座右の銘
花無心招蝶
蝶無心尋花
花開時蝶来
蝶来時花開
吾亦不知人
人亦不知吾
不知従帝則
花は無心に蝶を招き
蝶は無心に花を尋ぬ
花開く時 蝶きたり
蝶きたる時 花開く
吾れも人を知らず
人も吾れを知らず
知らずして帝則に従う
良寛 (1758~1831/江戸後期の禅僧) の漢詩。
帝則 (天地自然の摂理)。
*
この漢詩にこめた良寛の思いをどう読み定めるべきなのか、迷っている。
「帝則に従っている」ととるか、「帝則に従っていく」と読むかで、大きく見方が変わってくるからだ。
前者は、天地自然のすべてがその摂理の中に存在している、という状態に心穏やかに思いを沈めている。後者は、その摂理の中で生きていくという姿勢というか心構えを冷徹に表明している。
この「いる」と「いく」のいずれの読みに、良寛の真意はあるのだろうか。
初めてこの記事を揚げた時は、私はこう書いた。
我人を知らず
人もまた我を知らず
帝則に逆らわず
唯々として生きる
その後何度か読み返しているうちに、なんか違うなと思うようになってきた。それでつい先日、前の二行を削除した。
社会と自分、人と自分という関係性を意識している、気にしていることに気づかされ、それがうるさくなったのだ。そんな周囲の眼や評価はどうでもいい、自然の摂理の中であるがままに生きている、生きていこうというのが自分の思いに近いと感じたからだ。
先の後者の解釈の方へより強く舵を切ったことになる。
時が経てばまた違った思いが頭をもたげてきて書き改めることになるのかもしれないが、今現在はここに落ち着く。
帝則に抗わず
唯々として生きる
歳経ると、余計なものが視えてくる。
改むるに如くはなし。
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