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素朴に「いいなぁ」と感じるものが、本当によいもの。〜『オリジナル地域教材でつくる「本気!」の道徳授業』を読んで〜

はじめに

今回の記事では、藤原友和・駒井康弘 編『オリジナル地域教材でつくる「本気!」の道徳授業』小学館、2022年。(https://amzn.asia/d/iX9EpTn)を読む中で考えたことを書こうと思う。

先日、X(旧Twitter)のスペースで、著者の藤原友和さんとお話しさせていただく機会があり、この著書をプレゼントしていただいたのが、この著書を読み始めたきっかけだった。

この著書と出逢わせていただいた藤原友和さんには、心からの感謝を伝えたい。

ただ、僕には、「書評」というようなカッコイイものを書くことは難しいので、この著書を読んでぐるぐると考えたことを書くというスタイルをとろうと思う。

「いいなぁ」と感じる授業実践

僕が、教員をする中で、大事にしていることがある。

自分の素朴な感覚を大切にするということだ。

素朴に「いいなぁ」と思うものは、なぜそう感じたかを考えていけば、それが「いいなぁ」と感じられるものである何かしらの理由に行き当たるし、素朴に「何か違和感を感じる」と思うものは、なぜそう感じたかを考えていけば、何に違和感を感じているのかということの何かしらの理由に行き当たる。

だから、タイトル(素朴に「いいなぁ」と感じるものが本当によいもの)に書いた通り、素朴に「いいなぁ」と思うものこそが、自分にとって本当によいと思うものなのだと思う。

なぜこんな話をしているかというと、端的に言えば、『オリジナル地域教材でつくる「本気!」の道徳授業』で紹介されている授業実践が「いいなぁ」と感じたからだ。

著書を読み進める中で、自然と「いいなぁ」と感じられるものにたくさん出会うことができた。

読書経験で感じたことの時系列

しかし、最初から「いいなぁ」と感じたのではなかった。

この著書を読み始めて、最初は、疑問が浮かんできてモヤモヤしていた。

僕の読書経験の時系列で感じたことを整理すると、こんな感じだった。

①冒頭を読んで疑問が浮かぶ。(モヤモヤ)

②思ったことを書き出す。(以下に書く内容)

③授業実践を読む。(「いいなぁ」と感じる)

④軽率に①②をしたことを反省(自己内対話)

⑤とにかくこの経緯を書いてみる。(⇦今ココ)

②と③のあいだに、妻との対話があり、そこでの示唆が大きかったので、そのことも、少しこのあとで書くけれども、僕の中では、こういう時系列でこの著書の読書経験は展開された。

そういうわけで、ここからは、この経緯を辿っていこうと思う。

郷土愛を涵養することをめぐって

この著書は、以下の章構成になっている。

はじめに
第1章 なぜ地域教材の開発が必要か
第2章 「ひと・もの・こと」でつくる地域教材の開発プロセス
第3章 地域教材を活用した道徳授業の実践例
第4章 地域教材と他教科等との連携のあり方
おわりに

要約的に示せば、第1章で、地域教材を開発する必要性(過疎化の問題や、身近な教材を使うことの意義など。)が示され、第2章で、実際に地域教材を開発する手順(注目するポイントや、類型、発問構成の仕方など。)が紹介される。
そして、第3章と第4章で、授業実践例(第3章)と他教科との連携(第4章)という具体的な実践が展開される。
そういう構成になっている。

僕は、最初、第1章と第2章を読んで、モヤモヤしていた。

そして、ゴチャゴチャといろいろ書き出していた。

まずは、そのとき書いたものを、そのまま書き出してみようと思う。



藤原友和さんから著書をいただいたので、今、一生懸命、読んでいる。
著書によれば、「地域教材による道徳科」のメリットの一つとして、「「まち」を支える大人として必要な郷土愛を涵養することができる」ということがあげられる。

井上達夫の『他者への自由』で展開されている正義論を支持する僕としては、この部分がとても気になる。

というのも、教育によって子どもに郷土愛を涵養するということは、リベラリズムの文脈で考えると、共同体の共通善を重視するコミュニタリアニズムの発想に思えるからだ。

『他者への自由』の中で、マイケル・サンデルの共通善の政治学が、個人がアイデンティティを持つ存在であるということを認めつつ、共同体の共通善を個人に押し付けることを不当に正当化してしまっていることが批判されている。

井上達夫は、個人が、「解釈的自律性(interpretive autonomy)」を持つ(自分で共同体の共通善を解釈する)存在であることを認めると、共同体の共通善を個人に押し付けることを是とするサンデルのコミュニタリアニズムの論理は自壊すると指摘している。

この観点で考えると、「地域教材による道徳科」によって「郷土愛を涵養すること」については、どのように考えられるだろうか。

「地域教材による道徳科」を、共同体の共通善を個人に押し付ける教育として、井上達夫のリベラリズムの立場から批判することは可能なのか。

僕は、その答えは、最終的には、教師が「地域教材による道徳科」をどのように実施するかという子どもとの関係性のうちに求められるように思う。

①教師が共同体の共通善を伝え、②その価値観を大切にしてほしいと願うあまりに、③それを正しい価値観として押し付けてしまうのであれば、それは、リベラリズムの立場からの批判は免れないだろう。

けれども、リベラリズムは、③を批判するのであって、①や②までをも批判するものではないのではないかと思う。

また、国家の政策によって、地域の過疎化が促進していることを考えれば、リベラリズムの立場から①②を抑制してしまうことは、むしろ、リベラリズムの普遍主義的な正義の原則によって共同体の共通善を不当に攻撃することになりかねない。

平等よりも自由を重視するロバート・ノージックのリバタリアニズムの立場においても、「ユートピアのための枠(A Framework for Utopia)」という枠組みの中で、それぞれの共同体がそれぞれの共通善に従って共同体を活性化させようとすることには、肯定的な評価がなされていた。

ジョン・ロールズを始めとする平等主義的なリベラリズムの立場からすれば、地域格差の是正という観点からしても、なおさら、①や②は正当化され得るように思う。

では、①教師が共同体の共通善を伝えることや、②その価値観を大切にしてほしいと願うことを是としながらも、③それを正しい価値観として押し付けることを禁止するということは、どういうことなのだろうか。

これを教師論として引き受けるのであれば、それは、教師が自分の価値観や知識を子どもに伝えつつ、子どもがそれをどのように受け取るのかということについての受け取り方の解釈の自由を認めるということであるように思う。

つまり、結論としては、リベラリズムは「地域教材による道徳科」そのものを受け入れつつ、「地域教材による道徳科」によって教師が子どもに特定の価値観を押し付けてしまうことを禁止するということになるように思う。



以上が、僕が、この著作の第1章と第2章を読んだときに考えて、ゴチャゴチャと書いていたことだ。

けれども、僕は、妻と対話し、第3章と第4章を読んで、この所感を持ったこと自体を反省することになる。

妻との対話

実は、この所感を書いたとき、僕は、少し「面白いことが書けた」と、いい気になっていたところがあったように思う。

リベラリズムの話は、僕が卒論で取り組んだ内容で、その知見を生かしながら、道徳性の涵養について思索を深められたことに満足していた。

ただ、これを公開していいものだろうかという躊躇もあった。

それで、「こんなこと考えたんだけど、どうかな?」と、妻に見せてみた。

すると、妻は、とても分かりやすく、僕のこの文章の問題を指摘してくれた。

「Aと言っているものに対して、Aとは違う土俵のBという立場から批判しているように感じる。」

一言でまとめると、妻は、僕にこういう趣旨の指摘をしてくれた。

つまり、このコメントの意図はこうだ。

A(地域教材でつくる授業づくり)の話をしているこの著書に対して、B(リベラリズムの立場からみる道徳性の涵養の妥当性について)の話をするのは、外在的批判(内側からこの著書の営みを見ずに外野から[無責任に]批判するもの)になっている。

そういうことを言われたのだ。

たしかに、その通りだった。

僕は、そこから、なぜそうなってしまったのかということを自分の生育歴から考え始めた。

妻の指摘をきっかけに、僕は、自分の生育歴を振り返り、最終的に、軽率な考えをしていたと反省した。

そういうわけで、ここからは、僕の生育歴の話になる。

少し脱線した話になるが、興味のある方は、是非、お付き合いいただきたい。

コスモポリタンとしての僕

この著書に対して、僕が外在的批判(内側からこの著書の営みを見ずに外野からする[無責任な]批判)しかできなかったのは、僕が郷土愛の問題圏にいない人間だからだと、妻からのコメントを受けて思った。

郷土愛の問題圏にいないということの意味は、3つある。

①僕が、生育環境上、一つの場所に定住したことがなく、自分自身が郷土愛に乏しい人間だということ。

②僕が、個体的に、土地に疎い人間だということ。

③僕が、過疎化や統廃合の問題と向き合わざるを得ない環境で地域に根差して生活していないということ。

この3つだ。

これについて、少し詳しく書いてみよう。

まずは、①について。

僕は、幼少期から、いろんな場所を転々として育ってきた。

僕は、生まれてから、小学校4年生まで京都で育つも、家族で一人だけ東京に連れてこられて、それ以降は、東京のいとこの家で過ごした。

その後、中学生になってから、家族が東京へ移り住んできて、そこで一緒に生活するも、中学校までの人間関係があまり上手くいかなかったことから、高校は中学校の知り合いがいない学校を選んだ。

そして、大学で埼玉に移り、大学院の修士課程まで埼玉で過ごすも、博士課程で東京に移った。

その後、埼玉県の教員をするも、体調を崩して半年で辞めてしまい、長野県に移る。

何もできなかった半年間を経て、長野県で2年間教員をしてから、東京都の教員採用試験に合格して、東京に移る。

東京で2年間、正規の教員をするも、妻との結婚のために、東京都の正規の職を辞めて、長野に移る。

そこから、半年間で、また東京に移ることになる。

そして、東京に移ってきて、今、ようやく1年が経ったところだ。

僕は、定住したことがない。

そういう意味で、僕には、愛するべき郷土と呼べるような場所がない。

だから、僕には、郷土愛という感覚があまりよく分かっていないのだ。

次に、②について。

即物的な人間で、ASD傾向がある自分には、その土地やその土地で生きた人に思いを馳せることが難しい。

僕は、今でこそ、あえて教科の枠でとらえるなら社会科に近いようなもの(歴史学や哲学)に興味があるけれども、子どもの頃は、社会科が苦手だった。

中でも、地理は、一番苦手だった。

だから、地理は、固有名詞を片っ端から頭の中に叩き込まれているような感覚で、とてもしんどかった。

そういうわけで、郷土を知り、そこから何かを感じ取り、それを愛するということが、個体の能力という観点からみても、僕は苦手なのだと思う。

つまり、環境的にも個体的にも、郷土愛の感覚を持つのが難しい人間だったのだと思う。

最後に、③について。

過疎化の問題が深刻化した地域に定住していないということが、切実な問題としての実感の薄さを生んでいるように思う。

僕の教員としての基盤をつくってくれた、長野県の小学校(ここで初めて担任として1年間やり切る経験をし、同じ学年[=同じクラス ※単級の学校のため]を持ち上がりで2年間持たせてもらった。)は、今年度(2023年度)の初めに統廃合してしまった。

僕が赴任するときには統廃合することは決まっていたが、それでも、いざ、統廃合されたときには、悲しい気持ちになった。

新自由主義教育政策による学校の統廃合の問題については、大学時代に理論的にも少しは学んできた。

長野県の小学校で、その問題のリアルを体感した。

だから、過疎化や統廃合の問題に対する問題意識はある。

けれども、僕は、そこに定住しているわけではない。

ずっと、その地域の小学校で教員をしているわけではない。

今は、東京で教員をしている。

だから、きっと、地域に根差して生活し、過疎化や統廃合の問題と、その土地に定住して向き合っている人とは、問題をとらえる切実さが違うのだと思う。

今も昔も、土地に根付くことができずに、根無し草として彷徨っているコスモポリタン。

そんな僕は、きっと、郷土愛の問題圏にいない人間なのだと、そんなことを思った。

だから、そんな僕が、過疎化や統廃合の問題と実生活の中で向き合いながら地域に根差して生きている人たちが本気で取り組んでいるものに対して、「共同体の共通善の押し付け」だなどと軽はずみに言ってはいけないのではないかと、そう思った。

それで、僕は、リベラリズムの立場からの考察を書いたことをすごく反省した。

実践例のインパクト

ただ、僕が第1章と第2章だけを読んでゴチャゴチャと書いたことを反省したのは、妻との対話と自分の生育歴の振り返りのみによるのではなかった。

僕が本当に反省したのは、この著書の第3章と第4章を読んでからだった。

それくらい、僕にとって、この著書で紹介されている授業実践のインパクトは大きかった。

それを、実感としての言葉で表すと、「いいなぁ」と感じたという言葉になる。

僕は、この著書の実践例を読んでいて、「面白いな」「もっと考えたいな」という感情が自然と湧き上がってくる感じを覚えた。

子どもがこの授業を受けたら、自然とそういう感情が湧き上がってきそうだなと感じたのだ。

そして、それは、共同体の共通善を押し付けるということとは無縁のものであるように思った。

だから、僕は、リベラリズムの立場からの考察を書いたことをすごく反省した。

僕の考察は、積み重ねられた実践の前では、すごく薄っぺらかったのだ。

「「まち」を支える大人として必要な郷土愛を涵養することができる」という言葉に反応してゴチャゴチャ言っていた自分が恥ずかしくなった。

とはいえ、大学生時代の自分だったら、ここで引き下がりはしないような気もする。

「いや、やっぱり、価値観を押し付けることはよくないことなのであって、実践例が「いいなぁ」と感じられることは、学校教育において道徳性の涵養が許されるということの根拠にはなり得ないのではないか」というようなことを、大学生時代の自分なら言いそうなものだ。

そんなわけで、そのような反応に対してどのようにして応答することができるのかを考えることを通して、この著書で紹介されている実践例は、なぜ「いいなぁ」と感じられるのかということに迫ってみたい。

題材の選定

郷土愛の涵養を目的とする道徳授業が、価値観の押し付けになるのかどうかということについては、実際のところは、僕は、題材の選定にかかっているのではないかと思う。

戦後の教育学においては、学校の道徳授業が国家権力による特定の価値観の強制になるとする批判がさかんに行われてきた。

けれども、題材の選定において、きちんと配慮をし、適切な準備をすれば、特定の価値観の強制にはならないのではないかと思う。

たとえば、この著書で実践例として紹介されている「貴重な資料を守った図書館人・岡田健蔵」や「笹餅で人を幸せにする桑田ミサオさん」は、特定の人とその人の功績を取り上げているけれども、授業の中で紹介されている部分は、何か特定の政治や宗教などとは一切関係がなく、何か特定の価値観へと誘導するものではない。

どちらも、取り上げた人物が、人として優れたことを行なった事実を丁寧に分かりやすく伝えている。

そして、それを教員が無理矢理価値づけたりせずに、事実をもとにしてどう感じるかは、子どもに委ねている。

そうすることで、自然と、子どもたちが、身近に感じられるような地域の人物について思いを馳せ、価値づけることができるような授業構成になっている。

この著書の中でも、実際、価値の押し付けをしてはならないということが、以下のように指摘されている。


「最後の『終末』の段階は、『ねらいとする道徳的価値に対する思いや考えをまとめたり温めたりする段階』です。ここで大切にしたいことは、教師がまとめてしまうと途端に『価値の押し付け』の色合いが強くなってしまうことです。」(p.37)

「どうしてもまとめたくなったら、せめて、『今日の学習では、…という意見や、…という考え方が多かったようですね。それがクラス全体としての傾向だとして、あなたはどのようなことを学びましたか?』と、個人に返す配慮が必要なのではないかと考えています。」(p.39)


このように、事実を伝えられた子どもたちが、自分でその事実を価値づけることが大切にされている。

これができるのは、ここに至るまでに事実として伝えることの選定がとても上手くなされているからだと思う。

たとえば、その人物が結局何をしたのかがよく分からないような事実の説明をしてしまったり、特定の立場からしか価値づけるのが難しいような題材を選んでしまったりしていたら、授業の最後に安心して子ども個人に返すことが難しくなってしまうのではないかと思う。

誰にとっても、これは、地域のため、ひいては、社会のためによいことであると感じられるような題材を選ぶこと、そして、授業を受けている誰もがその価値を実感できて、それでいて、当たり前過ぎてつまらないようなものではなく、いろんな角度から価値づけることができること。

そういうことが、重要なのではないかと思う。

これは、実際に教材を選定するとなると、とても難しい。

なかなかピッタリな条件は見つからないのではないかと思う。

でも、そういう条件が揃った教材を適切に提示され、授業を受けると、最後には、内容が面白くて、そこからいろいろなことが考えられて、「いいなぁ」という感じになる。

そういうものなのではないかと思う。

おわりに

雑多なことを書いてしまった。

この著書は、きっと、函館・青森授業づくりの会の方々が、丹精を込めて授業実践をし、実践報告や検討をし、事例へとまとめたものが、著書として結実している。

その事例を類型化したり、価値づけたりする編者の労も重ねられている。

そう思うと、いよいよ、そこに対して全くコミットしていない僕が、こんな雑多なことを徒然なるままに書いてしまって本当にいいのかということが、とても心配になる。

著書の魅力は十分に伝えられていない気がするし、余計な自分語りのノイズがいたるところに散りばめられているし、勝手なことを書いている感が否めない。

いや、たしかに、最初にこの著書を読んでぐるぐると考えたことを書くと宣言している。

けれども、そうだとしても、だ。

そういうわけで、僕としては、「いい加減なことを書きやがって」とか、「著書を肴にベラベラと自分語りしやがって」とか、そういう批判を受けたら、すぐにでも投稿を削除しようという気満々でいる。

でも、一方で、この著書に対して、実践例を読む前の僕と同じような軽率な批判をする人がいたら、その人に対しては、本気で反論をする気満々でもいる。

それくらいに、僕は、この著書に感銘を受けている。

そういうわけで、この記事もそろそろこのあたりで終わりにしよう。

この記事を読んで、『オリジナル地域教材でつくる「本気!」の道徳授業』が気になった方は、是非、ご購入を!

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