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「花屋日記」47. きっとこれは忘れたくない夜だ。

 いつもどおり出勤して通用口でセキュリティチームに挨拶すると
「カイリさん、たぶん今日で会えるの最後なんですわ。僕、明日から三連休やし、お互いの出勤がてれこになって月末まで会われんのです」
と「ロマンスグレー」のモトヤさんがおっしゃった。彼には退職することを前もって伝えてある。
「えっ、そうなんですか」
 突然のことにハタと立ち止まった。別れの挨拶を交わすにはもうちょっと、時間の猶予があるのだと思っていた。
「今日は夜までですか?」

「うん、そうやけど入れ違いになるかもしれんね」

 私はとりあえずその場で、今までお世話になりました、と頭を下げた。なんだか実感がわかなかった。

 そのまま控え室に行くと、デスクの上に袋が置いてあって
「モトヤさんからみかんをいただきました」
と他のスタッフからのメモが貼ってあった。あの人はいつもこういうことをしてくださる。すごく優しくて上品なおじさまで、みんなに愛される存在だ。
 きちんと人数分用意されたみかんを見て、私はなんだかすごく寂しくなってしまった。自分の出勤最終日にはセキュリティチームへの差し入れを持っていこうと用意していたけれど、モトヤさん個人へのギフトはなにも用意していない。「なにかあったほうがいいな」と、そのみかんを手にして思った。

 私の知ってるモトヤさんに関する数少ない情報は「旅好き、グルメ、おそらく一人暮らし」。それくらいだ。セキュリティさんとはあまり雑談ができないから仕方ない。でも以前、おみやげにもみじ饅頭をくださったときに、広島までラーメンを食べに行かれたのだと言っていた。
 ああ、そうだ、それなら食卓を彩るものにしよう。私はそう思って休憩時間に近隣のショップに出かけ、男の人の手に合いそうな、一番品のいいお箸と箸置きのセットを一膳、ラッピングしてもらった。モトヤさんになにかを渡すのは初めてだ。なにかをしてもらってばかりの相手にこうしてささやかな「反撃」をするのは、悪くない気がした。

 セキュリティルームにそのプレゼントを預けて、私は店舗に戻った。そして再びモトヤさんと顔を合わせたのは、その一日が終わる頃だった。
「お疲れ様です」
と帰り際に声をかけると、モトヤさんは私を見て、笑うような、困惑したような表情でしばらく黙った。そしてちいさな声で一言、
「…メシ食うたびに思い出すやんか」
と言った。私はその柔らかな関西弁がじわじわと胸にしみこむのを感じた。
「グルメな方には、グルメなものを」
「グルメちゃうよ、ただ料理長だっただけやん」
「世間ではそれをグルメって言うんですよ」
 私たちは笑った。こんなふうに話せるのも今日が最後か。

 なんで終わりがくるんだ?と思った。自分でリミットを決めたくせに、それを理不尽に思った。私たちはおそらくもう出会えない。でも今後、白髪の紳士を見かけるたびに、あるいは料理をたしなむ男性に出会うたびに、私はきっとモトヤさんを思い出すだろう。

「どうもありがとう。とりあえずは、またね」
「はい、ありがとうございました。お元気で」
 窓越しに交わす挨拶。モトヤさんはやっぱりどこまでも優しかった。
ここを通る機会もあとわずか。重いドアを開け、通用口から見上げる空には、月があかるく光っていた。こんな忘れたくない夜があるなんて、私はきっと幸せなのだろう。顔見知りの警備員さんと別れるのがこんなに名残惜しいなんて、私のいる世界はなんとあたたかく美しいことか。

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