頑張らせることと無理をさせないことーー運動会練習の事例ーー

かつて書いた私の実践レポート。
全く褒められたものではないけれども、アップしてみようと思う。

先日、私の勤務校の運動会がありました。幼少期、足が遅かった私にとって、運動会はあまり好きではない行事でした。けれども、教員になってみて感じるのは、大多数の子どもたちが運動会をとても楽しみにしているということです。運動会があまり好きではなかった私にとって、こんなにも子どもたちは運動会のことが好きで楽しみにしているということは驚きでした。また、担任をしてみて、運動会に向けて頑張るという経験は、子どもたちを成長させるということも実感しました。
さて、今回の記事では、運動会の事例をもとにして、子どもの指導をする際の頑張らせることと無理をさせないことのバランスをどのようにとるかということを考えていこうと思います。子どもへの指導が適切な指導になるのは、無理させ過ぎないけれども、頑張らせることができているときだといえます。小学校高学年以上になれば、だんだん自分で調整できるようになっていきもしますが、とくに、相手が小学校低学年であれば、先生が子どもの様子を見取って、頑張らせるか無理をさせないかの按配を調整してあげることが必要になることも多いです。ロシア(ソ連)の発達心理学者であるレフ・ヴィゴツキーは、子どもがちょうど少し頑張れば課題を達成できるというレベルの領域を「発達の最近接領域」と名付けました。子どもにとっての「発達の最近接領域」を見極めて、子どもにちょうど良い按配で頑張らせることは、教師の重要な仕事の一つであるといえるように思います。
これは、私が小学校1年生の担任を受け持ったときの話です。台風の目(4人組を同じ組数つくったチームをいくつかつくり、4人組で横一列に並んで棒を持って走り、コーンを回って戻ってくるのをリレー形式で回していき、相手チームよりも早くゴールできたら勝ちという運動会では定番の競技)の練習をしていたときのことでした。4人で一緒に棒を持って走るのが一年生には少し難しく、本番間近になっても、タイミング良く棒を持てなくて置いていかれてしまったり、コーンを回るところでうまく連携が取れずにものすごく遠回りをしてしまったりする組があったりしたので、運動会練習の時間割とは別に、クラスで1時間体育の時間をとって、台風の目の練習をすることにしました。
練習を何度か重ねていくと、タイミング良く棒を持つことができるようになり、タイムも良くなってきました。
タイムが2分40秒台、2分10秒台、と縮まってきて、ちょうど、次にタイムが伸びれば、1分台のタイムが出るのではないかというところになって、「よーし、次は1分台のタイムが出せそうだ!もう一回やってみようか!」と子どもたちに声をかけると、子どもたちはみんなやる気満々です。
そんな中で眉毛をハの字にしている子が一人。その子はポツンとつぶやきました。「休みたい。」
冷静に考えてみれば、まだ授業の時間は残っていたので、一旦休憩をとってからもう一度挑戦すればよかったのかもしれません。けれども、そのときは、「次は1分台だ!」というクラス全体の勢いがあり、その子の「休みたい。」は、なんだか少し場違いの発言であるかのように響きました。
さて、こんなとき、あなたがこのクラスの担任の先生だったらどうするでしょうか。「あと一回、我慢して頑張れ!」と言って、練習に参加させるでしょうか。あるいは、「横で休んでていいよ。」と優しく声をかけるでしょうか。
私は、その子に対して、「よし、じゃあ教室に戻っていいぞ。」と言いました。普通に考えれば、何も教室に戻るところまで言わなくてもよさそうですが、私はこのように言いました。でも、その子は教室に戻ろうとはしません。私は、さらに続けて、「せっかくみんな頑張ろうとしてるのに、一人休んでいたら、みんなの気持ちが下がっちゃうから、休んでていいぞ。」と言います。しかし、その子は、口をへの字に曲げて、体をクネクネと動かすばかりで、その場を動こうとしません。
そのうち、すぐにでも台風の目をもう一回やりたくてたまらない他の子が、その子に「無理しなくていいから教室に戻って!」と言い始めます。けれども、それは、休みたいと言っているその子への優しさからではありません。自分が台風の目を早くもう一回やりたいからそのように声をかけたのです。だから、それに対して、私は、「今のは優しさなの?」と問いました。そして、「自分が早くもう一回やりたいから無理しなくていいと声をかけるのは、自分の都合で、相手を思ってのことじゃないはずだ。」と言いました。声をかけたその子からすると、先生の意図を察知して、自分の都合に合わせてうまくいい事を言ったはずなのに、それは違うのではないかという趣旨のコメントをされ、戸惑ってしまうばかりです。ここで、私は、休みたいと言った子に成長してほしいと思っただけでなく、休みたいと言った子の周りの子にも、この場合の思いやりとは何かを考えられるようになってもらいたいと思いました。それで、休みたいと言った子にどう働きかけたらいいかを自分たちで考えられる場をつくるために、私は、「次の練習をどうするか、自分たちで考えてきめてみな。」と言って、ステージの上にちょこんと座って待ちました。
「教室に戻って!」と言った子を中心に、周りの子たちが、休みたいと言った子と相談を始めます。「どうしたいの?」と聞いたり、「どうしたらいいんだろう。」と考えたり、試行錯誤しています。その間、私は、何も言わずに、その相談を見ています。
話が大方まとまったところで、一人の子が、休みたいと言った子のことについて、「教室に戻るって。」と伝えてきました。私は、その子に、本人に直接伝えにくるように言ってくれるようお願いをしました。すると、休みたいと言った子が、少し声を震わせながら、小さな声で、「教室に戻ります…。」と言いに来た。
そして、肩を落としながら、くるっとまわって、とぼとぼと教室へと歩き出しました。
そこで、私は後ろからその子に言いました。「音楽会では、練習の半分でお腹が痛いから休むと言っていたあなたが、運動会の練習では一度も休むと言わずに頑張ってきたのに、最後の最後で休んじゃっていいのか!?」
すると、その子は、ピタッと歩くのを止めて、もう一度、くるっと回り、私のところに来ました。そして、「もう一回やらせてください。」とはっきりと言ったのでした。
すると、クラスの他の子たちは、その子を歓迎して、「みんなでもう一回がんばろう!」と士気を高めて、最後の練習に取り組みました。
台風の目の最後の結果は、2分2秒で、ぎりぎり1分には届きませんでした。けれども、ここで最後のもうひとふんばりができたことは、この子にとって、大きな力になったのではないかと私は思っています。
このときの私の対応が正しかったかどうかは分かりません。きっと、教育の具体的な場面でただ一つの正しい正解の対応なんてありません。けれども、無理をさせずに休ませるという選択をして、もうひとふんばりする力をつけさせられないでもなく、無理に大丈夫だと言って集団の中に投げ入れてしまうのでもなく、自分で一歩を踏み出させることができたことは、その子にとって意味のあることだったのではないかと思います。
無理に頑張らせるでもなく、頑張ることを放棄させるでもなく、自分で意味のある一歩を踏み出せる道をつくってあげること。この事例が本当にそれができたことになるのかどうかは分かりませんが、そんなことを大切にしてあげたいと思います。

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