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【四十五歳中央アジア紀行 0日目】飛ばないイスタンブール

 久しぶりに出社した、九月のとある日。
 ほとんどが在宅勤務のせいで閑散としたオフィス内で、私は東野出さんに話しかけた。
「妻という立場でさ、二週間くらい一人旅に出る夫ってどう思う?」
 東野出さんは、業務ではほとんど絡みはないが、近しい年齢だ同じ釜の飯を食らっているので、たまに話をする。そして、二人の男の子のママということで、妻に対してそうであるように、私は東野出さんには頭が上がらない。 東野出さんは、ヘアドネーションして短くなった髪をかき上げて、言った。
「それはさあ、全くありえないわ。」
「やはり。もし今後熟年離婚で自分が家から放り捨てられたとしたら、今回の一人旅が大きな要因に過ぎない、」
「でもさ、多分行っても行かなくて同じだよ。そうなるんだったら。家で二週間ずっと寝転がっていたら、それはそれで離婚の原因になるしさ。だから、とりあえず奥さんに言ってみたら? 言ったら報告よろしく。」
 一時間後、オフィスで混迷したプロジェクトの件で話しかけてきた炭水さんにも相談してみた。
 夏休み明けの小学生のように健康的に日焼けしつつも、家では三人の子を力強く育てる炭水さんは勝山氏を問い詰めた。
「それは今すぐに奥さんに言うべきです。いつ言いますか?いつですか?いつにしますか?報告よろしくです。」
「うん…、それじゃあ今日家に帰った後……かな?」

 三週間のリフレッシュ休暇の使い道に迷っていた。
 そのうちの一週間は、小学生の息子の夏休み中に名古屋旅行(ナガシマスパーランド)で消化済みだった。残り二週間。
 リフレッシュ休暇が視野に入ってきた昨年、私はシベリア鉄道六泊七日を夢想した。ペットボトル入り二リットルビールとウォッカの瓶を小脇に抱えて、ひたすら寝台車の席で寝転がりながら、ユーラシア大陸で横断する。
 プーチンの邪な野心の暴発によって潰えた。
 そうなると、やはりトルコであった。
 イスラム史の専攻に入り、出来の悪い学生なりに破れかぶれ字面を原稿用紙に埋めて、自暴自棄に提出した卒業論文のテーマは広い意味ではトルコ史であった。
 そして、一度トルコへ行き、しつこい客引きに導かれた絨毯屋に騙されつつも、イスタンブールの虜になった。
知っているアジアともヨーロッパとも違う、混じり合った文化。
 ガラタ橋の上から釣り糸を垂らすおじさん。釣り上げた魚の発する生臭さ。狙うカモメ。ライトアップされた巨大モスクから流れるアザーンをBGMに、対岸のアジアに渡るフェリーの甲板の上で、遠ざかっていくヨーロッパをぼーっと眺める。
 また、行きたい。
 妻ともイスタンブールへ行き、それからしばらく経済的かつ家族的都合でしばらく行けなかったものの、遠くにありても思い続け、五年前のリフレッシュ休暇では家族を日本において単身向かったドイツでの兄の結婚式ついでに、せっかく行ったのだからと、トルコ文化の濃いボスニア・ヘルツェゴビナまで陸路で移動して、イスタンブールへ飛んだ。
 私のリフレッシュ休暇はトルコと共にあるべき。

 翌々日、私は意を決した。
 対峙する妻に、まずは妻を飲む。そして口を開く。
「あの、あと二週間の休み、どうしよう。」
「断食道場に行けば?もっと自分に厳しくしたほうがいい。」
「ああいうのって、意識高い系の女子を意識してるじゃん。見て、この寺がやってるやつ。このオプションサービス。瞑想とか、ヨガとか、ピラティスとか、住職へのお悩み相談とか、酵素ドリンクとか。あぁ気色悪い。虫唾が走る。蕁麻疹が出る。断固拒否。」
 スマホをいじる妻は言う。
「これいいじゃん。『日本一厳しい断食道場』。滝行もある。真冬に行ってこい。」
「厳しいのは断固拒否。三十六計逃げるに如かず。夜陰に紛れて逃亡する姿しか見えない。」
「じゃあ、どこへ行くの?」
「う……、まだ決めていない。」
 妻の圧力に惨敗し、トルコに行きたいと打ち明けることはできなかった

 東アジア諸国を除いた諸外国はコロナによる入出国規制を大幅に解除していった。コロナ禍の状況は小康状態であり、黒海の対岸で始まった戦争も、プーチンはトルコに手出しできないだろう。
 妻に言えないままでありながらも、トルコ行きの布石は打たねばならない。九月末にパスポートの更新申請をした。『地球の歩き方 イスタンブールとトルコの大地』をこれ見よがしに、家の妻の目に入りやすい場所に置いてみた。

 十月中旬。
 来月に行かなければ時間切れだと、「今日こそ言おう」と毎日決意し続けていた十月中旬。
 あまりに「旅行へ行く」と言っておきながら、一向に日程も行き先も言わない夫2号を煮やしたのだろう。妻が問い詰めた。
「結局、どこへ行くの?」
 ついに白状する時が来た。
「トルコ。」
「トルコ!?」
「ふーん、家族みんなを置いて、一人で行くんだね。」
「だって、こんなチャンスないしさ。もう家族の休みと合わないしさ。どうせ家でゴロゴロ二週間していてもさ。」
「ふーん、まあいいけど。」

 家族を日常に漬け込んだままとし、勝手気儘に非日常を謳歌せんとする人でなしとして、どこに出しても恥ずかしい父の称号を得た。
 子どもたちの湧き起こる大ブーイングは心を抉る。それでも妻の承認は得たのだ。
 だが、大きな障害があった。
 円安と、エネルギー危機によるサーチャージの高騰である。
 航空券は十万円以下を目論んでいたものの、直行便は二十万円を超えていた。カタール、アブダビ経由ですら十五万円を超えていた。九月まで十三万円程度と最安値をつけていた九アディス・アベバ経由のエチオピア航空も十月に入ると、十五万円を超えてしまった。
 毎日のように格安航空券のチケットを検索し続けた。
 ポッと、MIATモンゴル航空が十一万円で出てきた。
 ウランバートル経由。
 これだ。
 トランジットのウランバートル一泊は楽しいアドベンチャーだ。
 東横INNウランバートル店の存在を確認し、いざチケットを予約せんとすると、売り切れてしまった。
 東京発はダメだ。
 それならば飛行機の便がよりたくさんあるソウル発はどうか。
 幸いなことに、必要だった韓国ビザは撤回となり、PCR検査も不要と、入国における不安が排除されていた。
 東京からソウルはどうするか。
 何年も前に社員旅行で溜まったデルタ航空の使い道に困っていたマイルがあった。
 カザフサタン経由のエア・アスタナが見つかった。
 十万円。
 即座に予約した。

 トルコの旅程を立て、列車のチケットや現地での国内線のチケットも購入し、すべてのホテルも予約した。
 仕事においても、ここ数年携わった中で一番大きなプロジェクトも一か月遅れで、かろうじて旅行前に完了していた。
 出発まであと二週間余りの十一月十三日の夜。ベッドで寝転がりながら、スマホでツイッターのタイムラインを眺めていると、一つのツイートに衝撃を受けた。

まじか、イスタンブール。

 トルコ旅行に向けてフォローをしていたアカウントのツイートであった。添付されていたリンク先を読む。
イスタンブール一番の繁華街イスティクラル通りでテロ事件が発生したのだった。
 このテロをどう評価するか。
 翌日、犯人はクルド系の武装組織だとトルコ政府が発表した。
 今回、私はトルコ東部を旅する旅程を組んでいた。
 トルコ東部はクルド人の多い土地。
 真犯人がクルド系ではないのかもしれない。ただ事実がどうであれ、トルコ政府が断罪した以上、クルド人の多い土地を旅するのはあまりにリスクが高いだろう。
 そして、サラリーマンであり、家族四人の主要収入源という立場もある。リスクを承知の上でトルコへ渡航し、もし何かあったら。たとえ無事であっても苛烈な誹りは免れないだろう。
 トルコに行きたい気持ちが一挙に萎んでいった。
 下記旅程よ、成仏を。南無。

11/29(火) 
浦和→東京→(大韓航空KE2104)→ソウル
11/30(水) 
ソウル→(エア・アスタナKC910)→アルマトイ→(エア・アスタナKC911)→イスタンブール
12/01(木) 
イスタンブール→(トルコ高速鉄道)→アンカラ→(Doğu Ekspresi/東方急行)→
12/02(金) 
→(Doğu Ekspresi/東方急行)→カルス
12/03(土) 
カルス→(バス)→ウードゥル→(ドムルシュ/乗合ミニバス)→ドゥバヤジット
12/04(日)
ドゥバヤジット→ウードゥル→(ターキッシュエアウェイズTK2721)→イスタンブール
12/05(月)
イスタンブール→(エア・アスタナKC912)→
12/06(火)
→(エア・アスタナKC912)→アルマトイ
12/07(水)
アルマトイ→(エア・アスタナKC909)→ソウル→(大韓航空KE2103)→東京→浦和

 己の慧眼に感服するほかない。
 ソウルからイスタンブールまでは最安値よりは数千円高いキャンセル可能の航空券を購入しており、またすべてのホテルも多少高くてもキャンセル可能のものを予約していた。
 航空券は数千円のキャンセル手数料がかかってしまったものの、許容の範囲であった。
 ただ、マイルで獲得した東京ソウル間の航空券が余ってしまった。
 韓国で七泊八日……。
 何をしよう。
 韓国食い道楽の旅となり、七泊八日ひたすら韓国料理を食べまくったあげく、大台を突破した膨れ上がった己の醜体が容易に想像できた。
 ソウル発の航空券を検索した。
 ウズベキスタンだった。

 ウズベキスタン。
 日本で生まれ育った中高年は須くシルクロードに憧れるDNAを有する。どっぷりと中年の沼に沈む私も当然有する。
 ウズベキスタンはシルクロードを行く隊商の疲れを癒すオアシス都市が点在しており、ティムール文化が華開いたサマルカンドなど、イスラム文化の一つの中心でもある。
 いつかは訪れたい国であったが、今後非常に稀な海外一人旅の機会を考えると、きっとトルコを選択する。
 それならば、今回こそウズベキスタンを旅する千載一遇の後期ではないか。
 即座にソウルからタシュケントまでの航空券を買い直し、旅程を組み直し、列車のチケットをオンライン購入し、ホテルを予約した。
 航空券は念のため、キャンセル可能のものとして、ホテルも予約可能のプランだ。
 あとは、アザーディスタジアムのイラン代表サポーターのように苛烈なブーイングをする息子たちにヘコヘコし続け、出発当日を迎える。

【ここまでの費用】
2022/09/27 パスポート ¥16,000
2022/10/14 航空券ソウル→イスタンブール ¥112,270
2022/10/24 航空券 東京→ソウル ¥7,110
2022/10/26 韓国K-ETA申請 ¥1,115
2022/11/02 トルコ鉄道 アンカラ→カルス ¥2,133※
2022/11/02 国内線航空券 ウードゥル→イスタンブール ¥9,663※
2022/11/15 トルコ鉄道キャンセル ¥-1,873※
2022/11/15 国内線航空券キャンセル ¥-9,514※
2022/11/15 航空券キャンセル ¥-106,000
2022/11/15 航空券ソウル→イスタンブール ¥80,260
※1トルコリラ=7.43円

1日目の旅行記はこちら

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