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ネット小説を読んでの持論(ウザギノヴィッチ)

 こんばんは!

 どうも、ウサギノヴィッチさんです。

 今日書くことはラジオでPさんと話したいことです。

 ネットでも小説を書く手前、ネット小説は時々読んでいます。
 そこでよく目にするんですが、固有名詞がちょこちょこ登場することが気になります。
 ただし、それがエンタメ系ならいいんですけど、純文学系の小説でもそれがあることです。
 固有名詞が登場するということは、作品の雰囲気作りにおいては必要なものかもしれない。ただ、それは諸刃の剣で、読者の想像力を固定してしまう場合もあるし、登場する固有名詞が読者に馴染みがなく読む気を削ぐかもしれないということだ。たとえば、哲学に傾倒する作家は、自分のフィールドに引き込むために自分の専門分野の哲学者の名前やタームを入れ込んでくるのが目につく。自分がさも知識があるようにひけらかしているように感じられるし、それが作品にどう影響を及ぼしているのかわからない。要するにただファッションとして、その固有名詞を選んでいるだけであって、それ以外に意味をなしていないように思える。
 この書き方で察して欲しいのだが、あまりぼくはこのことに関してよく思わない。まぁ、だから書いているのだが、作家が読者からマウントをとっているように感じられる。それはぼくが学がなく、被害妄想に陥っているからかもしれない。でも、そんな抽象的な小説をぼくは面白いとは思わない。
 あと、これはエンタメにも言えることなのだが、衒学的な展開になるときに聖書や北欧神話などの単語を使うこと。これは、エヴァンゲリオンをリアルタイムでみてきた人間にとっては、「あぁ、またかぁ」と思ってしまう。芸がないと切り捨ててしまうのは、言い過ぎかもしれないが、でも、「これかぁ」となってしまって逆に読む気にが失せてしまう。これと並列して挙げられるのが、西尾維新的な漢字とカタカナの組み合わせ。翻訳ものを読んでいるわけではないし、どこか厨二病地味ている気がするし、結局は元ネタがあるわけだから、芸がない。
 
 ぼくが小説に求める理想はかなり高い。それは、唯一無二の小説であることだ。そんなの全部そうだよ、と言われてしまえば終わりだが、そうではなく、なんの影響も受けずに、完全オリジナルの小説を書くことを目標に掲げている。
 だから、他人の影響を受けることを極端に嫌う。好きな作家を作ることを拒む。
 話がズレるが、日本の作家の影響下から逃れるために、外国の作品を読んだりしていたら、サブカル魂を発揮しだして、だれも知らないような作家を読み出したりしている。
 ただ、小説を書くということは、小説を読むことを基礎エネルギーとしているので、結局は何かしらの小説の影響下におかれてしまう。
 最近、不定期に書いているショートショートは、あれはかの有名な大作家のマネをして書いているし、それ以外にもその周辺の作家の影が見えている。
 芸術は模倣から始まると教わったことがある。
 だから、このまま自分の好きなように書いていっていいと思っている。矛盾はしていることは重々承知している。
 ただ、信念として根底に持っていることを忘れずに小説に書いていればいいと思っている。これを書きながら、そう思った。
 
 こんな精神論の押し売りを最後まで読んでいただいてありがとうございます。
 ここで、告知になりますが、明日、7/31に崩れかけのラジオの更新をします。
 まだまだ、マイクの前で喋り慣れない二人の試行錯誤のトークを暖かく聞いてください。
 
 次回は、40歳で小説を引退する話をします。

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