和からくるストレスに悩む毎日を送っていた。親子三人仲睦まじく暮らす日々を夢見るものの、美津子は半グレのような彼氏とつるみ妙子はまともな食事を作らず、食卓には会話がなく、自身はトイレに駆け込んで嘔吐するばかり。
 ある日美津子が万引きをし、社本は妙子と共に謝罪をしに行くが、同じく熱帯魚店を経営するやり手の男・村田のおかげで難を逃れる。村田・その妻の愛子と社本一家は親交を深めていき、美津子が村田の店で働くことになり、妙子も生き生きとしはじめる。くすぶっていたわが子の自立に感動し前向きになる社本だったが、妙子が裏で村田と肉体関係を持っていることは知らないのであった。
 そんなある日社本は村田から特別な「ビジネス」があると呼び出されるが、村田と愛子が同様に呼び出されたヤクザを殺すのを目撃する。さらには山小屋で遺体の解体を手伝わされ、共犯者に仕立て上げられてしまう。村田は同様の手口で遺体なき殺人を繰り返す殺人犯だったのだ。途中で村田に狙いをつけていた警察と接触するも、娘が村田のもとにいる以上自分は家族を守らねばならない、と社本は村田に従い続ける。

 やがて三人目の遺体を遺棄する折、村田はそれまで見ているだけだった社本に解体した内臓を捨てさせる。そしてびくびくしている社本を村田は「美津子がぐれたのはお前のせいだ」「お前は一人で何かなしとげたことがあるのか」「俺はお前と違って……」等々と詰り、妙子を寝取った事実を明かして「俺を立って殺せ」「俺を親父だと思って殴ってこい」「小さい時の仕返しをしろ」とけしかけ、ついには自身の妻である愛子を抱かせようとする。
 ぷつんと糸の切れた社本は腰を振りながら愛子の首をペンで刺し、さらには村田をめった刺しにする。愛子に村田にとどめを刺すこと・村田の解体を命じた社本は美津子を店から強引に連れ帰り、妙子に食事の用意をさせ、彼氏が来たので食卓を後にしようとした美津子を殴り倒し、ついでに妙子も犯す。以前接触した警察を呼んで山小屋に戻った社本は愛子を殺し、刑事たちを小屋の中へ向かわせる。そして警察車両に同乗していた妙子を刺し殺すと、美津子の身体に刺し傷をつけながら「お前は生きたいのか」と問う社本。ついには「生きたいよ!」と叫ぶ美津子に、「人生ってのは痛いんだよ」と絶叫し自らの首を掻き切る。動かなくなった社本を前にした美津子は、笑いながら「やっとくたばりやがったな、クソジジイ」と社本の遺体を足蹴にするのであった。


愚かわいい男ふたり

 
 この物語に「女の他者性」を見出すならば、第一には主人公・社本の盲目さにおいてであろう。理想の家庭を夢想し、中盤からはこの手を血染めにしてでもパパがんばっちゃうぞ!な社本。しかし彼はほとんど、否全く妙子・美津子という女について盲目なのである。妙子が寝取られた事実を知らないでいたことはもとより、社本には美津子・妙子の不和の本質的な原因が──妻が死んで早々に後妻を迎えるという自身の判断が誤っていたことが──見えていない(はなから見えていないのだから、それを村田のように強引に正当化することもできない。)(妙子を連れてきたのはもしかすれば「子どもには母親がいないとよくない」という社本なりの気遣いだったのかもしれないが、それにしたって悪手も悪手であろう)。
 それにもかかわらず、否そのゆえに、妻が寝取られて(そのうえ行為に心から感じ入って)いることも、娘の態度が思春期特有のものとかではなく、自分を見ない父親を心底軽蔑していることも知らずに──二人という女が自己の理想を叶えてくれる、そんな二人を自分は心から「地続き」に愛していると信じて束の間の幸福に酔っている。まったく愚かわいい男である。
 
 そのような夢物語は村田の挑発によって終幕を余儀なくされるわけだが、村田とて超人ではない、という点がこの物語のミソであろう。劇中では村田の述回やめった刺しにされた際の「お父さんごめんなさい、もう許して」「お母さん早く止めて」といった言葉から、村田が幼時に山小屋で父親に虐待を受けていたことがほのめかされる(そしてその山小屋にはマリア像やら「死後さばきにあう」と書かれた看板がある……)。村田の暴力的なまでに父権的な言動、そして幾年も重ねた凶行は防衛機制でこそないだろうが、やはり村田自身を苦しめた暴力的な父権を断罪し、超克するためのものなのである。
 そんな村田の妻・愛子は文字通り村田の片腕として遺体の解体・遺棄を行ってきたわけだが、彼女とて「他者性」の埒内にある。最終盤、社本に首を刺された彼女は狂ったように笑い出し、虫の息の村田にとどめを刺すと、解体を命じる社本に甘い声で「うん……!」と答える(ここの黒沢あすかの演技が筆者は非常に好き)。鞍替えである。生前村田が愛子をどのように見ていたのかを直接知ることはできないが、社本というあらたな強者に阿る彼女の姿は、村田の眼にはきっと「止めてくれなかった」であろう母親のように映るのであろう。
 
 社本に話を戻そう。社本による村田殺しはかつて村田がなしたであろう「父殺し」に重なり、同時に盲目な自分自身を殺すこと──内的死あるいは「生まれ直し」にも相当するのであろう(実際に村田殺しのシーンで限界に達した社本は村田の前でさながら赤ん坊のように泣き叫ぶ)。生まれ変わった社本はその気勢をもって、新しく得た命をみすみす投げ出してでも、痛くても、美津子に最後の教育を施そうとしたのかもしれない。しかしその結末は、美津子という女からすればやはり「やっとくたばりやがったな、クソジジイ」なのである。 
 だが、最後の最後に美津子の発したこの言葉で評価がくるりと変わった。盲目な社本に、また聡明に見えるけれども根底では過去に縛られている村田によって最後の最後までないがしろにされ、反抗という消極的な形でしか表現されてこなかった彼女の他者性が、爆発的なカタルシスを伴って表面化したのである。

 なお筆者は、この美津子の言葉が「やっぱりこの現実に希望や理想なんてなかったんだよ……」というメッセージを帯びているとは考えない。というのも、先日の記事で書いた中年男や超官能主義者と同様に、社本や村田のあり方に共感する部分が筆者にはあったからだ。社本や村田がそうしたように、自分を苦しめてきたものに自分の理性上でカタをつけることは前に進んだ気になれるし、非常に気持ちの良いことである。しかし人間の理性はそこまで有能なものなのか?否。我々の理性は非常に独善的だ。自らの理想の殻に閉じこもり、他者の他者性をあっさりと無視してしまう。
 ゆえに美津子のこの言葉は筆者にとり、自分の盲目さに浸りつづけることを希望や理想を持つことと見間違うてしまう自らの理性を「で?(笑)」と一笑に付してくれる苦すぎる良薬なのである。


おわりに

 本記事では以上のように『子宮に沈める』『冷たい熱帯魚』の感想をつらつらと連ねた。両作品とも、カルト映画としての評判以上のよさがあり、筆者の感性に刺さって抜けそうにない。
 なお、ほとんど字数を割かなかったが、単なるスリラー・ホラー映画として見た場合の評価は分かれると思われる。筆者としては「想定よりはグロくなかった」というのが正直な感想だ。
 どちらの作品も面白いのでぜひご覧ください。

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