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私の3月11日

2011年3月11日から10年が経った。

当時高校3年生、茨城北部の片田舎に住んでいたが、大学に受かりアパート探しのために母と東京に来ていた。
内覧が終わって入居先が決まり、契約書にサインする直前だった。

突然の揺れ。
細長いビルの5階、横にぐわんぐわんと大きく揺れて棚から書類がドサドサ落ちてきた。

これはやばいと反射的なテーブルの下に入った。避難訓練以外で机の下に入ったのはこれが初めてだった。母も不動産会社の人もお客さんも、悲鳴を上げながら机の下に隠れた。

揺れが収まってきて、エレベーターはダメだろうと急いで非常階段から外に出た。
駅前商店街の広場は、私たちと同じく地震に驚いて建物の外に出てきた人で溢れていた。

まだガラケーの時代、スマホですぐに情報が手に入らず、商店街の食堂やホテルのテレビが目に入り「震源は宮城県」と大きく報道されていた。

「東京でこんなに大きいのに東北は相当ひどかったんじゃないか」と母や不動産屋さんと話していたら、2度目の大きい地震が来た。 

もう外に出てきてしまっていたので、身を隠す場所もなく、ただ建物の側の落下物が怖かったので広場の真ん中に寄って持ちこたえた。
なんとか揺れがおさまってきた。

震災当日のここから先の時系列はよく覚えていない。

実家の家族の安否が心配だったが、電波が混み合い電話もメールも繋がらなかった。
公衆電話に長蛇の列ができ、母が並んだ。実家に電話が繋がり、父と犬の無事が確認できた。

ただ家の壁が崩れてめちゃくちゃだと聞き、あれだけの地震だったし家は半壊したか…とゾッとした。
そんな中で父も犬もケガもなかったことに大いに安堵した。
(これは帰宅してから分かるが、崩れたのは塀だったので家は無事だった)

妹も無事だった。
妹は自宅から車で30分ほどの高校に通っており、高校で被災した。
父と妹で連絡がつき、父が高校まで迎えに行ったそうだが、道路状況がひどかったこともありとても時間がかかったそうだ。

不動産屋さんは「こんな状況じゃ電車は動かないし早めに宿をとった方がいい」とアドバイスをくれ、契約は別途郵送ですることになった。

不動産屋さんにお礼を言い、近くのビジネスホテルに駆け込み、なんとか空き部屋をおさえた。ホテルのロビーにはテレビがあり、宿泊客もそうでない人も見にきていた。


ヘリコプターから撮影した津波の映像が映し出されていた。未だに覚えている。

広い田んぼのあぜ道で津波から逃げる車が飲み込まれる映像。
津波が一旦引いた後の海辺を映し「砂浜に打ち上がってるのは…人でしょうか…」と呆然とするアナウンサーの声。
心臓がバクバクした。

母は実家の家族を心配し焦燥していた。
母の焦燥を見て、自分がしっかりしなければ、と思って行動したが私も十分焦燥していたと思う。

「ひとまず自分たちの身を」と考え母と必要品をコンビニに買いに行った。おにぎりやカロリーメイト、携帯充電器、乾電池、飲み物など買った。一部はすでに売り切れていたものもあった。

夜は心細さが拍車をかけた。ホテルの部屋は高層階だったが、大きな余震があった。驚いてバタバタと1階まで降り、恐怖から夜の長い時間をロビーで過ごした。

ロビーのテレビでは、気仙沼市や山田町の暗い中で燃える火の様子が延々と流れていた。真っ暗闇なので一体何が燃えているかもわからない、それが余計に恐怖を掻き立てた。

そんな中でも私たちは生きなくてはならないので、アドレナリンも出て動悸もおさまらず食欲もないが買ったものを軽く食べた。疲れもあり、部屋に戻り少し寝た。


翌朝、日も出たことで東北の被災地の状況の酷さが明らかになった。
SOSを掲げ、建物の屋上に取り残された人たちの映像を沢山見た。今思い返しても胸のあたりがぐーっと苦しくなり、喉が渇くような気持ちになる。

宿泊地の最寄駅から、各駅停車だが電車が動いていると情報があった。私も母も早く家に帰りたかった。
各駅停車でターミナル駅まで向かった。本来なら各停でも1時間程度で着くが、この日は点検をしながらの徐行運転だった。

とても長い移動時間だった。半日ほどかかったのではないか。
空いている車内には残酷なくらい綺麗な春の暖かな光が差し込んできていて、疲れからずっとウトウトしていた。

山手線に乗り換えて上野駅まで行き、常磐線に乗り換えるはずだった。
しかし途中テレビで見た映像で、今日もまた帰宅は諦めることになる。

昨日帰れなかったサラリーマンが改札の入場待ちでごったがえしており、上野駅に入れない様子がテレビに映っていたのだ。
また、常磐線に乗れたとしても茨城までまだ開通していないようだった(結局この後1ヶ月ほどは土浦以北は電車が動かなかった)。

上野のホテルは同じく帰れない人たちで埋まっており、1駅歩いて鶯谷のビジネスホテルに泊まった。
綺麗な海外の観光客向けホテルで、震災後3日目の朝、中国人と間違われて外国人用の朝食会場に案内されたことはよく覚えてる。

上野駅はテレビを見る限り依然混み合っていたため、歩いて日暮里駅まで行った。

震災3日後の東京は、動揺はありながらも通常営業モードに戻りつつある雰囲気だった。
常磐線の本数が少なかったのもあり、待ち時間で駅ビルで着替えを買ったり、母の好きな日暮里繊維街を散歩した。
その後鈍行で取手駅まで行け、ついに茨城の地を踏むことができた。

ただそこから先は電車が動くめどが経っておらず、祖父が3時間くらいかけて車で迎えに来てくれた。本当にありがたかったし、いつもの調子で「おー、しほちゃん、大丈夫げ?」と車から降りてくる祖父に会えて少し泣きそうになった。

祖父を待つ間、実家の方はスーパーも空いてないと聞いていたので、無印良品でスーツケースを買い、食料や水を買い込んだ。
ちなみにこの時のスーツケースは今も使っている。10年使ってるのかとしみじみした。

祖父の車に乗り家に向かうも、なんと大渋滞。
停電で信号がついておらず、大きい交差点以外は交通整理の警察官もいなかった。

交通整理のない信号は完全にお互いの譲り合いで成り立っており、いざとなるとこんなすごいチームワークで動けるものなんだなとちょっと感動した。

途中、祖父の知り合いのタクシーに会った(祖父はタクシー運転手をしていた)。
どうしても東京に行かなくてはならない人を乗せており、お互い車が渋滞してる中でも頑張ろうと声を掛け合っていた。

なんとか家に到着したのは、震災から3日目、もう夕方近かったのではないだろうか。
家が半壊してると思い込んでたので、家の壁があって安心した。

妹も父も元気で、妹には抱きついた。犬もたくさん撫でた。家族が無事に集まった安心感で少し泣きそうになった。

室内はめちゃくちゃだった。
キッチンは戸棚ごと倒れ、食器はどれもきれいに割れていた。廊下の洋服ダンスが派手に倒れてトイレへの道を塞いでいた。

階段の壁にはヒビがはいった。
1階の居間は無事で、また大きい地震が来てもすぐ逃げられるように1階に家族4人で川の字になって寝た。

電気は震災翌日からついたらしい。当日夜はとても寒かったので、父と妹は毛布にくるまってラジオを聞いていたそうだ。
電気がない中、友人にもらったおしゃれキャンドルが役に立ったそうだ。

水道はまだ通っておらず、私が帰宅した翌日(震災後4日目)にやっと開通した。ガスもそのくらいでシャワーを浴びることはできるようになった。

ただ、東京よりも震源地に近いためより余震が多く、緊急地震速報のアラームを恐れながら一瞬でシャワーを浴びた。

震災後4日目あたりだったか、福島原発のメルトダウンのニュースが入ってきた。
自宅が半径100kmに入るため、あまり外に出ない方がいいと言われた。

家で延々と津波と原発、日々増える死者数のニュースを見て、同じCMを見て、余震のたびに鳴るアラームに、より不安と閉塞感が増した。

ただ母と2人で東京に残された時の不安が強かったので、家族が揃っている、家にいることの安心感に救われた。

震災後1週間後くらいだったか、スーパーの駐車場で無事だった商品の販売があった。

その日はめちゃくちゃになった自分の部屋を掃除しながら「どっちみち引っ越す予定だったからちょうどよかった」と自分に言い聞かせて、片付けをしていた。

久しぶりのスーパーでの買い物を楽しみにして行ったが、数えられる程度の種類の保存食、ペットボトル等だった。
欲しいものもなく、家に食料はあったので、自分では何も買わなかった。

意外と少ない品揃えにちょっとテンションが下がったのと、これしか販売できるものが残らなかったのかと切なくなった。

帰りにセブンティーンアイスの自販機を見つけ、妹と食べた。
停電で溶けてまた固まった、すこしイビツな柄のアイスに笑った。
でも溶けてもまた固まるアイスに、どこか日常が戻ってくる兆しのようなものを感じた。

あれから10年。
書き起こす中で思い出したあの時の感覚。
忘れないように。



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