見出し画像

福田翁随想録(5)

 死者は無限の時間を生きる

 中国統一を果たし、勢いに乗っていた秦の始皇帝は、徐福(じょふく)を東方の蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)の三神山につかわして不老長寿の妙薬を探すように命じた。
 生を享(う)けたからには大方の誰もが不老長寿を願う。
 畏友・嵯峨座晴夫早大教授は友人の作った富士山甲府の桃源郷に案内されて考えた。
「理想郷における長寿とは皆が健康で長生きすることにある。すべての人が平均寿命で死ぬことを意味する。人が平均寿命で必ず死ぬという決定論的世界である。そんな世界は楽しいだろうか。すべての人が八十歳から百歳で死ぬ変化が生じたらそれだけ理想に近づいたといえるだろうか」(『人口学の周辺を歩く』家庭計画国際協力財団)
 桃源郷や理想郷では誰もが他の人より早くは死なないはずであるが、与えられた平均寿命がきて一巻の終わりというのではあまりにも味気ない。
 われわれは、長寿はもとより不老にもこだわる。それは不死に近いかもしれない。永遠の生命というものにあやかりたいという願望である。「永遠」といえば「時間」を切り離しては考えられない。
 おかしくも私に忘れ難い思い出がある。
 まだ小学校にもあがらない五歳頃、雪の降る日炬燵にひとり尻を包み込んで森永キャラメルの空箱を眺めていた時のことである。
 金髪の少女が合わせ鏡で自らの顔を映しているのだが、その顔が鏡の中で長い廊下のように先の先まで写っている。
 今は意匠が変わって見ることはできないが、頑是ない子どもの私が無限の空間と時間をその空箱の絵から感知したのだ。もちろん子ども心にこのような平面の二次元から立体や時間までの四次元の概念の把握ができるはずもないが、後年になってこの時のことをよく思い出す。不思議にも強く印象に残っている。
「時間」は、われわれの持っている二十四時間時計ですべてを律することはできない。
 われわれは地球人だから自転によって二十四時間が必要だが、かりに木星にいるとしたら十時間時計でなくてはならない。
 宇宙飛行では地球を一周するのに一時間半ほどしかかからないそうだから、その限りでは二十四時間時計は意味がない。
 織田信長が戦場に臨む時歌ったといわれる謡曲「敦盛」は有名だ。

  人間(じんかん)五十年
  下天(げてん)の内をくらぶれば
  夢幻の如くなり
  ひとたび生を享け
  滅せぬもののあるべきか

「下天」は仏教説話の六欲天の最下位の四王天のことで、彼の一昼夜は人間には五十年に当たるといわれる。
 時間感覚が誰にでも公平に経過するわけではないということがこれからもわかる。多様である。
 オーストラリアの原住民は過去を現在とつながっていて循環していると考えているので過去を古いというような見方をしない、と畏友・新保満教授は語っている。
 近代の時間感覚は、次の短歌からもいみじくもその違いがわかる。

 地球時間ときを刻めど死者たちは
 それより老いず 瞠(みは)りたるまま 
 
『秋天瑠璃』(斎藤 史)に収められているこの秀歌がよく知られているのは、詠者があの二・二六事件にかかわる縁者であるからだという。身近に勃発した事件の凄さにうたれ哀悼の気持ちが高揚して詠んだのかもしれないが、私はそのような特殊な事情を離れて一般化して考えたい。
 地球時間は物理時間と言い換えてもよいであろう。宇宙発生以前の無限の彼方の過去から将来に向かって途切れなく同じ速度で直線的に進んでいる。それは飛んでいる矢のように流れており、われわれ有限の身体はその流れにすべてを委ねるよりほかなんともならない。したがって時間を経るうちに確実に死の方向に進んでいく。いかなる力をもってしてもそれを阻むことはできない。
 しかしこれは亡くなってしまった人にはなんの関わりもない。詠者はその視点から死者に対して「それより老いず」と直感したのではなかろうか。
 死者は老いないから二十四時間時計を必要としない。無限の時間に生きているともいえようか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?