書いたことについて(Pさん)

 一昨日に、文学フリマ東京に出店する「崩れる本棚」の機関誌「崩れる本棚」に提出する原稿を書き上げた。
 本当は締め切りは先月末だった。
 主宰に泣きついて土下座をして指二本をけじめに切断する事によって事なきを得た。
 関係ないけれども「文学フリマ」がゲシュタルト崩壊を始めた。
「文学フリマ」というワードで検索を入れて、該当ページを眺めてみても、いまいち信用出来ない。
 あのイベントは、本当に「文学フリマ」なんという大袈裟な名前だったのか?
 文学?
 「文フリ」という略称に関しては、しっくりくる。「分不利」という誤変換を何度行ったかわからない。
 じゃあ、やはり「文学フリマ」という名前だったのか……。
 それで僕の書いた小説ですが、普段は文脈というものを持たずに書くことを、あるいは普通の文脈みたいなものとは別の文脈みたいなものを中心として書くことをしているので、傍目からはわかりづらい文章になっています。
「時間がたえず自室の戸をノックするといった類のアラームのような隣人の訴えを無視することができず山イモを焼いて売っているだけだとは知りながらも戸を開けてしまった」
 こんな調子です。
 これは反古にした小説の冒頭です。
 ベートーベンの「運命」のテーマが「運命が戸を叩く音が発想の元になった」というエピソードを変換し、「時間が……戸をノックする」というセンテンスになり、そしてその「時間」という抽象的な語を具象の方に寄せる為、「時間=アラーム、目覚まし時計」という語でその後は、受けています。
「ベートーベンの「運命」で言うベートーベンが感じたであろうあの交響曲のテーマにもなった内的な運命のノック音が自分の目を目覚まし時計のごとく覚ましたかのように、隣人が山芋を売りつける戸をノックする音につられて玄関の戸を開けてしまった」
 とでもいうような状況を、先のセンテンスにまとめているわけです。
 しかし、その具体的なシチュエーションを頭に浮かべていたわけではなく、とりあえず「時間がたえず自室の戸をノックする……」と書いてから、このセンテンスを何で受けるか、また文法に適う(適いきれなかったら諦める)構造にするにはどうまとめつつ、意味をそこからはみ出させるのか、といったことを考えます。
「山イモ」という単語は、なので、意味の跳躍やはみ出させの為に置かれている面が強く(山イモを焼いて売っている…?)、それがいわゆる山イモ然とした機能を有するのかどうか、あまり検討せずに置かれているわけです。
 万事この調子で書かれます。最近は特にこの傾向が強いものを書いていたのですが、今回は少し色を変えました。
 というのは、この「崩れる本棚」に載せるにあたって、何かしらリーダブルなものに仕上げてみる必要を感じた、その上で面白いものが書けるのか試したかった、というのがあります。
 今回は、原稿用紙にして二枚分ほどの塊に分かれていて、ある場面がある。
 次の場面は、前の場面の道具を引きずりつつ別のシチュエーションになっている。
 それを繰り返す。
 という構造にしています。
 全部で場面が五、六個くらいしかないから短いものですが、やはり予想しなかった進み方をしたので、これはこれで良いか、という気分に今はなっています。
 僕は他の周りの人より書く量が少なく、また散発的にしか書いていないので、今まで目論んでいた成長などが見込めず、とりあえず何か書き続けるようにしよう、そんで、今回みたいにいろんな書き方を試し、何をしたら何が出てくるのか見なければいけない。等々思うようになりました。

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