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出社に非現実性を求め、THライナーに乗る

 十一日ぶりに出社した。本格的な在宅勤務シーズンが始まってからの第三号。頭の中にはフジテレビはプロ野球ニュースの今日のホームランのテーマ曲。ペースとしては巨人の篠塚くらいだろうか。
 緊急事態宣言下よりかは幾分日常に戻りつつある通勤電車に乗り、辺りを見渡すと、いつの間に夏の通勤風景であった。都心の最寄駅徒歩十分よりも、群馬の徒歩〇分のオフィスの方が快適に違いないとブツブツ文句を言いながら、日陰のない坂を登ると滂沱の汗。ただ、天晴れにも、通勤途上で消臭と瞬間冷却をうたったデオドラントシートを購入していたのである。我ながらできる男とは、己のことをいう。
 出社の理由は、本日より勤務開始する派遣スタッフのパソコンのセットアップであった。ヘルプデスクの加賀さんが「仕方ないな。終わったら即刻剥奪する」と一時的に得たゼウスのごとくパソコンの管理者権限により、縦横無尽自由気ままにアプリケーションのインストールしようとするが、思っていた以上にうまくいかない。むむ……。
 せっかくだから、己がモニタを自宅へ持ち帰ってしまった自席ではなく、在宅勤務シーズンインとともに無人の島と化し、兵どもが夢の跡となって久しいITチームの、退職したばかりの佐世保さんの保有してきたオフィス内最大インチを誇るモニタの前に陣取り、頭を悩ませていると、バッと目の前のドアが勢いよく開いた。
 飛び込んできた河埜さんは、私の顔を捉えると
「おっ、久しぶり!」
と声を掛けてきた。
 荒涼としたアメリカ南部の砂漠地帯。砂煙を巻き上げながら爆走するアメ車のオープンカー。カーステレオからはトップガンのテーマ曲。そんな河埜さんの勢いに押されて、私は壁際へ追いやられ言葉がなかなか出てこず、必然として、河埜さんの独占場となる。
「これは、私がブログに登場するパターン?」
河埜さんのこの言葉は、未来予測ではなく、要望、要求、命令と捉えたので、本稿に登場するのであった。

 すっかり夏。
 久しぶりの出社に浮かれた私は、誰も誘わず一人でランチへ行く。冷やし中華ではなく、冷やしラーメンをすすり、普段は近寄らないスターバックスなんて洒落たカフェにたちより、ごろっとイチゴのフラペチーノをジュジューとすする浮かれポンチのこんこんちきであった。

 閑散としたオフィスであることをいいことに、昼を終えると最大インチのモニタを隠密に自席へ移動し、今後の快適な出社ライフを念のため整える。そして、そのまま勤務。自宅の椅子と違い、会社の椅子は快適で、首も腰も痛くならない。在宅勤務の固定化に備えて、持ち帰りたく仕方ない。
 派遣スタッフでの業務の指導のほとんどは同じく出社した有山くんがほぼ全てやってくれ、私は定時に引き上げる。十八時〇二分までに霞ヶ関駅に行かねばならなかった。

 二◯二◯年六月六日。東京メトロ日比谷線から東武伊勢崎線へ直通する新しい特急「THライナー」が誕生したのであった。この特急があれば、日比谷線を毎日ぶっ通しで乗っていた大学一年生の時、どんなに楽であったか。今の会社に入って間もない頃、恵比寿から北千住方面行きの東武線直通の日比谷線に乗っていると、途中の六本木で雑誌ニキータ好きの十五から二十くらい歳上の女性先輩である高井さんが、私に気づかないで隣に座ってきて、私もここで話し掛けて北千住まで一緒なのは辛いと熟睡したフリをせざるを得ないこともなかった。北千住を通過するので。
 というわけで、久しぶりのケビりである。
(ケビる=特急を移動ではなく、己が好きな時間を過ごすための場として活用していたニュージーランド人ケビンという同僚の行動を動詞化した有山くん発案の用語)

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 惜しむらく、各駅電車にも使えるようにと簡素的な特急であるが故に、ビールを飲んだり(そもそも霞ヶ関駅で手に入らない)、パソコンを広げたりという雰囲気はないもの、車窓は新鮮である。特急とはいえ、地下鉄線内は先行電車を追い抜けないものだから、通過駅分の時間を加味すると、各駅電車よりも遅い。しかし、進行方向に向いた座席からゆっくり通過する地下鉄駅に並ぶ人々からは「なんで、こんな電車走っているの?」と訝しみながらも、羨望の視線を浴びせられている気がする。
 一度乗ってしまえば、次に降りられる駅は紛うことなく埼玉の新越谷である。これは埼玉県民様専用列車。都民は立錐の余地もない各駅電車でも乗ってろ、とそこら辺の草を食べながら思うのである。

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 新越谷で武蔵野線に乗り換えた方が自宅へ帰るには圧倒的に早いが、霞ヶ関駅へ向かう途中で気が変わり、そのまま終点の久喜まで乗り通すことにする。昼から私は浮かれポンチのこんこんちきであるのだ。

 久喜からは都合よく宇都宮線の通勤快速がやってきた。埼玉県北部にある久喜の次は大宮という速い電車。六月の遅い夕暮れの関東平野を疾走すると、新型コロナウイルス以降の全ての現実が詰まった自宅はもうすぐであった。帰宅後、三十分で夕食とシャワーを済ませ、子どもたちの寝かしつけをせねばならない。

サポートしてもらって飲む酒は美味いか。美味いです。