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夫がなぜか、私の物を勝手に片付ける。

夫がなぜか、私の物を勝手に片付ける。

最初は加湿器だったと思う。
いつだか覚えていないくらい前に、母が買ってくれた大きな加湿器。重いし手入れが必要だし、ズボラな私には手に余る代物だったので、日本に住んでいたときからもはや置物と化していた。

それをなぜわざわざアメリカに持ってきたのかは思い出せないが、しばらく夫が使っていたものの、やはりその手入れの面倒くささに彼も根をあげ部屋の片隅で佇むだけの存在になった。

自分のものであるところのその加湿器を使おうともしない、手入れをしようともしない私に夫は苛立ちを隠さず、何度も私に手入れを促した。
しかし私は、アメリカに来て以来加湿器のスイッチを入れたことすらない。使っている人が手入れをすべきでは。というのが私の言い分だった。

だから「この加湿器、使わないなら捨てよう」と夫が言ったときも、「そうだね」と返事して、その後は何もしなかった。捨てたい人が捨てれば良いと思っていたのだ。私はその加湿器が部屋の一定面積を占めていようと一向に構わないのだから。

しかしどうやら夫は、私が捨てるべきだと考えていたようだ。私が加湿器の不在に気づいたのは、加湿器がいつもの場所からいなくなったからではなく、私の仕事机の下に忽然と現れたからである。

邪魔だった。狭い机の足元に置かれる加湿器。どうせコンセントを抜いて重い物体を運ぶなら、クローゼットにでも入れれば良いのに。わざわざ私の仕事机の下に置く。これはメッセージだった。

でも私は察するのが得意でないし、「察してほしい」という行為がすこぶる好きではない。

私はその加湿器を自分のクローゼットに閉まった。「邪魔だから、この加湿器をあなたのクローゼットにしまってもいい?」と聞かれれば、私はNOとは言わなかったはずだ。その方がずっと双方が心地よく、そしてほぼ同じ労力でことが運んだのではないか?余程夫は私に片付けてほしかったのだろう。なぜなのか。人間は難しい。

それからしばらくして、今度は私のクローゼットに何かが増えていることに気がついた。日本の家から持ってきたテレビだ。

このテレビも、使われることのないまま、ずっとベッドルームの小さなキャビネットの上に佇んでいた。
邪魔だなあ、どうにかしたいなあ、と常々夫は口にしていたものの、結局のところテレビはずっとそこにいた。私は邪魔ともどうにかしたいとも思っていなかったので、もちろん何もしていなかった。

だけどある日、このテレビがPCのディスプレイとして使えるではないか!という話になった。ノートパソコンだけで仕事をするとどうもやりにくい。もう一つディスプレイがあったらなあ、と私がぼやいた時に、夫が「あのテレビがディスプレイになるよ」と教えてくれたのだ。

早速狭い机にテレビ改めディスプレイを置く。ごちゃごちゃと線を繋いだら、おお!ディスプレイになった。

これはいい。とディスプレイを駆使したのは、ほんの数日だった。瞬く間にそれは再び置物になった。でも私は一向に構わなかった。全く使わないけど、時にちょっと邪魔に感じることもあるけど、そこにいてくれてもいいよ。

私とディスプレイ、互いに不干渉な日々がこれからも続いていくと思っていたある日。机の上からディスプレイが消えた。
不在に気づくよりも先に、あるはずのない私のクローゼット内でディスプレイを発見し「あれ?」と思うに至ったのだ。加湿器にしろディスプレイにしろ、物の不在というのは気づきにくいものなのかもしれない。

しかしなぜ、ディスプレイが私のクローゼットにあるのだ。

ディスプレイを私の仕事机へ移動させてからというもの、その存在の煩わしさに夫が言及することはなかった。だからこれは完全なるサプライズだった。別に片付けてくれてもいいのだが、片付けてくれなくてもよかったものだ。なぜ片付ける前も、片付けた後も、何の声かけもないんだろう。ディスプレイがいたのは私の机であり、片付けられた先もまた私のクローゼットなのに。当事者がいるとすれば私とディスプレイの他にいないはずなのに、なぜ私は蚊帳の外なんだ。

なんとなく、何の確証もないが、夫は私にイライラしている時に私のものを片付けるのではないかと思うに至った。

加湿器のときはまさに、その加湿器にあまりに無頓着な私に苛立っていたし、ディスプレイのときは何か口論をしていたような気がしないでもない。

私の、自分自身ですらあまり信用していない記憶が正しければ、日本にいた頃の彼は整理整頓が得意なタイプではなかったし、積極的にしようともしていなかった。だけどアメリカに来て、十二分なスペースがある家に住み始めてから、整理整頓に対する姿勢を改めたようだ。部屋が散らかり始めると徐に片付けを始める。両手に何かを持ちながらせかせかと家中を動き回る彼の周りには、イライラという文字が目に見えるようで、私はそっと気配を消す。

きっと、理由なく存在するものが彼をイラつかせるのだと思う。使われていない加湿器とか、使われていないディスプレイとか。
それもきっと心身ともに健康なときであれば、大して気にはならないはずだ。ただ仕事で疲れていたり、妻と言い争いをして心が荒んでいる場合はその限りではないのだろう。


そしてこの度、新たなものが片付けられた。私の石鹸置きだ。

マスターベッドルームの洗面所には、洗面台が二つある。なんたる贅沢。私と夫はそれぞれ自分専用の洗面台を持っているのだ。
互いに互いの洗面台には不干渉を貫いてきた、つもりだった。少なくとも私は。

私の洗面台の横にだけ、壁に小さな収納スペースが付いている。正方形の扉は鏡になっており、開くと中にとっても小さな棚がある。そこに私は歯ブラシやちょっとした化粧品などを置いている。

いつものようにその扉を開けた。ん?何かが違う。違和感の正体を探るためによくよく観察すると、右上のスペースに、私の石鹸置きが鎮座していた。本来は私の洗面台にあるはずの、木でできた、表面がギザギザの石鹸置き。今や何ものせられなくなって久しい、ただの「置き」。

我々は不可侵条約を結んでいるわけではないが、これは明らかに越権行為ではないか。なぜ私のテリトリー内で、私の預かり知らぬ間に、私の物が動いているのだ。

そこで私は思い出す、ここ数日の夫と私との諍いを。やはり彼はストレスをお片付けにぶつけているのだろうか。

事を荒立てたくない一心で、過去に二度の「サプライズお片付け」を黙認した私であったが、諍いも一旦収まった今であれば聞ける気がした。

「石鹸置きがここにある!片付けた?」
ちょうどそこに居合わせた夫に尋ねた。

彼はすこぶる気まずそうな顔をして「あー、使ってなかったから。戻していいよ」と言った。反射的に「え、戻していいの?」と返してしまった。だって、戻していいなら、どうして片付けたの???

彼は苦笑いをしながら、そこに立っていた。とてもサプライズお片付けをやってのけたとは思えない穏やかな態度だ。戻すこともやぶさかでないなんて、これを片付けた人物と、今目の前にいる人物は本当に同一人物なのだろうか。

私に対する苛立ちがサプライズお片付けとして表出する、という私の見立てはあながち間違いではなかったようだ。

恐らく今目の前にいる彼は私に苛立っておらず、だからこそ苛立っていた頃の自分の行いを目の前に突き付けられて居た堪れない気持ちになっているのではないか。

私への苛立ちの消化方法が私のものを片付けることなのは、なんというか、正直陰湿でゾッとしてしまう。こちらに何も訴えてこない分、藁人形に釘でも打ち付けられたほうがマシに思える。

勝手に片付けるという行為は、明らかに何かのメッセージを発している。それでいてそれが何かはわからない。穿った見方かもしれないが、私にそれを探すことを促しているように思えてしまう。

私に、促されるままに行動する度量があったならなあ、と思う。人間としての器がおちょこほどしかない私は、雨が止むのを待つかのように、彼の苛立ちが収まるのを待つ。

対話こそが全てだと信じてやまなかった頃もあった。でもコミュニケーションスタイルも、問題への向き合い方も、ストレスの発散方法も人それぞれ。勝手に片付けられたものを目の前にして「何かあるなら言ってくれれば…」と思わないわけではないが、それはこちらが言うに値しない器の人間であることの証明でもある。


例えば私がものを放置しないようになったとして、それは根本的な解決にはならない。次はきっと違う形でストレスが表出するだけだ。或いは、しないかもしれない。誰にもわからない。

何事にも、誰にでも、適切なタイミングがある。少なくとも今は「戻していい」と言った彼に「なぜこのようなことをしたのか」と詰め寄る気にはなれない。
きっとそれでいいのだと思う。

ただ、使わないものはしまおうと、しまおうと心がけようと思います。はい。



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