それでもやっていくしかないよな、そうだね

 アダルトチルドレンという言葉(名前)がある。過去に見かけたその言葉の説明文で最も興味深かった内容は、例えば○○病や○○障がいのように、それが他者から付けられる名前ではないというものである。医学的な診断名ではないということももちろん関係しているが、件の名前については自ら名乗るものという点が特徴の一つだと受け取った。この名前を知ってから少なくとも10数年が経過したように思うが、今となっては一部の病気や障がいについても、結局のところ本当の意味では他者から名付けられるものではなく、自称するタイミングを自分で決めるものではないかと考えている。
 例えば医師から診断されることと、自身の心の中でその事実をその通りに受け取ることは別ものだと考えている。このことは福祉の相談業務に関わる年数が長くなる程に思うようになった。確かに診断があれば利用出来る制度やサービスの選択肢は増える。それでもそれらの利用の為に、他者から付けられる名前を本当の意味で心の中で受け止めるかどうかは別のことだと思う。この2つのことを同じものと考えて(診断結果が出る=本人も受容済みと考えて)関わることが、相談者との関係に悪影響を生むことがあることについては同業の方の内心に問いたいと思う。
 ちなみにアダルトチルドレンの中には分類があり、私は自らをケアテイカーだったのではないかと思っている。その為なのか、他者に過度な世話焼きをする自らの性質と、その結果として生じる相手の反応には多く苦しんだ。つまり人とうまく付き合えなかった。相手からしても不自然な、おうかがいばかり立てて、結局のところ何を考えているかよくわからないやつと映ることも珍しくなかったと思う。わかりやすいところで言うと、私という人間は先輩から滅多に可愛がられないタイプだと認識している。頼れないし甘えられない。可愛くないやつなのだ。笑
 一つ前の記事でも書いたが、私は自分自身がその何かを本当に心から望んでいるのか、そして本心に従い選択し生きられているのかということについて苦悩している。好きな物一つ選んで食べることも簡単ではない。休みの日に何をして過ごしていいのかがわからない。自分の気持ちについて考えるより、周囲の人が今どうして欲しいのかということを考えて行動する方がし易かったりする。ただし必ずしも毎回相手の気持ちをきちんと想像出来ているわけではないという点については、留意しておかなければならないと思っている。まぁつまり自惚れるなということである。
 しかしながらこの言わば能力について、比較的秀でたものがあるという点については少なからず認めるしかないと思っているところがあるのもまた事実である。なぜかと言うと、望まなくても環境が私を訓練したからである。幼い頃から武器を持たされて戦士となるしかなかった少年と、被虐者のそれには仕組みとして近いものがあると考えている。
 これから私は自分の本当の想いに寄り添って生きていけるだろうか。自信はない。自信はないが、諦めずにこのことと向き合っていこうと思う。何度も同じことで悩み苦しむだろうが、結局のところ私は私をやめられないのだから、やっていくしかないよなと思っている。

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