僕は字が汚い〜愛探すオタク〜

 自分の字が汚いということについて書く。なるべく客観的に、冷静に書きたい。とは言っても自分の性質について書く以上、これが自分を愛そうとする試みであることは否定できない。僕は字が汚いが、字が汚い自分が好きである。ゆえに、僕が自分を卑下するようなことを書いても、それは建前だと思ってくれていい。僕は字が汚くて、字が汚い自分が大好きで、それに、字が綺麗なやつなんか大嫌いだ。


 京大生というのは2種類に分かれる。字が綺麗な京大生と汚い京大生である。感覚的にはその中間は少ない。僕の知っている京大生は多くの場合、字が上手いか下手か、二極化している。

 字の美しさは些細なことに見えて、人の生き方を強く反映している。想像してほしい。字の綺麗な京大生は身だしなみも清潔感があって、コミュニケーション能力も高くて、卒業後の人生も順調に歩みそうな気がする。一方で字が汚い方は野暮ったそうな感じがするし、あまり人と関わらなさそうだ。京大生という情報さえも、字が汚ければ変質的なイメージを助長しかねない。卒業後にうまく社会に馴染めずウダウダしているのは間違いなく字が汚い方だ。暗号のような字で得をすることといえば「何となく天才っぽい」くらいだと思う。

 こんなこと言っておいてなんだが、僕は字が汚い方の京大生だった。全盛期(最も字が汚かった時期という意味)の高校時代は、教師に宿題を見てもらえなかった。もちろん字が汚くて得したことは一度もない。目の前で気になっている女の子が誰かの字を褒めていると思ったら、彼女はその字を書いている人のことが好きなのだと後になって分かったこともある。なぜこんな目に遭わなければいけないのか。僕だって字が汚くなりたかったわけじゃない。字が汚い程度で人生全体で損をし続けるのは不公平な気がする。人前で字を書くたびに赤面する人生を歩むつもりなんてなかった。

 字が汚い人間は、文字を純粋な記号として見ている。例えば「お」という字を書く時、僕の頭の中にあるイメージは「二つの交差と右上の点」だけである。二つの交差とは上部に存在する一画目と二画目が交わる交差と、中央部の二画目がくるりと回って自身と交わる交差のことだ(字が綺麗な方々、もう少しこの意味のわからない話についてきて欲しい)。この二つの交差と右上の点があれば「お」だ。これは絶対のものである。これから外れたものは決して「お」ではないが、逆にいえばこの定義に収まっていればどんなに醜くても「お」である。

 僕の頭の中にある「お」の定義はそんな極めて抽象的なものだ。縦横のバランスとか、左下のくるりの大きさとか、二画目の最後の膨らみはどれくらいが適切なのかとか、最後の点の角度とかは一切ない。簡単に言うと「横、縦、グルン、チョン、完成」なのである。「横縦グルンチョン」さえすれば「お」であり、その限りにおいて誰の反論も受け付けるつもりはない。字が汚い人間は、そもそもその美醜についてほとんど気にしてもいない。重要なのは自分の中で高度に抽象化された「横縦グルンチョン」だけなのである。なぜそんな雑な定義しかないのかというと、その必要性を感じないからである。でも、必要じゃないことを大事にし出すと、本当に必要なものが分からなくなるなんてことはないだろうか。 
 哲学である。


 そんな字が汚い人間の書く文章は、根本的に誰かに向けられたものではない。文字を文章を表現する記号としか見ていないし、その文章さえ誰かに向けて書いていない。字が汚い人間は、どこまでも自己完結的な考え方をする。
 自己完結性。やれやれ(村上春樹的間投詞)、この文章のテーマがやっと出てきた。
 高校2年の夏休みのあたりに、自己完結性にまつわる記憶がある。物理の宿題の記憶だ。

 その年、物理の宿題はそれなりの量があったが、僕は部活の合間を縫って期限通りに宿題を終わらせた。やがて夏休みが終わった。宿題は係の者が集めて先生に出しに行くことになっていた。僕はその係の同級生が嫌いだった。僕は人を嫌いになるともうどうしようもなくなる。なぜだか分からないけど、目を合わせるだけで何も考えられなくなるのだ。だからその時も、そいつに近づきたくもなかった。僕は考えた。彼にノートを預けてまで宿題を出すことに意味はあるのだろうか。結論が出た。
(まあええか)
 僕は宿題を出さなかった。とにかく僕は宿題をやったのである。それで十分だった。出すか出さないかはそれほど大きな問題ではない。真に重要な問題はやるかやらないかと言うことにある。
 美学であり、哲学である。

 これが典型的な自己完結性だ。博物館に展示してもいい典型的な。

 僕だって、もちろん誰かに向けて文字を書いた経験がないわけではない。宿題も毎回出さなかったわけではないし、テストでは教師が読める文字を書いた。そこまでカッコいい人間ではない。でも、その時僕の頭の中にあったのは、それより遥かに大事だったのは、自分が正しいと思う答えを書くことだった。これは、少しだけカッコいい気がする。

 一つだけ、カッコ悪くてカッコいいエピソードを書きたい。あるいは、カッコよくてカッコ悪い。あるいは…

 中学生の頃、テストの模範解答に納得いかなかったことがある。それについて教師に聞きにいくと、十分に説明されずに(というか教師が単純に間違っていた)追い返された。それについて僕が文句を言うと、かなり言い合いになり、最後には僕は号泣した。クラスの皆は当然笑った。「あいつ、あんなことしてまで点欲しいんかよ」そんな声が聞こえた。そう言うことじゃなかった。僕は、自分の正しいと思う答えを間違っていると言われることが悔しかった、というか、むしろ怖かった。僕にとって大事なことは、自分が書いた文章が正しいのかどうかだった。点数なんかの問題ではない。僕はその時、怖かった。自分がどう考えても正しいと思うことが間違っていると言われることが怖くてしかたなかった。自分が正しいと思っていることを正しいと認めてもらう。それは、中学生の僕にとって、世界を信頼するためにとても重要なことだった。
 いまだにこの時のことを思い出すと、生々しい怒りがある。アホな教師と同級生には一生関わりたくないと思っている。この前地元に帰った時、この出来事を古い友人にいじられた。それ以降、その友人と連絡をとる気になれない。

 僕は中学生の頃の自分が好きだ。もしかしたら今の自分よりも好きかもしれない(言い過ぎ)。自分なりに、誠実に世界に向き合おうとしていた思春期の僕に、そのままでいいんやで、と言いたくなる。しんどいことは多いけれども、絶対負けるなよ、自分の正しいと思うことだけ書けよ、と言ってあげたい。僕は、自分が誠実ではなくなった自覚があるのかもしれない。


 字が汚いという性質は人生全体を覆う。そんな人間は、他人がどう感じるかについてそれほど興味を持てない。自分がどうあるのかしか大事に出来ない。分かっているという自分のあり方しか大事に出来ない。目的が自分の中にしかない。テストの答案も、ノートも、結局自分の考えていることを書いているにすぎない。自分勝手で、自己完結的で、自己満足以上のことを求めない人間だ。とんでもない人間である。でもそんな自分が、僕は大好きなのだ。だって、もしこの世に愛が存在するとしたら、そういう人間にしかありえない。

 やれやれ(間投詞)、自己完結性と愛。こんなことを書いているうちに12月25日になった。まあ、クリスマスに書く文章としては案外悪くない。

 愛というのは僕の中で、どこまでも自己完結的なものである。というか、自己完結性を理解することが愛には必要なのだ。自己完結性を理解しても残る愛だけが、僕は真実の愛だと信じている。ディズニー映画ではない。字が汚い男のエッセイである。


 字が綺麗な京大生に真実の愛なんてないと思う。彼らは美しい文字を書く。誰かに何かを伝えるために。彼らは人間として正しい。聞いたところによると、どうやら人間は社会的な動物らしい。コミュニケートする動物らしい。コミュニケートできる動物である彼らはどこに行ってもうまくやる。他人に何かを伝える道具を持つからである。自分の思考を誰かに伝えることができるからである。なぜそんなことをする必要があるのか、僕にはいまいち分からない。本当に大事なことは、そんなことではないはずだ。

「いちばんたいせつなことは、目に見えない」

 星の王子様である。


 字が汚い人間はオタクに似ている。そして僕はオタクに憧れている。そんじゃそこらのオタクではない。僕の憧れるオタクとは、本当のオタクである。お金をどれだけ使ったかとか、アイドルに認知されているかとか、鉄道を全国制覇したとか、そういうことではない。そういう社会的に有効なオタクではない。僕が憧れているのはもっと、分かりにくくて、自己完結的で、純粋なオタクである。

 僕の知り合いに、鉄道オタクがいる。どれくらい電車に乗ったのかと聞くと、彼は自身の乗車歴を調べて教えてくれた。東京のなんでもない路線を除いて全て乗っていたことが分かった。僕は言った。

「なんでそんな場所が残ってんの? なんかのついでに乗れたやろ」

 彼は何を言っているのかと言う顔で言った。

「簡単なことやん、乗りたいと思わんかったからや」

 やれやれ(…)、でも、こう言うことである。

 本当のオタクは誇らない。ただ純粋に、好きなものを愛する。何かのためではない。彼らは自分がそれに深く繋がっていることだけを大事にする。自分が大事だと思うものをただひたすら大事にする。自分がどれだけ大事にしたかを伝える必要なんか考えもしない。彼らが大事にしているのは、自分が分かっているということだけなのだ。その自己充足的な姿は変態と言えば変態だけど、僕はそこに、真実の愛を感じる。自己完結性と愛の関わりについて少しは理解してもらえただろうか。

 僕は(まだ)自分が分かっていることだけに満足できるほど純粋なオタクになれきれない。テストではちゃんと教師が丸をつける解答を書いてきた。そう、僕は、字が汚い人間になりたいのだ。能力としてではなく、精神的に字が下手でいたい。字が汚くても満足できる自分でいたい。字が汚い人間の誠実さを信じているのだ。僕は人に何かを伝えるのが下手だ。でも、そんな人間が、実は最も誠実なのだと思いたい。本当に誠実な人間は、他人なんかどうでもいい。そんな人間だけが、本当になにかを愛せるのだ。でも、それを示す方法はない。そんな必要もない。

 僕は字が汚い。

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