稽古はどこから始まるか?

稽古照今という言葉がある

古を稽え今に照らすという意味である
つまり、かつての意味をかんがえて、それを現代に照らし合わせてみようということである

古典劇をやっていると特にこの作業の重要性を感じるのだけど
この作業の難しさは古と偏見が混同されがちであるという点にあるように思う

たとえば、ロミオとジュリエットを演出した時に、ロミオを女性のキャラクターとして再解釈して上演した
なので、配役を知らせた時にロミオのところに女性の名前が並んでいたのだけど

ここでかなりの人からこう聞かれた

「男役なの?」と

これが要するに偏見であると思う
確かに、古典劇としてのロミオとジュリエット は異性愛を描いている
また、日本には宝塚歌劇団というオールフィーメールのカンパニーがあり、彼女たちは「男役」と呼ばれる役割を演じる俳優がいることも事実である
ただ、現代の演劇において「女性として再解釈する」という選択肢は当然存在する

ロンドンのカンパニーが上演した「カンパニー」は性別を逆転して上演されているし
日本でも上映されているナショナルシアターライブなんかを観ていると、シェイクスピアを始めとした多くの劇の上演においてかつて男性が演じていた役を女性として再解釈しているものも多い
また、ブロードウェイのミュージカルなんかにおいても、ライオンキングのラフィキはジュリー・ティモアによって女性のキャラクターになっているし、ピピンはリーディングプレイヤーの役を初演時は男性が、再演時に女性が演じてその二人ともがトニー賞を受賞している

つまり、キャラクターの性別を変更し、再解釈して上演するという手法は特に新しさのあるものではない
なので、本来であれば一定数は「同性愛の物語なの?」という質問があっても良いと思うのだけども、やはり聞かれるのは「男役なの?」である

別にこれを無理解であるとは思わない
これは所謂ジェンダーバイアスと呼ばれるものだと思うし、社会やあるいは多くの劇作家が「異性愛」を前提として物語を創り、それを提供してきた結果だと思う
また、ロミオとジュリエットでそういう演出をした意図の一つとして観た人の脳を混乱させるというのもあったので(実際にバイアスがある人ほど混乱したようなので成功である)そういう意味で今に照らすことができていたようであるのだけど

問題はこの古と今の間のギャップがどんどん広がっていくという点にある
最初にも書いたようにこの古と偏見は混同される
というのはつまり、自分自身が思い込んでいることが=古、つまりはこれまでにやられてきたことだと思い込んでしまうのである

女性として再解釈することを新しいとか斬新だとか今っぽいなどと言われることもあったのだけど、先に述べたようにすでにいろんなところで行われていることである(少なくともライオンキングは1996年の時点でそうだったのだから)
そして、だからと言って別に何も変わらないのも事実である
男性が演じようと女性が演じようとロミオはロミオなので、性別によって役割がわかれているなどという偏見なしに観れば普通にロミオとジュリエットになるのである
(ちなみに「もっと女性らしい表現があるべきだ」というのは舞台を観て混乱した人から多く寄せられた感想である、混乱しなかった人は「同性愛でも異性愛でも愛することは同じなんだと感じた」という感想を持った人が多かった)

今を考える時に重要なのは新しく増えたのではなく、偏見が薄れてきた中でようやく見え始めたことというのがあるという点である
そして、それをかつてはなかったと捉えてしまうと稽古の探求がそこで止まってしまう
この偏見は古も今も見えないものにしてしまう
なので、稽古場に入るまで我々はその「偏見」と立ち向かわなくてはならない

偏見と立ち向かうというのはそれを取り除くという意味ではない
自分がそういう偏見を持っている可能性があるということに気づくことである
そしてこれは何も同性愛云々に限ったことではないのである

キャラクターのステイタスを演じる時にもこの偏見は現れる
王様らしい話し方、父親らしい話し方、母親らしい話し方、子供らしい行動
こういったもの全てがその偏見である
悪役は悪役ではなく、別の正義を持った人間であるように
行動の根本にある思想や衝動に目を向けるために、 私たちは偏見を知らなくてはならないのである
そして、そのためにできることは「知る」ことしかないと思う

今まで興味のなかったもの、知ろうともしなかったこと
そういうことに目をむけ、考えること
そこから僕たちの稽古は始まっているのである

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