Pさんの目がテン! Vol.75 運命にアホみたいに翻弄される 横尾忠則『言葉を離れる』2(Pさん)

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ぼくの知らない無意識の領域でぼくの運命の計画が進行していたとしたら、運命ってなんとふざけた演出家なんだろうと勘繰ってしまいます。時間にすればこの五、六年間にぼくは一体何を決断したというのでしょうか。全くアホみたいに見事に他人のいいなりに徹してきたように思います。
(横尾忠則『言葉を離れる』、52ページ)

 これは大げさに言っていたり、エッセイとして成立させるためにスタイルを作っているとかいったことではなく、この前段の横尾忠則の自叙による、青年から成年へ到る半生に起こった出来事を眺めるに、じつに正直な感想なのだと思う。
 前回、この人はオカルト的思考に足を踏み入れている、といったことを書いたけれども、集団的に妥当視されている、オカルト好きの人達の世界観とは、どこか違った感じ方を、彼はしているように見える。
 代表として、人類の運命とされていた、ノストラダムスの大予言を挙げてみよう。人々は、来る一九九九年の、七の月、「恐怖の大王が降ってくる」、という予言があった。それまでの、過去の出来事を、ノストラダムスはいくつも予言し的中させていたことから、この「恐怖の大王」も、じっさいに降ってくるものだと、オカルト好きの人間、だけではなく一般のピープルにも信じる人が出始めた。
「恐怖の大王」って、今考えると、かなり面白いフレーズだ、と思うのは、僕だけだろうか。今、ウィキペディアの、ノストラダムスのページを見ながら、これを書いているのだが、まず、どんな名前を持っているにしろ、大王という、個人が、空から降ってくるわけである。それを象徴的解釈をして、人類滅亡だ、といったりするわけだけど、文字通りに取れば、「恐怖」という名前を持った大王が、降ってくる。雨と同じように。たぶん一人だ。「恐怖」という名前の人間は、そう多くはない、ほとんどいないだろう。
 その大王は、どんな顔付をしている人だろう。落ちている人だから、その人自身が、もしかしたら怖がっている人なのではないか? もしかして、落ちている最中に、自分で自分のことを命名したのではないか。
「うわ。落ちてる。めっちゃ怖い。これじゃまるで、自分、恐怖の大王だよ。よし、命名しよ」
 何千メートルの高さから地面に落ちて、尚生き延びていたとしたらだが、まあ状況から見て、たとえ見た目に何ともなかったとしても、善意の人が救急隊に連絡などして、搬送されるだろう。それで、こんな状況にもかかわらず軽症で済んだことに、いぶかるよりも、軽く恐怖しながら、とりあえず退院させる。そして、その落下地点から程近い役所に入り、何らかの手続きを経て、住民票を手に入れる。そのとき、名前の記入欄には、間違っても「恐怖の大王」などとは書かないだろう。それは、自分が自分に命名した、自分にしか通用しない名前だからだ。生まれもった実名を記入するのだろう、落下の衝撃で記憶を失っていなければだが。
 そうこうして、錆びた階段のある二階建て、計六室のアパートの二階を、かなり低い家賃で借りることのできたその人は、ガスの契約も無事に終え、次の日の晴れた朝、自分自身に向かって、カーテンを開けながら、こう言うのである。
「おはよう、恐怖の大王」
 それか、ネットゲームのハンドルネームででもなければ、こんな恥ずかしい名前の使い所はないはずである。
 そんな空想をした。(続く)

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