見出し画像

福田翁随想録(7)

 「種」としての地上の孤児

 私は河原の土手を散歩していて、あちこちで目につくモグラ塚を見ると、いつもご苦労なことだと思う。
 地上といわず地下にどれだけの種の生物が、どんな独自の習性に従って生存しているのか知らないが、モグラ社会ではどんな手段でコミュニケーションを交わしているのか考えたことがある。
 地中で一生孤独なはずはなく、オスはメスをどうやって招くのだろうか。土中である種の電波のようなものが有効に働いているのだろうか。特有の体臭のようなものが届いているのだろうか。鳴いたとしてもその音波の伝わる効率は悪かろう。
 それなのにモグラ族は、今日なお地球で「種」を絶やしていない。われわれが知らないだけで、彼らにしか通じない交信可能な伝達手段があるのに違いない。
 ハトやカラスの群れにも会う。彼らにも彼ら特有の伝達能力があるようで、どうかした拍子に一斉に申し合わせたように飛び去ったりする。 
 習性に止まらず、不思議な霊力のようなものを備えているのではないかと思わせる事例もある。カマキリはやがて降る雪の量を予測して卵を安全な高所に産むという。また仙台大地震の前日飼っていた鶏が突然狂ったように騒ぎ出したというニュース報道があった。
 私が淡路島で一ヵ月の断食をした時、いかにわれわれの五感が機能を低下させるか、生命の危機から身を守ろうとするのかを、飢餓状態にわが身を晒して初めて知った。
 地球の温暖化が警告され、オゾン層の破壊が心配されているが、この地球の気候変動が悪化し続けるとしたら、狐でも狸でもその環境の変化に順応する変種が生まれたり、北極にでも住むことができるような適応力を身につけた個体が誕生したりするのかもしれない。
 人類はこのような霊力とでも言いたい力に注視することなく、「技術」優先で生存し続けてきた風変わりな、地球上でただ一つの「種」だといってよいだろう。
「技術」によって無限定の適応を可能にしたことによって、人類という「種」は分化することができなくなった。霊長類などと勝手に分類しているが、実は遅かれ早かれ破滅する方向に向かっていることを知らなくてはならない。(←不明)
 かるが故に最近遺伝子工学の助けをかりてヒトの遺伝子を他の生物に移したりする研究も進んでいるらしいが、これとて滅亡の予見に対するささやかな抵抗といえるだろう。
「技術」は禁断の果実のようなもので、もはや人類から取り上げることはできない。敢然(かんぜん)として欲望の抑制でもしないかぎり不可能だろう。
 今日享受している生活水準を調節するということになると、たとえば冷暖房施設の撤去などが想起されるが、これだけでももはや現代社会では到底考えられない。
 世の中には楽観論者がいて、このような考えを一笑に付すが、これは思考から逃げていることで無責任と言わざるを得ない。こんな人にはミジンコの繁殖状況を顕微鏡を突きつけて観察させてもらいたい。
 ミジンコは繁殖し続けるとやがて死滅する。ただこれが超過密による爆発かどうか、科学的にはいまだ解明されてはいないが。

 われわれ人類は「技術」と「智慧」によって平均寿命を延ばしてきた。その反面、高齢者をはじめ弱っている人たちに対する介護といった、他の動物にはみられない「宿命」ともいえる「重荷」を背負うことになってしまった。
 地球上生きとし生けるものがどれほどいるかわからないが、かくてヒトは他の種とは断絶した「孤児」となり、生物的にも社会的にもピンチに立たされていることを知る。
 自らが作った物質が性ホルモンに成りすまして攪乱していることが分かってきた。これなどは天に向かって唾した結果としか言いようがない。東京の多摩川で鯉を調査したところ卵巣が以上に縮小しているメスがたくさん見つかったという。  
 アメリカ南西部の大平原を雲のように動いて移動する羊の群れを眺めたことがある。
 牧羊犬が忙しく立ち回り離散を防いでいるのだが、その群れの中の一頭が歩き疲れたのか具合が悪くなったのか、いくら急き立てても動かなくなった。
 その群れについていけなくなった羊に、私は地上の孤児になっている「ヒト」の姿をだぶらせていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?