音楽性は再読性

 詩の朗読やポエトリー・リーディングのライブパフォーマンスには、テキストで言うところの再読性がないものも少なくないのかなと思ってて(音源となると再読性が生まれると思うんやけど)、でもその一過性のものに再読性を生むものがもしあるとしたら、音楽性かなと思ってる。
 韻と無縁の意味伝達に特化した文章を平坦によむことは、それが一過性のものとなる可能性を高めるのかなと思っていて、それに逆らうには感情表現や身体表現をしたり、韻を踏んだり、よむスピードに緩急をつけたり、間を使ったりすることで音楽性(再読性)が備わるのかなと思ってる。音楽にはテキストで言うところの再読性があると思う。このことが関係してかはわからないけど、最近あるスピーチのフレーズがふと思い出されることがあって、その理由について考えていたら音楽性があることかなと行き当たった。そのスピーチ内のある短文では韻が踏まれていた。
 音楽性が再読性を生んで、本来一過性だった声明や質問文に込められたメッセージ、意味が録音音源のように何回も聴けるものとなる。このことはとても大切なことかなと思って、私は朗読とかリーディングをしているので、今回考えたことを記録しておきたいなと思った。

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