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花屋日記 そして回帰する僕ら

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ファッション女豹から、地元の花屋のお姉さんへ。その転職体験記を公開しています。
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2019年2月の記事一覧

「花屋日記」エピローグ:あなたの名前は?

 ずっと、人に優しくできない時期があった。電車に乗り合わせた乗客も、コンビニの店員も、私にとっては「背景」でしかなかった。その一人ひとりに性格や生活があったとしても私にはまったく興味が持てなかったし、極端に言えば無差別殺人を犯すようなヤサグレた人の気持ちも、想像できなくはなかった。それは自分自身が、この都会でちゃんと「人」として扱われてこなかったからだと思う。  今のオフィスの近くにある定食屋には、やたら明るい店員さんがいる。トレイを運び間違えて 「おっと! 危うくほかのひ

「花屋日記」50. そして回帰する僕ら。

 ある日の午後、ブランドの新作展示会に向かうため代官山Tサイトを通り抜けると、青山にある花屋「ル・ベスベ」のポップアップショップが開かれていた。つい立ち止まってしばらく花材を眺める。今すぐあのカウンターの中に入ってさくさくブーケを組める気もするし、まったく途方にくれてしまう気もした。花を2週間以上も触っていないなんて初めてのことで、なんだか他人の人生を生きているみたいだ。  東京に引っ越してくるとき、私は一連の道具を荷物の中に入れた。花鋏とフラワーナイフ、ワイヤーやフローラ

「花屋日記」49. モード界に一番近いバラ。

 花屋での最終日、私はたくさんのプレゼントを受け取った。スタッフからのメッセージカードやブーケ(花屋から花屋へ渡されるブーケなんて、実はめったにないことだ)、そしてセキュリティチームのモトヤさんがこっそり手配してくださったというホールケーキまで店舗に届けられた。元料理長ならではの、さすがのチョイスだった。  常連だったシノダ様は店で一番大きなブーケを購入され、それを私に「プレゼント」と言ってくださった。店長は後ろでそれを見て見ぬ振りをしていた。もしかしたらこちらの裏事情をいつ

「花屋日記」48. なにを残していけるのか。

 店長は、私が辞めることに対して 「うちは東京に住むなんて考えたこともない。あなたは最後まで、よく分からない人だわ…」 とため息をついてから 「新人教育には協力してよね、もうあなたが、私の次に長いんだから」 と言った。もっといろいろ責められると思っていた私は 「もちろんです。本当にすみません」 と頭を下げ、その罪滅ぼしに毎日あらゆるマニュアルを作った。 私は多分最後まで大した人材ではなかったと思うけれど、自分に残せるものは、残していかなくてはならない。  ある日、カラ

*お知らせ 「花屋日記」コラボレーション

大野弘紀さんという、詩を発表されている方が「花屋日記」第46話「落下する都市へ、再び。」に対する返答詩を書いて下さいました。ありがとうございます! こういうのも、多くのクリエイターが参加しているnoteというプラットフォームならではですね。こちらは第49話「モード界に一番近いバラ。」の劇中挿入歌として書いてくださいました! ぜひ両方を読み比べてみてくださいね。大野さん、いつもありがとうございます。

「花屋日記」47. きっとこれは忘れたくない夜だ。

 いつもどおり出勤して通用口でセキュリティチームに挨拶すると 「カイリさん、たぶん今日で会えるの最後なんですわ。僕、明日から三連休やし、お互いの出勤がてれこになって月末まで会われんのです」 と「ロマンスグレー」のモトヤさんがおっしゃった。彼には退職することを前もって伝えてある。 「えっ、そうなんですか」  突然のことにハタと立ち止まった。別れの挨拶を交わすにはもうちょっと、時間の猶予があるのだと思っていた。 「今日は夜までですか?」 
「うん、そうやけど入れ違いになるかもしれ

「花屋日記」46. 落下する都市へ、再び。

 採用試験を受けた3週間後、私のもとに「内定」の通知が届いた。ある出版社からファッションエディターとして採用されてしまったのだ。その結果に、私は混乱した。諦めたかった世界が、自分の手の中に突如戻ってきた。私はそれが求めていた答えなのか、何度も何度も自分に問い直した。  その仕事を引き受けるなら、再び東京に引っ越すことになる。家族からの理解は、もちろん得られなかった。あんな過酷な業界になぜわざわざ戻るのか。今の仕事はどうするんだ。せっかく手に入れた健康と平穏な暮らしを、なぜ手

「花屋日記」45. 私は、花を失わない。

 毎朝、大量の下処理をすると、葉っぱや花びら、短くカットした茎などで足元は床が見えなくなるほど埋まっていく。もちろんゴミ箱をセットした状態で作業を始めるのだが、ナイフで切り取った枝や茎先が飛んでいってしまうので、どうしてもそんな風に溢れかえってしまうのだ。もしお客様がカウンターの中をご覧になったら、きっとそのぐちゃぐちゃさに驚かれると思う。  私も花屋に入ってその状態を初めて見たとき、そのエグさに衝撃を受けた。お稽古事として花に接するのとはまったく異なる「職業としての花屋体