運動会に思う。

今回の記事は、特別支援教室(通級)の担当だったときに書いた記録。
夏休み明けに運動会が開催されるという学校もあるだろうと思う。
運動会が子どもにとってどんな行事なのかということを、改めて考えるきっかけにしていただきたい。

今日は、新しい学校で初めての運動会だった。小雨だったため、表現のみでの開催だった。最後は、5・6年生の鼓笛隊と6年生の組体操(個人技)が体育館での発表にもなった。
通級の担当をしていると、自分のクラスを持つわけではないので、担任のときとは少し違った心持ちだった。担当の子がそれぞれの学年の発表で頑張っているのを見守る気持ちは、その子の親の気持ちに近いかなと思った。もちろん、親とは思いの寄せ方は違うかも知らないが、その子一人に注目して応援してしまうという意味では、親と同じような見方をしていたように思う。
また、担任をしていると、運動会が終わるとクラスで練習してきた日々がしみじみ思い出されて、なんだか感傷的な気分になったりするが、あまりそういう気分にはならなかった。発表を観て、担当の子の頑張りに 心が温かくなったり、6年生の発表に心を動かされたりはしたが、担任のときに味わったあの感覚は、今回はなかったように思う。どちらが良いというものではないが、担任と通級では、運動会が終わったときの自分の気持ちのあり方に違いがあるのを感じた。
担任として運動会が終わったときに感じる、その日までのストーリーが頭の中を駆けめぐって、「あぁ、がんばったなぁ」という気持ちとともに訪れるあの喜びも好きだけれども、担任よりも冷静な気持ちでいられながらも、一人一人の担当の子の、苦手なりにがんばったとか、一緒にステージに立てたとか、そういうところに焦点を当てられる通級担当としての喜びも良いものだと思った。運動会を美化してしまわずにいられるからだ。担任をしていると、一緒にクラスの子どもたちと頑張ってきた思い出を背負ってしまうから、どうしても、運動会を美化して記憶に留めてしまう。みんなにとって楽しかった最高の運動会として意味づけたくなってしまう。けれども、本当は、運動会を楽しむ多くの子の中にも、運動会が苦手で苦しんでいる子たちがいるのだ。幼少期の自分は、そのうちの一人だった。
運動会が終わると、いつも思う。この運動会という行事を観て楽しんだり、感動したり、活躍して喜んだり、頑張りを噛み締めたり、そうやって、良いものとして運動会を意味づける人たちとは全く違った意味づけ方をしている人たちがいるはずで、その人たちの意味世界は、運動会を良いものとして意味づける人たちの意味世界とは乖離してしまっているんだろうなぁということを。運動会が、意味世界の乖離可能性をもつ行事であるということを忘れずにいたい。実演者ではない大人という外の立場から関わって、どんなに「運動会、よかったな」という気持ちになったとしても、その感情だけが運動会のすべてではないということを忘れずにいたい。今日の運動会には、運動会を苦しい経験として受け取った子どもたちがどれだけいたんだろう。そこにも想いを馳せられる自分でありたいと思う。
けれども、自分は一人の教師として、これからも運動会に携わっていくだろうし、それを良きものとして位置づけていくだろう。一人でも多くの子どもたちが運動会を良きものとして位置づけられるように、運動会を良きものと位置づける世界へと誘う役割を引き受けていってしまうだろう。それは、幼少期の苦い経験を糧にし、教育の世界を根本的に覆すことを企てて教師になったラディカルな自分を懐柔することになるだろうか。それとも、現実を直視して、実効的な運動会の改善に寄与していることになるだろうか。自分はいつも、自分がこの二つのどちらの立場をとっていることになるのか考えてしまう。答えは分からないけれども、運動会を楽しい経験と受け取った子どもたちも、苦しい経験として受け取った子どもたちも、いつかそれとは異なる見方の世界があることを知ってほしい。彼ら彼女らの中で、いつか意味世界の乖離の溝にかけはしがかかればいいなと思う。

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