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評㊵岡田利規『わたしは幾つものナラティヴのバトルフィールド』@彩の国、4500円

 テキスト・演出:岡田利規『わたしは幾つものナラティヴのバトルフィールド』@彩の国さいたま芸術劇場小ホール、全席指定4500円。9/1~9/4。出演:湯浅永麻、太田信吾。1時間5分(休憩無し)∔トーク

岡田利規、ずっとわかっていない、でも観よう

 岡田利規(49)、劇作家、演出家、小説家。2005年、主宰する(演劇ユニット)チェルフィッチュ『三月の5日間』で第49回岸田國士賞受賞。演劇の次の展開を探していく派、と言えばいいのだろうか、その作品発表のたび、批評家たちが好き好んで取り上げる人物でもあり、現代演劇を押さえておこうとすれば、観ておきたい。
 しかし、正直なところ、わかりやすいと言えば噓になる。わかったふりはよそう。

『三月の5日間』『スーパープレミアム~』『プラータナー』

 『三月の5日間』は映像で観た。テキストも一部読んだ。手足をくねくねし、まとまりのない台詞を口にするイメージ。ホテルの4ナイトラブとイラク戦争。多分、当時、“新鮮”だったのだ。

 チェルフィッチュを舞台で観たのはまだ一度だけ、『スーパープレミアムソフトW バニラリッチ』バージョンアップ公演 『スーパープレミアムソフトWバニラリッチソリッド』@世田谷パブリックシアター・シアタートラム(2019年1~2月)、確か当日券4500円。
 その時の演出家ステートメントは

 2014 年に初演したコンビニエンスストアについての空虚な演劇を演出しなおします。
 ソリッドなバージョンにします。シュッとした空虚さ。音楽、身体の動き、発されるせりふ。それらが緊張したり弛緩したりする関係。スタイリッシュなバージョンにします。それによって上演の空間が主題で満たされてしまうようなスタイルで上演します。 ―岡田利規

 むむむ。観た。コンビニでの会話という記憶は残っている。
 そういえば、国際交流基金「Performing Arts network Japan」のHPから、「リアルな若者の話し言葉、独特な身体表現を用いて現在を照射してきた岡田利規」という表現も拾った。これがいわゆる「普通の言葉」を用いた説明か。
 (ttps://performingarts.jpf.go.jp/J/play/1512/1.html)

 岡田利規をその次に観たのは、ウティット・ヘーマムーンx岡田利規x塚原悠也『プラータナー:憑依のポートレート』@東京芸術劇場シアターイースト(2019年6~7月)、前売4000円。
 
タイ現代文学の舞台化でタイの役者が来て演じていた。字幕だ。一所懸命観て、寝た。パンフも買って一所懸命隅々まで読んだ。パンフは厚かった。評価は高いらしい。今更ながら検索すると、プラータナーとは欲望。
 ――絡み合う政治とエロス、権力と反権力、生と死。ある芸術家の性愛遍歴を通して語られる、国家の「からだ」の欲望とは(河出書房新社による書籍の説明)――だったようだ。

「ナラティヴによる分断」体験に着想を得た作品とは何か

 今回の観劇のきっかけ。どこかでチラシを見た気もするが、気に留めず。しかし、新聞に今回の公演の紹介が出ていたのが目に付いた。
 ――「ナラティヴ」は直訳すると「物語」だが、演劇界の鬼才(ほう!)・岡田は「人の思考を規定する物語」と捉え、東日本大震災後の放射能を巡る議論など、「ナラティブによる分断」を身近に体験し、それに着想を得た多くの作品を生み出してきた、という(8/30、読売)ーー
 うむ、ますますもって全くわからない。
 しかし、わからないといって敬遠しているとますますわからなくなるので、観にいこう

 しかも今回はダンス。さらに混乱。アフタートークがあるようだ、ならその日がいい。ただ、岡田、湯浅、太田が揃う日(9/1)は前売券が取れず(当日券あっても遠いので不安)、湯浅、太田のトーク日(9/2)にした。

駅から歩く人々の多くはマームとジプシーに行った

JR与野本町駅から劇場に向かう途中の手形群のひとつ

 いつものJR与野本町駅から劇場に向かう、公称徒歩七分、一時期の酷暑は過ぎた夕刻なので普通に歩ける。お、結構若い人も含めてぞろぞろいるぞ、と思ったら、お隣の大ホールで、マームとジプシー(作・演出:藤田貴大)「cocoon」の上演があるらしい。この人の群れはそっちか~。7月にはコロナの影響で公演中止だったらしいし、頑張ってください。

右が大ホール、左が小ホール

図書館のような落ち着きの小ホールへ

 ということで、こちらは小ホールへ。

 小ホール。いつも、お勉強をしに来たような、図書館に来たような真面目な雰囲気になる

階段状の客席が、半分のバウムクーヘンの外側のように舞台を見下ろす。左側が舞台。トイレは客席から行く

 トイレはホワイエからではなく、客席から行く。女子トイレは個室6つ。トイレ前の廊下に荷物預けのロッカーが60個ほど。

「岡田利規の“テアタータンツ”について」

 さて、図書館的真面目な空間の客席に戻り、配布された当日パンフを開く。内野儀(ただし)氏(演劇研究者)の文章「岡田利規の“テアタータンツ”について」。

当日パンフ表紙

 踊りながら歌うのではなく、踊りながら語る/語りながら踊るのだ。そこが、踊りながら歌う/歌いながら踊るミュージカルとは決定的に異なる。あ、いや、踊るというよりただ動く?それとも身振りをする?そして、語るではなく話す?動きながら話す?、か。あ、とするなら、普通の演劇ではないか?うっ、いや、なにかちがう?
 こうして、演劇とかダンスといったジャンル意識、つまり、演劇とはこういうものだ、ダンスとはこういうものだ、という固定観念で上演にのぞんでしまうわたしたちの多くにとって、岡田の舞台は最初は多少なりともとっつきにくいものとなる。どう見てよいかわからない、何をどう感じてよいかわからない、かもしれない

当日パンフ中、内野儀「岡田利規の“テアタータンツ”について」抜粋 ※太字は私

 ははは、内野先生、いいですね。わかりません、わかりませんよ。

 文は以下のような趣旨で続く(まとめ)
・岡田が知られたきっかけの作品『クーラー』(2004)では、だらだら話し続ける二人のパフォーマーの動きがダンスか演劇か、議論された。
・ドイツの振付家ピナ・バウシュの作品は「タンツテアター(ダンス演劇)」というジャンル。ダンサーたちが普通に話したり叫んだりする。ダンスなのになぜ話すなど問うのは野暮、したり顔で上演からの情動に浸っていればよかった。その経験を持つ客でも当時の岡田の作品に戸惑ったという。
・「タンツテアター」から考えれば、岡田は「テアタータンツ(演劇ダンス)」の人だ。岡田の時々の関心に沿って書いた戯曲(文字テクスト)があり、パフォーマーがそれを発語した時、あるいは発語しようと意識した時、発語した直後に出てくる身体的動きをリハーサル段階で採集・検討し、上演に向けてある程度固定化していく。言葉は岡田のものだが、発語された瞬間にその音声はパフォーマーの身体と関係を持ち、人としての経験や生活史と共鳴して具体的な身振りとして現前する。

当日パンフ、内野氏の項

 ふふふ。前よりわかったような? 幻か。
 そして、内野氏はこう〆る。

 「目を凝らし、耳を澄ます」という基本中の基本で、いまの観客は上演に接しているように感じられる(略)岡田のテアタータンツにはむしろ、「耳を凝らさず、目を澄まさず」、ただ知覚感覚器官をリラックスさせて全開にすることをお勧めする。そうすると、いろいろものが見えてくる、聞こえてくる、感じられてくる、違和感を覚えてしまう、共振してしまう、居心地が悪くなってしまう、共感してしまう、はずだ

当日パンフ中、内野儀「岡田利規の“テアタータンツ”について」抜粋 ※太字は私

 ん。はは。「共感してしまう、はずだ」とは。それは。。
 少なくとも文章では説明しがたい、ということがよくわかった。「耳を凝らさず、目を澄まさず」は、まあ無理だろう。

 唐十郎『特権的肉体論』(1997)、三浦基『おもしろければOKか? 現代演劇考』(2010)、西尾佳織(散文よりその前の詩的文章の話をしていたような)、あたりが頭をちらつく。

「身体の声を聞きなさい」の声に翻弄される身体

公演チラシ

 ようやく、観る。三部構成。ちなみに客席は必ずしも真っ暗ばかりでなく、自分以外にもメモをとりながら観る人がいる。

 第一部は湯浅永麻が一人パフォーマンス。ネザーランド・ダンス・シアター(NDT)に11年間所属した後、2015年末に独立し、ヨーロッパを拠点に国際的に活躍するダンサー、振付家。だそう。NDTは観にいったな。ダンスはまるでわからないが、しっかりした足腰ごと全身がしなやかに動き回り、似たような振り付けのようで違う振り付けをしている気がする。多分凄いのだ(すみません)。
 ひとり踊りながら話している、いや、話しながら踊っている? 内容は、ネット上でフォロワー30万人がいる某「先生」が、「身体(からだ)の声を聞きなさい」と発信している。それをフォローしてて、「けどぉ」「ていうか~」「じゃないですか」「身体が声なき叫びを発してる感じ」

 そのまま第二部。どこかのオープンカフェ。俳優・映画監督の太田信吾(36)がウエイターで入ってきて、コーヒーを置いて去る。湯浅がまたくねくね動き出し、先ほどの「身体の声を聞きなさい」について延々と何か言っている。「波動に身を任せる」「私の身体っておしゃべりなんだ」「身体の声を聞く時に目をつぶる派、つぶらない派」「視覚情報の圧」「波動」とか言い出した。岡田が脇から「身体の声を聞く、という罠にあなたはかかっている」と言い始める。

 
そのまま第三部。岡田は後方の映像として登場。ひとりがふたり、三人に増える岡田、手足を微妙に動かしている。それぞれ「身体の声を聞きなさい」「『身体の声を聞きなさい』ということで、世界の現実から目を背けさせようとしている」「もっと自由でいい」など三派のようだが、「身体の声を聞くことを通じて世界の声を聞く」など言い始めて、湯浅が翻弄され、ふっと終わる。
 ひとり湯浅。

 今回は前日より休養をしっかりとり、寝ることもなく「目を凝らし、耳を澄ま」して観た、すみません。内野先生。いや、わからないから、わかろうとして。。

言葉より先に想像して動く、自己決定と複数の「私」

 終了後、湯浅と太田のトーク。司会・佐藤まいみ。

 前日の岡田参加のトークで、岡田は「想像」について言及したらしい。
 太田「(岡田のいうには)言葉より先に想像、そして動き
 湯浅「言葉は台詞としてあるが、実生活もイメージがあって言葉がある。岡田さんもこの順番。言ってからイメージでなく、先にイメージ、イメージ」「踊っていても、もともとぼやっとしたイメージある。この作品はマルチタスキングが必要で、(台詞を)読んでいるとイメージ出るが、それを身体にトランスミットする時間がある。イメージが沸き立つ時には(台詞を)言い終わっていることが多く大変だった

 さて、お互いに知らない同士だったという岡田と湯浅がブレーンストーミングを経て到達した「ナラティヴ」については、
 太田
「身体がテーマだが、インフルエンサーに翻弄される情報の受け手を戯曲として書いていると思った
 湯浅
「身体の声を聞く、はキャッチ―。これを媒介に日々、ディシジョンメイキングにチョイス。何かを決めることを他人に委ねるのは楽だけど、ディシジョンメイキングは自分でやることですね、の(戯曲としての)レイヤーはきっちりしている」
 太田「『私』という主語、自我がひとつ、という苦しさ。ひとりの人間の中で『私』に集約される複雑さ。自分が言おうとすること、言わされること、両方が『私』にある」
 湯浅「
(ひとりの中に)人格、キャラ、いろいろ持っている。時に変容していく。それがアイデンティティと思う」

 ふーむ。よかったなあ、トークを聞いて。全部わかった、とは言い難いが、なんとなく骨格がわかってきた。岡田が、私に近づいてきた??逆か?

最後の最後に、ナラティヴに“振り付けられて“の意が?

 なお、上記のことと全く異なる、自分の学びは、ダンサーと役者の身体表現の(幅の?)違いだ。湯浅と太田は明確に異なった。いい悪いでなく、違うのだ、多分。わかったことは大きい。

 当日パンフにある岡田氏の言葉。「鏡としての機能」だそうだ。

当日パンフ、岡田氏の言葉

 そして、最後の最後、「埼玉アーツシアター通信vol.100(2022 8-9)」をもらって帰宅。岡田氏の言葉。※太字は私
 ちなみに、「太田(信吾)くんは、次にどういう動きをするかが読めなくて面白くてダンサーの評価が高い」らしいので、作品に“得体の知れない大きな力”のような怖さをにじませる存在としたという。

 「復習」できた、か。

「埼玉アーツシアター通信vol.100(2022 8-9)」10-11p

 湯浅さんに僕が一番興味があること――つまり、身体がさまざまなナラティヴ(人の思考を規定するための物語)のバトルフィールドになっているのではないかという考えを彼女に伝えたところ、すごく興味を持ってもらって、そのコンセプトで作ることになった。
 人の身体に作用する何かを生み出し、その影響を受けた身体の状態を作ることができれば、それは“振り付けられた身体”を作り出したと言えるのではないかと思うし、そういったやり方でダンス作品を作ることに興味がある。

 今はあまりにも容易にあまりにも多くの情報を手に入れることができる、そういう状況下に生きている私たちの身体はいくつもの情報から様々な影響を受けている……つまりナラティヴに“振り付けられて“いるということがしょっちゅう起こっていると言えます。
 ダンス作品が一般的な人々の日常とか、この一般的な世の中ときちんと文脈づけられるということがもっとはっきり起こって、今よりも多くの人が自分の関心事として、コンテンポラリーダンスを観に劇場に足を運ぶということになったらいいのにと思います。そのために僕にできることがあるとすれば、それはダンスを演劇としてつくること、テキストを用いることです。

 なるほど、なるほど!!! 少しわかった気が。。
 たくさん読んで、トークを聞いて、やっと一歩近づいた「気がする」岡田利規。また次の機会に。

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