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シズカとコズエと ⑤


 5 限界集落

 シズルはシズカが順調に成長期を経て成熟期を迎えつつある頃から、本気で空き家バンクや情報サイトで中国、四国、九州の古民家物件を探し始めた。
 気になった物件があれば実際出かけて行って内覧して回った。そしていまの過疎化しきった限界集落の古民家にたどり着いた。
 住民が都会へ出ていく一方新たな移住者がほとんどなく、残された高齢者も減っていき、集落としての機能が限界に達している山間地域だった。かつて支えていた林業も農業も衰退してしまっているのだから、当然といえば当然な成り行きなのだ。
 これはこの集落に限ったことではない。いま日本全国のあちこちで加速度的に起こっている現象なのだ。産業が衰退し、人口が減っていき、そして廃墟化していくというのは、農業、漁業、林業集落だけの話ではない。かつて数万、数十万の人口を抱えていた都市部でも起こってきたことだ。鉱石で栄えていた地域、石炭で隆盛を誇っていた地域などが思い浮かぶ。
 人が住まなくなって手入れしなくなると、家屋は急速に朽ちていく。そして廃墟となる。シズルが移住を決めた集落にも廃墟化した古民家が数多く存在する。かつての住人が時々帰ってきて草を刈ったり、手入れしたりする家屋は、かろうじて廃墟化を食い止められている。
 シズルが住んでいる古民家の近くには、数軒セカンドハウスとして使われている様子の住居があるにはあるが、ほとんど誰も住んでいない。まれにコズエのようなナチュラリストが気まぐれに湖を見にきたり、キャンプしに来たりするくらいで、人の姿を見かけることはそう多くはない。
 渓流に沿って走る県道は舗装され、ガードレールも付けられている。その県道沿いには数軒高齢者が住んでいる家屋があった。
 シズルの住居近くの藁葺家屋などは、赤さびのトタン屋根が風雪にさらされ異様に変形し、うら寂しさを漂わせている。蔦などのつる植物が壁いっぱいに蔓延っている。玄関らしき辺りには背の高い雑草がびっしり生い茂り、人の侵入を妨げている。
 動物や植物は次から次へと世代交代しながらも、自然の景観を損なうどころかグレードアップされていくように見える。そんななか人間の作り出したものは放置されれば朽ち果て、醜さ、おぞましさを晒すばかりだ。

 シズルがシズカと滝野湖を周回する道を散策していると、背後からオフロードバイクの音が近づいてくる。シズルは数か月前に出会ったコズエのことを思い出した。
 もしかしたらそうかな、とふっと思った。振り返るとそうだった。見覚えのある、革ジャン、濃紺のジーンズ、黒のフルフェイスヘルメットのコズエだった。
 今度もコズエの方から声を掛けられた。
「こんにちは」
 ヘルメットのシールド越しに彼女と目が合った。
「憶えてる? あたしのこと」
 シズカがバイクに坐っているコズエを見上げてシッポを激しく振っている。
「シズカは憶えてくれてたんだあ。シズカはあたしのこと好きみたい」
「………………」
「そう思わない? こんなにシッポ振ってあたしのこと見てるじゃない」
 コズエはバイクを降り、ヘルメットを被ったままシズカの頭を撫でた。シズカはかつてのように彼女の手を舐めた。
 コズエはバイクを押しながら、シズカとシズルと並んで歩いた。申し合わせたわけじゃないのに、シズルとコズエと、そしてシズカは、初めて出会った滝野湖のベストビューポイントまで歩き、立ち止まった。
 コズエはバイクのスタンドを立て、ヘルメットを脱いだ。ロングの黒髪はセミロングに変わっていた。 
 コズエが楢の倒木にシズルと並んで腰を下ろすと、すぐにシズカが寄ってきてコズエの顔を舐めようと彼女の膝に足を乗せた。コズエはそれを拒まなかった。

 暖冬続きで、本格的な冬の寒気の訪れが遅くなっている。その気候の影響は森の樹木たちにも反映している。季節は冬に入っているにも関わらず、滝野湖の周囲はまだまだ晩秋の佇まいを見せてくれている。
 楢やブナ、ケヤキなどの広葉落葉樹の自然林にかこまれていて、人工林が少ない。杉林が少ないのは、この地の環境が杉やヒノキに適しないからだ。そのおかげでこの地域の広葉樹は伐採されずに残されている。
 湖周りには秋の落葉樹の代表格であるイロハモミジやヤマモミジ、トウカエデが落葉しきらず、鮮やかな赤や黄色に色づいた葉をつけている。楢やブナ、ケヤキなどはかなり葉を落としてはいるがまだまだ黄や褐色に彩られている。
 建材としてもてはやされる杉やヒノキの植林が盛んにおこなわれれば、当然自然の生態系が壊れる。広葉樹の栄養豊富な落ち葉がその土地を肥し、川、その先の海の栄養分を豊かにし、動植物を育む。広葉樹を伐採し、杉やヒノキばかりを育てていけばどうなるかは容易に想像ができる。
 シズルは幼いころからずっと、一度気に入った景色を前にすると同伴者がいようがいまいが、いつまでも飽くことなく同じ景色を眺め続けていることができる。この時も同じだった。コズエが隣に坐っているのにほとんど会話らしい会話もなく、ただ無言で景色を眺めていた。
 なにか興味をそそられるものがあって、その展開や変化を観察しているわけでもない。ただ眺めているだけなのである。その眺めている状態がとても心地いいのだ。過去にも連れがいるのに、ひとときその連れのことを忘れて足を止めていたことがあった。当然その相手は怪訝に思う。「どうした?」とか「なにを考えているんだ?」などと尋ねられる。
「無口なんだね」
「………………」
「昨夜ね、ふっとシズカのことを思い出したのよ。どうしてるかなって考えはじめちゃったら無性に会いたくなっちゃって、それで今日来たのよ」
「そうだったんだ」
「元気そうで、安心した。シズカ」
 シズカはコズエの前に坐ってじっと見つめている。時々首を傾げて見せている。コズエが頭を撫でると、またその手を舐めた。
「ここひとけがないね。寂しくない?」
「ない」
「まあ、シズカがいるから、平気か」
「………………」
 それからかなりの時間沈黙が続いた。コズエにその沈黙を耐えている風はなかった。
 シズルのこの性癖に理解のある人、散歩を共にする仲のよい連れ合い、それに心に余裕のある人ならば受け入れてもらえるかもしれない。
 それに近い気持ちを持った人とめぐり合いつき合っていたことがある。その人でも、長い時間となると「もうそろそろ行かない?」とか言い出して、仕方なくその人に従うことになるのが常だった。その人の促しに「いやまだここにいる」と強情を張ったことはない。相手にとって自分の行動が大変合わせにくい、至極迷惑なことであるのが充分わかっているから、そこまで言われて異を唱えることはできない。
 山中などで心ゆくまで眺めているときは、シズルの周りにゆったりとした時間が流れていく。この旧瀬滝村の限界集落に移り住むようになってから彼のこの欲求はかなり満たされていて、穏やかに暮らしていけている。春、秋の夕暮れ時などは最高だった。なん時間でも好きなだけ景色を眺め続けることができた。

「じゃあ、そろそろ帰るね」
 コズエはシズカに顔を向けてそう言うと、シズルを見ずにバイクの方へ歩き出した。
 そのときシズカが悲し気な声を漏らした。シズルがシズカを見ると、シズルになにかを訴えるような仕草をした。
「どうした、シズカ」
 シズルが問いかけると、シズカはシズルに許されたとでも思ったのか、コズエの後を追って駆けだした。
「シズカ!」
 静止させようと声を出したときには、シズカはすでにコズエのところに達していて、彼女の腰のあたりに前足を掛けていた。
「ついてっちゃだめだ」
 シズカはシズルの方を見ずに盛んにシズカに媚びをうっている。
「そっか、そっか」
 コズエがシズカの頭を両手で挟み、シズカの濡れた鼻にキスをした。
 シズルがコズエとシズカのところに寄ってきて、シズカの首輪を掴んで自分の方へ引き寄せた。
「やっぱ、シズカはあたしのことが好きなんだよ」
「みたいだ。困ったもんだ」
「なに困ることがあるのよ?」
「………………」
「また来るからね。それまで元気にしてるんだよ」
 そういうとヘルメットをかぶり、バイクにまたがりエンジンを掛けた。
「またね。バイバイ」
 スタンドを跳ね上げ、シールドを下ろし、県道へ向かって走り出した。

 ――⑥に続く

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