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「花屋日記」39. 見知らぬ老人とサラ・ベルナール。

 その日、私は芍薬を使ったアレンジメントの研修を受けていた。まだ蕾のものもあるので、開花したときのことも想像しながら構図を考えなくてはならない。品種は「サラ・ベルナール」。フランスの伝説的女優の名を持つ、豪華な花だ。サブの花材には、姫水木やピンクのスモークツリー、ナルコなどを合わせた。

 フラワーアレンジメントというものは、生きた彫刻のようだと思う。完成形はない。枯れたり萎れたりすることも含めて、最後までそれは美しい変化であり、命の輝きだから。

 私たちスタッフは、普段から花を家に持ち帰り、それがどんなふうに終わるのかを観察するようにと、店長から言われていた。店頭に並ぶのは一瞬だが、「その後」のこともちゃんと予想できるのがプロということなのだろう。
 不思議なことに花を毎日見ていたら、花弁の開き方や柔らかさで、あとどれくらい保つか、だんだん判断できるようになっていった。その花の生産地が優秀であるかどうかも、そういった部分で計れるようになる。花はまさにナマモノだった。

 研修が終わった後、私は完成したアレンジメントを両手で抱えて、家まで歩いた。スモークツリーがふわふわと揺れる視界の端に、ふと見知らぬおじいさんの姿を捉えた。右へ左へ、少しふらついている。やがてゆらり、と身体が傾いたと思った次の瞬間、おじいさんが道に倒れ込んだ。
「大丈夫ですか!?」
 私はびっくりして駆け寄った。倒れた際にアスファルトで打ったのか、おじいさんの額から少し血が出ている。
「きゅ、救急車を…」
「いや、大丈夫。もう家が近いから…」
とおじいさんは弱々しい声で言った。
「じゃあご家族に迎えにきていただきましょう。ご住所は、お電話番号は分かります?」
 いつの間にか、他の通行人たちも周りに集まってきていた。「私がご家族を呼んできます」と知らない女性が申し出てくれて、「水を買ってきましょう」と自動販売機に走ってくれた男性もいた。ありがたかった。

 しかしおじいさんをなんとか家まで送り届けようとしても、本人がおっしゃる住所にご自宅が見つからない。記憶が曖昧なのか、質問するたびにおじいさんの言うことも変わっていった。だんだん空模様もあやしくなってきている。私たちは困って顔を見合わせた。
「ちょっとごめんなさい、ご住所を確認させてもらえますね?」
と、知らない女性がおじいさんの手提げを開けた。すると中には入院患者が使うような名前入りのコップが一つ、入っていた。それを見て私たちはハッとした。
「もしかして、病院から出てきちゃった方なのかも…」
そういえば、着ている服もパジャマのように見える。

「警察に連絡しましょう。保護してもらった方がいいように思います」
 その場にいた全員が、その言葉に神妙に頷いた。
私の頭の中から、さっきまで抱えていた芍薬のことは完全に消えさっていた。

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